043 書架の森 二人の行方⑤
冬の陽は鋭く、雪を白く灼いていた。
シルヴァとウィラードは、老人たちとともに山を登っていた。――あの日、ふたりが倒れていた洞窟へ向かうためだ。
山道には薄く雪が積もり、踏みしめるたび、乾いた音が静寂を裂く。
前を行く老人たちは、背を丸めながらも、確かな足取りで進んでいた。白く曇った息が、ひとつ、またひとつ、陽光の中に溶けて消えていく。
やがて木々が途切れ、斜面の陰にぽっかりと黒い口が現れた。
かつて鉱山だったというその洞窟は、入口の周囲だけ雪が積もらず、地面の石がむき出しになっている。
暗闇の奥からは、凍りついたような気配がじわりと滲み出し、外の光とせめぎ合っていた。
老人たちはためらうことなく、黒ぐろとした入口へ歩み寄る。
シルヴァとウィラードもその背を追い、冷たい影の中へ足を踏み入れた。
洞窟の中は、外よりもいくぶん温かい。
けれど、そのぬるい空気には湿った石の匂いがしみついていた。壁を伝う水が滴り、土に落ちる音が静かに響く。――その音が、やけに大きい。
老人たちは慣れた様子で、灯を掲げて進んでいく。
天井の低い坑道には、古い木の梁が渡され、錆びた鉄具がまだ原形をとどめていた。
灯の明かりが岩肌をなでるたび、影が波のようにうねり、奥の闇へ吸い込まれていく。
やがて、空気の流れが変わる。
微かな風が頬を撫で、足音の反響が柔らかくなる。通路の先に、広い空間がぽっかりと口を開けていた。
足元には、燃えかすの黒い痕が散っている。
見覚えのある跡だった。――ここが、あの日ふたりが倒れていた場所だ。
「……俺たち、ここで倒れてたんだよな」
老人たちは静かにうなずく。
一人が壁に近づき、シルヴァを手招きした。
「お前さん、ここの壁に触れてみなさい」
シルヴァは息を整え、恐る恐る手を伸ばす。
指先が湿った岩に触れた瞬間、波紋のような光が走った。
ひと筋、ふた筋――やがて光は枝を広げるように天井へ昇り、広間全体が緑に染まっていく。
石の柱が祭壇のように浮かび上がり、崩れかけた壁は古代の文様を宿して淡く輝いた。
「……なんだ、これは」
シルヴァは手を離せずにいた。
光は脈打つように明滅し、ぬるい空気が生き物の息のように動く。
ウィラードはうっとりと光を見上げ、夢の底に沈むような表情をしていた。
「ここは孔雀石の鉱山じゃよ。孔雀石の原石は、〈アレスル〉が触れると輝くのじゃ」
「孔雀石って、聖剣にはめられてるやつか?」
「そうじゃ。孔雀石は七聖家の者しか持つことを許されなかった。魔道の象徴とも言われ、ここでしか採れん。――もっとも、今は掘る者もおらんがな」
この大陸では、かつて他の青緑色の石も孔雀石と呼ばれていた。
だが、エル・カルド産の孔雀石が知られるにつれ、それこそが“本来の孔雀石”とされ、従来のものは緑青石と呼ばれるようになったという。
シルヴァが壁から手を離すと、光はみるみる弱まり、再び蝋燭の灯りだけが暗闇に細く揺れた。
「やはり、お前さんは〈アレスル〉じゃな」
「だから、言ってるだろ」
シルヴァは顎をかきながら、まとわりつくような空気に小さく息を吐いた。
「お前さん。本当に、どうやってここへ来たのかわからんのか?」
シルヴァは蝋燭を祭壇の岩に置き、壁を指でなぞった。
蛍火のような光が、指先のあとを追って浮かび上がる。
「俺たちは聖剣の間で、いきなり魔道陣に飲まれたんだ。多分、転移の魔道でここへ飛ばされたんだろうな」
暗闇を見上げながら、老人たちは口々に語り合う。
「もともと、エル・カルドとここは行き来があったんじゃ。古い転移の魔道符が残っていたのかもしれん。調べれば、何かわかるかもな」
「そうすれば、帰る方法も見つかるかもしれん」
「そうか。でも、何をどうやって調べるんだ?」
「その前に――お前さんたちは、魔道を使えるようになりたいか?」
「いや、別に」
シルヴァは即答した。
老人たちは顔を見合わせる。
魔道は七聖家の特権であり、アレスルなら当然持つべき力だった。
「ああ。俺はもともと、使えないのが普通だったからさ。無くても困らない。それに、魔道が当たり前に使える世界って……想像しづらいんだ」
シルヴァが祭壇の岩に腰を下ろすと、仄かに光が揺らめいた。
「だって、転移の魔道が使えたら、人攫いし放題だろ。闇討ちも簡単。人を攻撃する魔道だってあるんだろ? 誰が、どうやって歯止めをかけるんだ?」
沈黙。
誰も口を開かず、洞窟の奥で水滴が落ちる音だけが響いた。
「お前さんは、どうじゃ?」
老人たちはウィラードに視線を向けた。
「僕は……あまり考えたことがないけど、シルヴァの話を聞いたら、そうかなって思う」
老人たちは互いにうなずき合う。
「お前さんたち、こっちへ来なさい」
二人は老人たちのあとを追い、坑道を出た。
山道を下り、集落を抜け、森の奥へと入る。
そこには、緑の苔に覆われた石造りの建物があった。
朽ちかけてはいたが、この寂れた地には不釣り合いなほど壮麗だった。
老人の一人が、紐のついた棒をシルヴァに渡し、扉の穴に差し込むよう促す。
棒を差し込むと、分厚い扉が重々しい音を立ててひとりでに開いた。
魔道の力だった。棒の先には小さな孔雀石が埋め込まれており、それ自体が魔道符――扉の鍵であるらしい。
中に入ると、台座の上に置かれた巨大な孔雀石が、温かな光を放っていた。
その魔道符に、シルヴァは見覚えがあった。ディランに見せられたものと構造は違えど、根は同じだと直感した。
「これは、結界の魔道符か? この流刑地の結界を司っているのか?」
「そうじゃ。この魔道符自体も結界に守られておる。触ると怪我をするぞ」
さらに奥の扉を開くと、そこは書物で埋め尽くされた広間だった。
高い天井まで続く書架が壁を覆い、さらにその前にもいくつもの棚が立ち並ぶ。
――まるで「書架の森」だった。
羊皮紙や紙の本だけでなく、木板、石版、粘土板まで、あらゆる素材に文字が刻まれていた。
空気は乾いて重く、長い年月の埃がわずかに光を帯びて漂っている。
「なんだ、ここは……書蔵庫か?」
「すごいね。全部、書物なの?」
「そうじゃ。ここにはエル・カルドに伝わる歴史書と魔道書が収められておる。――どちらも、七聖家が長く隠してきたものじゃ」
シルヴァとウィラードは視線を交わした。
隠す理由が、わからなかった。
「言葉も文字も、時とともに変わる。昔の書は、代々写しを作って受け継いできた。それは、かつてアレスルの役割の一つでもあったのじゃ」
かつてアレスルに求められたのは――知の継承。
「ここにある書を遡れば、古代の文字も読めるようになるかもしれん。――もっとも、そんなことをする者も、もうおらんがな」
老人は皺の深い手を握りしめた。
「お前さんたちの言う“エル・カルドの封印”が解けてから、人も物もここへ来なくなった。儂らはずっと……忘れられておったのじゃ」
そう言って、老人は書蔵庫の鍵を差し出した。
「儂らはもう歳じゃ。いつ死ぬかわからん。だから、これをお前さんたちに託す」
「じいさん、俺たち、こんなもん貰っても……」
「お前さんたちは、ここを出ていかねばならんのじゃろう? だが、この結界に閉ざされた地からどう出るのか、儂らにもわからん。書物を調べるしかあるまい」
「ええ……これを、調べるのか?」
シルヴァはそびえる書架を見上げた。
長く眠っていた書物たちは、「読んでくれ」と囁いているように見えた。
「昔、〈アレスル〉は流刑地とエル・カルドを行き来していた。お前さんたちも魔道でここへ来たのなら、方法はあるはずじゃ」
「アレスルでなくとも、ここから出ていった者もいた。――無事かどうかは、わからんがな」
「出ていった人間?」
「昔の話じゃ。ここも、儂らが死ねば永久に忘れられると思っておったが……まさか今になって外から人が来るとは」
「もともとこれはお前さんたち、七聖家のものだ。――さあ、ここにあるもの、好きに読め」
老人たちは、シルヴァの手に鍵を握らせた。
肩の荷を下ろしたような穏やかな顔で、建物をあとにする。
残された二人は、ただ呆然と、部屋を埋め尽くす書物の森を見回していた。
埃の匂いと、孔雀石の光が静かに混ざり合う。
世界の記憶が、ゆっくりと息をしていた。




