041-2 帝都の仕立て屋 ローダインにて⑥
リンゴ草の香りが部屋いっぱいに広がっていた。帝都の午後は静かで、音が消えていくようだった。
エディシュが屋敷へ戻ると、母オーレリアが湯を注ぎながら顔を上げた。淡い湯気がゆらめき、白い壁を柔らかくぼかす。
「久しぶりの帝都は、どうだった?」
「まだ、何かついて行けない」
「そう。お友達とは会わないの?」
「いい。どうせ、子育ての話か、結婚生活の愚痴ばっかりだから」
オーレリアは微笑み、蜂蜜を一匙、カップに落とした。琥珀色が沈み、匙が器に触れる音が静かに響いた。
「エル・カルドでは、お父様のお墓参りをしてきたわ」
「――そう。それは良かったわ」
母の手が止まり、蜜の雫が落ちた。
「たくさんの人が弔いの葡萄酒をかけた跡があって、墓碑が紫色になってた。お兄ちゃんも一緒にと思っていたんだけど、急に帰ることになって……」
「……お母様は、どうしてお父様と結婚したの?」
「どうしたの? いきなり」
エディシュがうつむくと、オーレリアは微笑んだ。
「あの頃は、親の選んだ相手と結婚するのが当たり前だったし、それが私の役目だと思ったからよ」
「役目?」
「ええ。あなたのお父様は、もともと平民の出でね。陛下に取り立てられて、大事なお役をされていたの。けれど、有能なだけでは上手くいかないこともある。ゼーラーンの名前があの人の助けになればと思ったのよ」
「ゼーラーンの名前……」
「そう。能力だけではどうにもならないこともあるの。ローダインは出自に寛容だと言われているけれど、それでもね」
「……そんな事、考えたこともなかった。名前が、誰かの助けになるなんて」
「私がそうだったからといって、あなたに同じことを望むつもりはないのよ。あなたには、あなたの結婚があるのだから」
(あたしの結婚……)
エディシュは胸の奥で呟く。母はその様子を静かに見守った。
「まだ、前のことが引っ掛かってる?」
エディシュは黙ってうつむいた。
「今度の方は、あなたが戦場にいたことも、馬に乗ることも承知されているそうよ。だから安心なさい」
「……お父様のことも……悪く言われない?」
「大丈夫よ」
オーレリアの指がそっとエディシュの手に触れた。その温もりは昔と同じで、どこか遠かった。
十日ほど経ったある日、仮縫いが出来たと連絡があり、エディシュとニケは再び仕立て屋を訪れた。扉を開けると、布の匂いが新しく、針箱の金属の匂いがわずかに混じっている。
「これは……」
エディシュのために作られた衣装は、見た目こそ簡素だが、縫い目は真っ直ぐで、裏の始末まで美しかった。袖を通すと着心地が良く、肩も腕も自由に動く。鏡の中の自分は、華やかではないのに、凛として立っていた。金の髪が光を拾い、碧い瞳がわずかに強い色を帯びる。
ニケのためのドレスは、見せられたデザイン帳とは似ても似つかない。首元までしっかり隠す襟のお陰で、彼女の傷はまったく分からない。深い青が褐色の肌を静かに引き立てていた。
「お主、やるではないか」
ニケは満足そうに腕を組んだ。エディシュも思わず笑う。
「あたしもこれ、気に入ったわ」
裾をつまみ、くるりと回った。布が空気をはらみ、窓の光を柔らかく返す。
採寸のときとは違う笑顔が、頬に宿った。
帝都で評判の仕立て屋の噂は、伊達ではなかったようだ。けれど、それだけではない。自分のために仕立てられた衣を、自分の体が受け入れていく感覚――その温かさが胸に灯る。
鏡の奥に映る自分と、ゆっくり目を合わせる。
母の言葉が遠くで揺れた。
――あなたには、あなたの結婚があるのだから。
その言葉の中に、自分を押し込めるつもりは、もうなかった。
白いカーテンが外の風でふくらみ、光の粉が静かに舞う。
帝都の冬空は、遠く澄んでいた。
縫い目の向こうで、何かが静かにほどけていく。胸の奥で、その気配だけが確かだった。




