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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第七章 帝都エゼルウート
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040 思い出の場所 ローダインにて⑤

 コンラッドはジルと別れ、宮殿の外れへ向かった。

 人気の絶えた裏庭を抜け、さらに木々が絡み合う小道を進む。枝葉が頭上でトンネルをつくり、外気が少しずつ冷たくなっていく。

 その先に、常緑樹の影に沈む石造りの建物があった。


 中では、一人の人物が書類の山に埋もれていた。

 赤毛を後ろで束ね、緑の瞳をした色白の文官。男とも女ともつかぬ顔立ちで、手を止めると、コンラッドを見て白い歯をのぞかせた。その笑みは穏やかだったが、どこか人を測るような光を宿していた。


「おお、お帰り。コンラッド。元気だったか?」

「ジーン。私は変わりありません」

 

 ジーンは椅子を軋ませて立ち上がり、書簡の束が床に散った。机の上も下も様々なものが混沌としており、ジーンが動くと何かが崩れる。

 

 紙とインクの匂い、蝋が焦げるような甘い香り。閉ざされた空気が、長い時間をここで過ごした人の体温を含んでいた。


「悪かったね、すぐに会えなくて。陛下の用事で少し出ていたんだ」

「いえ、私たちが予定より早く戻っただけです」


 穏やかなジーンの目が、一瞬、鋭く光を帯びた。コンラッドの背筋が無意識に伸びる。

 だが、その光はすぐに穏やかな笑みに隠された。 


「……何かあったようだね。けれど無事で何より。こちらも人手が足りなくて困ってたんだよ。――今日は一人か? 綺麗な相棒はどうした?」

 

 その笑みに、コンラッドはかすかな違和を覚えた。だが言葉にはせず、背筋を伸ばした。

 コンラッドは、そのままエル・カルドでの出来事を語り始めた。

 

 ウィラード殿下とシルヴァの失踪。第二聖家の不穏な動き。

 そしてディランが現地に残って調査を続けていること。


「本当か。それは助かる。あの地は私たちも手を焼いていてね。クラウスの報告にも疲れが滲んでいたよ。……まあ、ウィラード殿下の教育係からは大した情報も上がらないけれど」


 ジーンは笑いながら、マーマレード入りの温かい葡萄酒を注いだ。

 コンラッドはグラスを受け取り、懐かしい香りを吸い込んだ。


「砦から出した手紙は届いていますか?」


 ジーンは手を動かしたまま、視線を上げずに答えた。


「ああ、読んだよ。捕虜の証言の件だろう? 調べさせる。ただ、少し時間がかかる。フォローゼルへの陸路は閉じられているし、海路は遠い。――ディランには話した?」

「はい」


 ジーンは背もたれに身を預けた。


「なら、いい。あの子は何とかするだろう。……さて、それよりお前さんだ。長いこと国を空けていたんだ。しばらくはここに通って、私の手を貸しておくれ」


 コンラッドは静かに頷いた。

 ここは国内外のあらゆる文書を扱う場所だ。隣室では羽根ペンの音が絶え間なく響き、書簡を運ぶ文官たちの裾が風のように揺れている。


 ジーンはアルドリックの補佐官であり、古い友でもある。

 だが、その年齢も性別も、今も曖昧なままだった。

 尋ねることはしなかった。友であるという事実のほうが、言葉より確かだった。


 ローダインでは戦場の傷で身体を損なう者も多い。

 ジーンがそうだと決めつけるつもりはなかったが――同じ痛みを知っているような気がした。


 ディランのような中性的な容貌は、この国ではしばしば揶揄の的になった。

 帝都にいた頃、彼はそのことで喧嘩が絶えなかった。挑発されれば迷わず立ち向かい、いつもコンラッドが巻き添えを食った。


 自分は悪くないといって不貞腐(ふてくさ)れるディランと、必死で(なだ)めるコンラッドを、ジーンはいつも笑って(かくま)ってくれた。暑い夏には果実水を、寒い冬にはこの温かい葡萄酒を出して。

 

 ここは懐かしい思い出の場所でもあり、コンラッドにとっては、また別の意味のある場所でもあった。


   ◇      ◇


 そのころ、トーマとアルドリックが話している間、

 ジルは中庭の片隅で小さな雪だるまを作っていた。

 手のひらの熱が雪を溶かし、滴が石畳に落ちて小さな影をつくる。

 音のない時間が、やけに長く感じられた。

 滴が消えるたび、胸の奥の音まで遠のいていくようだった。


 やがて、杖をついた老年の男が一人、供の者を連れて歩いてきた。

 その目がジルを見定めるように細められる。

 ジルは慌てて姿勢を正し、石のベンチに腰を下ろした。


「お前、見ない顔だな。だが、いい面構えをしている。どうだ、儂のところで働かんか?」


 思いもよらぬ誘いだった。


「いえ、今はゼーラーン卿の所で厄介になってますので……」

「ふむ。ヴォルフのとこの人間か」


 ゼーラーン卿を呼び捨てにするあたり、この男の身分は高いのだろう。

 そんな人物が自分に声をかけるなど、ジルは夢にも思わなかった。

 ローダインの人々は、出自にこだわらないのかもしれない――そう感じた。


「ところで、お前がさっき連れていた少年。あれは誰だ?」


 トーマのことを、バルドの弟子の吟遊詩人だと説明すると、

 男は短く頷き、何かを考えるように首を傾げ、そのまま去っていった。


 ジルはしばらくその背を見送った。

 胸の奥に、得体の知れないざらつきが残る。


 そこへ、コンラッドとトーマが現れた。

 アルドリックの話によれば、アラナ夫人がトーマに会いたいという。

 ウィラードのことを案じているらしい。


 三人は邸宅へ向かった。

 雪の白さが静かな庭を照らしている。


   ◇      ◇


 アラナ夫人は、長椅子に静かに腰かけていた。

 通訳の女官が不満げな顔をしているが、

 夫人の微笑みは穏やかで、どこか遠い光を宿している。


 トーマが姿を現した瞬間、

 夫人の視線がわずかに止まった。

 空気が揺れたように感じたのは、コンラッドだけだったかもしれない。

 すぐに笑みが戻り、何事もなかったように話が始まった。


「この子が、バルドのお弟子さん?」

「トーマと申します」


 トーマはひざまずき、顔を上げられずにいた。


 夫人は静かにその姿を見つめ、ゆるやかに手を伸ばした。


「そう。まだ若いのに、苦労したのね」


 その声とともに、彼女はトーマを抱き寄せた。

 香の匂いがふっと立ちのぼる。

 冬の光に包まれたような、柔らかな温もり。

 抱かれた瞬間、胸の奥で何かが目を覚ました。


「あなた、吟遊詩人なのね。クラリッツァは弾けるかしら? ウィラードは、ここでよく弾いていたのよ」


 アラナ夫人はトーマの頬に触れ、微笑んだ。

 その仕草に、なぜかトーマの喉が詰まる。


「存じております。エル・カルドで、一緒に弾かせていただきました」


「まあ、そうだったのね」

 夫人は花のように笑みを広げ、女官に命じた。

「誰か、ウィラードのクラリッツァを持ってきて」


 楽器が運ばれ、夫人の手を経てトーマに渡された。


「何か、弾いてもらえないかしら」


 トーマは頷き、弦を整えた。

 ウィラードと弾いたあの夜の旋律を思い出す。

 雪の降りしきる夜、寒さを忘れて弾いた曲。

 誰かと心が重なった、たった一度の夜。


 指が動き始めると、部屋の空気が静まり返った。

 奥の扉から、女官たちが顔を覗かせる。

 やがて最後の音が消える。


 アラナ夫人の頬には、涙が光っていた。

 その涙を拭うこともせず、彼女は微笑んだ。


 長い沈黙ののち、ふとコンラッドを見て言った。


「――この子を、しばらくここに置けないかしら」


 声は穏やかで、それでいてどこか急だった。

 自分でも驚いたように、夫人のまつげがかすかに震える。


 コンラッドは視線を落とした。


「それは……私の一存では何とも。人の口の端に上ることもあるでしょうし……」


 夫人は頷いた。

 その微笑みの奥に、言葉にならない切なさが残っていた。


「では、陛下にお願いして預かるという形にしましょう。それでよいでしょう?」


 声は静かだが、

 どこか確かな響きを帯びていた。

 まるで、失くした何かを取り戻すように。


 コンラッドは何も言えなかった。


 トーマはただ、その場に立ち尽くしていた。

 胸の奥に、理由のわからない温もりだけが残った。


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