040 思い出の場所 ローダインにて⑤
コンラッドはジルと別れ、宮殿の外れへ向かった。
人気の絶えた裏庭を抜け、さらに木々が絡み合う小道を進む。枝葉が頭上でトンネルをつくり、外気が少しずつ冷たくなっていく。
その先に、常緑樹の影に沈む石造りの建物があった。
中では、一人の人物が書類の山に埋もれていた。
赤毛を後ろで束ね、緑の瞳をした色白の文官。男とも女ともつかぬ顔立ちで、手を止めると、コンラッドを見て白い歯をのぞかせた。その笑みは穏やかだったが、どこか人を測るような光を宿していた。
「おお、お帰り。コンラッド。元気だったか?」
「ジーン。私は変わりありません」
ジーンは椅子を軋ませて立ち上がり、書簡の束が床に散った。机の上も下も様々なものが混沌としており、ジーンが動くと何かが崩れる。
紙とインクの匂い、蝋が焦げるような甘い香り。閉ざされた空気が、長い時間をここで過ごした人の体温を含んでいた。
「悪かったね、すぐに会えなくて。陛下の用事で少し出ていたんだ」
「いえ、私たちが予定より早く戻っただけです」
穏やかなジーンの目が、一瞬、鋭く光を帯びた。コンラッドの背筋が無意識に伸びる。
だが、その光はすぐに穏やかな笑みに隠された。
「……何かあったようだね。けれど無事で何より。こちらも人手が足りなくて困ってたんだよ。――今日は一人か? 綺麗な相棒はどうした?」
その笑みに、コンラッドはかすかな違和を覚えた。だが言葉にはせず、背筋を伸ばした。
コンラッドは、そのままエル・カルドでの出来事を語り始めた。
ウィラード殿下とシルヴァの失踪。第二聖家の不穏な動き。
そしてディランが現地に残って調査を続けていること。
「本当か。それは助かる。あの地は私たちも手を焼いていてね。クラウスの報告にも疲れが滲んでいたよ。……まあ、ウィラード殿下の教育係からは大した情報も上がらないけれど」
ジーンは笑いながら、マーマレード入りの温かい葡萄酒を注いだ。
コンラッドはグラスを受け取り、懐かしい香りを吸い込んだ。
「砦から出した手紙は届いていますか?」
ジーンは手を動かしたまま、視線を上げずに答えた。
「ああ、読んだよ。捕虜の証言の件だろう? 調べさせる。ただ、少し時間がかかる。フォローゼルへの陸路は閉じられているし、海路は遠い。――ディランには話した?」
「はい」
ジーンは背もたれに身を預けた。
「なら、いい。あの子は何とかするだろう。……さて、それよりお前さんだ。長いこと国を空けていたんだ。しばらくはここに通って、私の手を貸しておくれ」
コンラッドは静かに頷いた。
ここは国内外のあらゆる文書を扱う場所だ。隣室では羽根ペンの音が絶え間なく響き、書簡を運ぶ文官たちの裾が風のように揺れている。
ジーンはアルドリックの補佐官であり、古い友でもある。
だが、その年齢も性別も、今も曖昧なままだった。
尋ねることはしなかった。友であるという事実のほうが、言葉より確かだった。
ローダインでは戦場の傷で身体を損なう者も多い。
ジーンがそうだと決めつけるつもりはなかったが――同じ痛みを知っているような気がした。
ディランのような中性的な容貌は、この国ではしばしば揶揄の的になった。
帝都にいた頃、彼はそのことで喧嘩が絶えなかった。挑発されれば迷わず立ち向かい、いつもコンラッドが巻き添えを食った。
自分は悪くないといって不貞腐れるディランと、必死で宥めるコンラッドを、ジーンはいつも笑って匿ってくれた。暑い夏には果実水を、寒い冬にはこの温かい葡萄酒を出して。
ここは懐かしい思い出の場所でもあり、コンラッドにとっては、また別の意味のある場所でもあった。
◇ ◇
そのころ、トーマとアルドリックが話している間、
ジルは中庭の片隅で小さな雪だるまを作っていた。
手のひらの熱が雪を溶かし、滴が石畳に落ちて小さな影をつくる。
音のない時間が、やけに長く感じられた。
滴が消えるたび、胸の奥の音まで遠のいていくようだった。
やがて、杖をついた老年の男が一人、供の者を連れて歩いてきた。
その目がジルを見定めるように細められる。
ジルは慌てて姿勢を正し、石のベンチに腰を下ろした。
「お前、見ない顔だな。だが、いい面構えをしている。どうだ、儂のところで働かんか?」
思いもよらぬ誘いだった。
「いえ、今はゼーラーン卿の所で厄介になってますので……」
「ふむ。ヴォルフのとこの人間か」
ゼーラーン卿を呼び捨てにするあたり、この男の身分は高いのだろう。
そんな人物が自分に声をかけるなど、ジルは夢にも思わなかった。
ローダインの人々は、出自にこだわらないのかもしれない――そう感じた。
「ところで、お前がさっき連れていた少年。あれは誰だ?」
トーマのことを、バルドの弟子の吟遊詩人だと説明すると、
男は短く頷き、何かを考えるように首を傾げ、そのまま去っていった。
ジルはしばらくその背を見送った。
胸の奥に、得体の知れないざらつきが残る。
そこへ、コンラッドとトーマが現れた。
アルドリックの話によれば、アラナ夫人がトーマに会いたいという。
ウィラードのことを案じているらしい。
三人は邸宅へ向かった。
雪の白さが静かな庭を照らしている。
◇ ◇
アラナ夫人は、長椅子に静かに腰かけていた。
通訳の女官が不満げな顔をしているが、
夫人の微笑みは穏やかで、どこか遠い光を宿している。
トーマが姿を現した瞬間、
夫人の視線がわずかに止まった。
空気が揺れたように感じたのは、コンラッドだけだったかもしれない。
すぐに笑みが戻り、何事もなかったように話が始まった。
「この子が、バルドのお弟子さん?」
「トーマと申します」
トーマはひざまずき、顔を上げられずにいた。
夫人は静かにその姿を見つめ、ゆるやかに手を伸ばした。
「そう。まだ若いのに、苦労したのね」
その声とともに、彼女はトーマを抱き寄せた。
香の匂いがふっと立ちのぼる。
冬の光に包まれたような、柔らかな温もり。
抱かれた瞬間、胸の奥で何かが目を覚ました。
「あなた、吟遊詩人なのね。クラリッツァは弾けるかしら? ウィラードは、ここでよく弾いていたのよ」
アラナ夫人はトーマの頬に触れ、微笑んだ。
その仕草に、なぜかトーマの喉が詰まる。
「存じております。エル・カルドで、一緒に弾かせていただきました」
「まあ、そうだったのね」
夫人は花のように笑みを広げ、女官に命じた。
「誰か、ウィラードのクラリッツァを持ってきて」
楽器が運ばれ、夫人の手を経てトーマに渡された。
「何か、弾いてもらえないかしら」
トーマは頷き、弦を整えた。
ウィラードと弾いたあの夜の旋律を思い出す。
雪の降りしきる夜、寒さを忘れて弾いた曲。
誰かと心が重なった、たった一度の夜。
指が動き始めると、部屋の空気が静まり返った。
奥の扉から、女官たちが顔を覗かせる。
やがて最後の音が消える。
アラナ夫人の頬には、涙が光っていた。
その涙を拭うこともせず、彼女は微笑んだ。
長い沈黙ののち、ふとコンラッドを見て言った。
「――この子を、しばらくここに置けないかしら」
声は穏やかで、それでいてどこか急だった。
自分でも驚いたように、夫人のまつげがかすかに震える。
コンラッドは視線を落とした。
「それは……私の一存では何とも。人の口の端に上ることもあるでしょうし……」
夫人は頷いた。
その微笑みの奥に、言葉にならない切なさが残っていた。
「では、陛下にお願いして預かるという形にしましょう。それでよいでしょう?」
声は静かだが、
どこか確かな響きを帯びていた。
まるで、失くした何かを取り戻すように。
コンラッドは何も言えなかった。
トーマはただ、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥に、理由のわからない温もりだけが残った。




