039 皇帝と少年 ローダインにて④
その日、エディシュは母から新しいドレスを作りに行くよう命じられていた。
以前のドレスは、年齢にも、体格にももう合わなくなっていた。
部屋に差し込む冬の光は冷たく、磨かれた床に白銀の筋を落としている。
エディシュはチェストを開け、古い衣装を取り出した。絹のひんやりとした手触りが、なぜかよそよそしく感じられる。
「まずい。肩が入らない」
弓兵として鍛えてきた肩と腕は、すっかり逞しくなっていた。もとより背が高く、世間で言う「女らしさ」など、とうの昔に手放していた。それでも、結婚というものから逃れられぬ身であることは、理解している。
エディシュは、戯れに力こぶを作ってみた。
虚弱さを競うような宮廷の令嬢たちが見たら、悲鳴を上げるだろう。
(こんなので、本当に結婚できるのかな。相手が気の毒なんだけど)
窓の外では、雪混じりの風が石畳を渡り、枝の影が揺れている。
帝都に戻ってから、まだこの重苦しい寒さに馴染めていなかった。
今日はドレスの採寸に行く予定だ。エディシュは、ニケを連れていくことにした。帝都では、貴族の女性が一人で出歩くことははしたないと見られる。これからも外出の機会は増えるだろう。彼女にもドレスは必要だった。
(面倒なところへ帰ってきたなあ)
砦では、一人で馬に乗っていても誰にも咎められない。乾いた冷気が頬を刺し、息が痛むあの感覚が懐かしい。
「エディシュ殿。これを……私が着るのですか?」
「そうよ、ニケ。似合うわよ」
丈の長いチュニックに、裾の広がるスカート。上位の使用人が身に着ける衣装だ。ニケは渋々それに着替える。
さすがに傭兵姿のまま仕立て屋に連れて行くわけにはいかなかった。
女性の傭兵というものは、女主人に従う立場であることが多く、行き先によって装束を変えるのも珍しくない。だがニケは、戦場で男たちと肩を並べることを好んだため、こうした「淑やかな」服を着るのは滅多になかった。
銀色の髪を結い上げ、長いスカートを履いたニケを見て、ジルは腹を抱えて笑っている。その横で、コンラッドが上質な布の服を差し出すと、ジルは慌てて手を振った。
「いや、なんで俺がこれを……宮殿へ行く? は?」
◇ ◇
――事の始まりは、昨日のこと。
コンラッドは再び、アラナ夫人との面会許可を求めて、アルドリックの執務室を訪ねた。
皇帝は、高い背もたれの椅子に肘をつき、軽く笑みを浮かべていた。
「やあ、待ってたよ。アラナのこと、悪かったね」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。上手くお伝えできずに」
コンラッドは直立したまま、皇帝の言葉を待つ。
「この件は、やはり俺がアラナに話すよ。……母親の心配ってやつを、少し甘く見ていたのかもしれないな」
コンラッドはまだ、昨夜の夫人の言動を理解できずにいた。だが、女官たちの態度を見る限り、自分が出る幕ではないのかもしれないと感じていた。
アルドリックは軽く足を組み、くつろいだように背を預ける。
「――それより、例の目撃者の少年。俺も一度会ってみたいんだが」
「陛下が、ですか?」
「だめか?」
「いえ、だめというか……」
まだ声変わりも終えていないトーマを宮殿に連れて行くべきか――コンラッドは迷った。
「おいおい、もったいつけるなよ。バルドの弟子だろう? 俺が会って何か不都合でも?」
◇ ◇
結局、皇帝の一言で、コンラッドはトーマを宮殿へ連れて行くことになった。
祖父は人目を避けることにしている。エディシュは着られるドレスがない。
自分は宮殿で面会がある。ならば――と、トーマにはジルを付き添いにすることにした。だが二人とも顔を引きつらせて首を振る。
「無理だ! お上品な役目は無理だって言ったじゃないですか!」
「僕も無理です。そんな……偉い方に会うなんて」
青ざめて後ずさる二人を前に、コンラッドは笑みを浮かべる。
「ジル。ローダインの要職者の中には、傭兵上がりも多い。君が気にすることはない」
「で、でも……」
「彼らが軽んじるのは、勇気を出さない人間だ。君にはその心がある」
そして、トーマに穏やかに声をかける。
「トーマ。師匠に高位者との礼も教わっていたろう? エル・カルドでできていたじゃないか。自信を持ちなさい。陛下はバルドのご友人だ。心配はいらない」
促され、二人は渋々着替えを始める。その様子を、仕立て屋行きの馬車を待つエディシュとニケが面白そうに眺めていた。
「トーマ、ずいぶん髪が伸びたんじゃない? もう半年は切ってないでしょ」
エディシュはトーマを椅子に座らせ、金の巻き毛をつまみ上げた。
「ローダインの戦士にでもなるか」
ジルが茶化すと、トーマは曖昧に笑う。冗談ではあるが、まったく見当外れでもない。
吟遊詩人以外の未来を見てみたい――そんな思いがトーマの胸をよぎった。
「きれいな髪ね。少し真っ直ぐにしてみようか」
整髪油をつけ、櫛を通し、後ろで束ねる。
鏡に映るトーマは、確かに“坊っちゃん”のように見えた。
「お、いいとこの若様だな」
「見違えた。吟遊詩人には見えないよ」
ジルとニケの賛辞に、エディシュも満足げに頷いた。
「うん。トーマはこれで行きなさい。……次はジルね」
「え? いや俺は――」
結局、ジルも髪を撫でつけられ、あまりの似合わなさに、今度はニケとエディシュが笑い転げる。
その賑やかな声を聞きつけ、ゼーラーン卿が顔をのぞかせた。
めかし込んだトーマを見て、何かを言いかけ、しかしすぐ首を振る。
「――いや、何でもない。気のせいだ」
そう言って立ち去る老将の背を見送りながら、エディシュは首を傾げた。
「何? あれ」
だがすぐに母から「馬車が来た」と声をかけられ、ニケとともに出発する。
「そろそろ、私たちも行こうか」
コンラッドはジルとトーマを連れて馬車に乗り込んだ。
凍てついた空気の下、石畳を打つ蹄の音が澄んで響く。
窓の外を流れる景色を見つめながら、トーマの身体はこわばっていった。喉が張りつき、水さえ通らない。クラリッツァを置いてきたことが、余計に彼の心を不安にさせた。
やがて、宮殿が見えてくる。
冬の陽に照らされた白金の尖塔が空を突き刺すように光り、階段の上には無数の影が凍りついていた。
ジルとトーマは息を呑み、ただ見上げる。コンラッドは平然と階段を上っていく。
すれ違う人々が好奇の目を向ける中、二人は居心地悪そうにコンラッドの後に続いた。
人気のない廊下を抜け、衛兵が重い扉を開ける。
中では、アルドリックが不敵な笑みを浮かべていた。
「やあ! 来たね。待っていたよ。他人行儀な挨拶は抜きで、よろしく」
皇帝のあまりの軽さに、ジルとトーマは顔を見合わせた。
「君がバルドの弟子だって? いやぁ、バルドにももう長いこと会ってなくてね。……死ぬなら死ぬって言っといてくれればいいのに」
空気が凍る。
暖炉の火が一瞬、音を立てる。
「――まあ、それは冗談として……君がトーマだね」
声の調子が変わる。
軽さの裏に、温かい静けさが滲む。
差し出された手を、トーマはしっかりと握り返した。
「君の知っていることを、俺に話してくれるかな?」
アルドリックの提案で、コンラッドとジルは部屋を出た。
残されたのは、皇帝と少年の二人だけ。
長椅子に並んで座り、話が始まる。
トーマは、来る道中ずっと喉が乾くほど緊張していたのに、気づけば不思議と心が落ち着いていた。まるで、アルドリックの穏やかな魔法にかけられたようだった。
その眼差しは温かく、声は人を包む。
トーマは、気づけばエル・カルドの出来事だけでなく、師匠と過ごした日々や別れの夜まで――途切れることなく話し続けていた。
アルドリックは一度も遮らず、時折、懐かしむように目を細めて、静かに耳を傾けていた。
古き友の姿を、心に描きながら。




