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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第七章 帝都エゼルウート
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038 アラナ夫人 ローダインにて③

 コンラッドは宮殿の暗がりに立ち、窓下の中庭を見下ろしていた。雪はまだらに積もり、黒い石畳に白い斑を描いている。吐く息は白く、すぐに夜気に溶けて消えた。

 胸の奥では、これから背負う役目が重く沈んでいた。皇弟妃アラナ夫人に、エル・カルドでの出来事を説明する――それは思いがけぬ務めであり、言葉を選び損ねれば取り返しがつかなくなる。


 アラナ夫人。〈エル・カルド〉第一聖家に生まれ、十七年前、十八の若さで皇弟サディアスに嫁いだ人。

 彼女の傍らに立つと、異国の影がいつも淡く漂う。穏やかな微笑みは絶えず、宮廷では「理想の夫婦」と称えられている。だがコンラッドには、その笑みの奥に時折混じる緊張を感じることがあった。


 日常の会話に共通語(コムナ・リンガ)の不自由はなく、誰とでも柔らかに言葉を交わす。けれど、込み入った話題となれば――どこまで理解が届いているのか、判然としない。

 彼女の側には通訳を兼ねた女官が控えている。だが今回の件だけは耳に入れさせたくなかった。胸の奥で、ディランがいてくれればと無意識に願う。


 意を決して訪れた夫人の邸宅は、宮殿の奥庭に寄り添うように建っていた。夜にも関わらず、アルドリックの先触れのおかげで面会は叶えられた。

 応接室に通されると、アラナ夫人は薄紫のドレスに身を包み、女官を伴って現れる。プラチナブロンドの髪が肩に流れ、その笑みは姉のミアータ夫人よりもずっと柔らかかった。紫の装いは、第一聖家にいた頃の名残なのかもしれない。


 コンラッドは膝をつき、儀礼的な挨拶を済ませると、人払いを願い出た。女官たちは一瞬ためらったが、夫人自身の手で退けられた。通訳さえも部屋を去り、二人きりの空気が満ちる。


「ウィラードのことですね。〈聖剣の儀〉が、上手くいかなかったのでしょうか?」


 夫人は沈痛な面持ちで、低く問いかけた。

 コンラッドは一瞬、息を詰める。彼女はすでに「失敗」を前提にしている――。


「いえ、剣は抜けたようです。ただ……」


 言葉の途中で、夫人の体が硬直した。


「……嘘」


 小さな声が零れる。

 次の瞬間、声は鋭く跳ね上がった。


「剣が抜けたなんて! そんなこと、あるはずがないわ!」


 室内の空気が裂かれ、コンラッドは思わず息を呑む。

 だが胸に広がったのは恐怖ではなく、理解の及ばぬ違和感だった。まるで、自分の知らぬ「前提」を夫人だけが知っているかのように。


「嘘よ……そんなはずない……そんなはずは……ウィラード!」


 言葉は次第に崩れ、意味をなさぬ叫びとなっていく。

 その姿は「信じられない」というより、「信じてはならない」と抗っているように見えた。

 コンラッドは立ち尽くし、声をかけることすらできなかった。


 駆け込んできた女官が夫人を支え、奥へと引き下がらせる。振り返った女官の目には、冷ややかな色があった。


「お帰り下さい。さもなくば兵を呼びます」


 通訳は淡々と告げた。

 腹に刺さる言い方だったが、今の夫人に言葉は届かない。ウィラードの不在すら、まだ伝えられていないのだから。


 コンラッドはこれ以上を諦め、後日の面会を願い出ると、ゼーラーン卿とともに宮殿を後にした。


 夜気が頬を打つ。吐き出した白い息は、すぐ闇に溶けて消えた。

 その儚さに、夫人の「あるはずがない」という叫びが重なり、胸にざらついた違和感を残す。


 祖父を家に送り届ける間も、その言葉が頭の中で反響していた。恐怖でも悲嘆でもなく、理屈の底を拒む不協和音のように。


 やがてラウマーレの橋を渡ると、街のざわめきが近づいてきた。

 行き交う人影、明かりの漏れる酒場、漂う酒と煙の匂い。宮殿の沈黙とは正反対の世界がそこにあった。


 ジルとニケの滞在している宿屋も、一階は安酒場だった。眠りの刻を過ぎても人影は絶えず、笑い声と怒号、女の嬌声が入り混じる。

 扉を開けると、酒の匂いと熱気が押し寄せ、夫人の叫びの余韻をかき消すように胸を揺さぶった。

 床板は酒で濡れ、靴底に粘つく感触が残る。普段のコンラッドなら決して足を踏み入れない空間――だが今は、この喧噪に身を投じることに奇妙な安堵を覚えた。


 奥のカーテンを引いた個室に、ジルとニケが姿を現す。蝋燭ひとつの光に、銀の髪を垂らしたニケの顔が浮かんだ。


「コンラッド殿。何もこんな所へ来られなくとも、私どもから伺いましたのに」


 ニケは眉を下げ、申し訳なさそうに言う。

 その控えめな声音は、外の喧噪と余計に対照的だった。


 コンラッドは女給からエールを受け取り、多めの硬貨を盆に載せる。


「いや、ちょっと外で飲みたくて」


 苦味が喉を満たしても、胸のざらつきは消えない。


 ジルは大きな杯をあおり、喉を鳴らして飲み干す。豪快に息を吐き、滴が顎を伝った。


「飲むにしても、こんな所は坊っちゃん向きじゃありませんよ」


 彼が笑うたび、ニケは小さく肩をすくめて苦い顔をする。二人の対照的な仕草が、狭い室内に妙な調和を生んでいた。


「いいんだ。ところで――ジルとニケは、これからどうするんだい?」


 二人は顔を見合わせ、短い沈黙。やがてジルが口を開いた。


「俺たちは元の傭兵稼業に戻ろうかとも思ってたんですが……殿下のこととか、気になることもあって、どうしたもんかと」


「それなら、しばらくうちに来ないか?」


 思わぬ誘いに、ニケの目がわずかに見開かれる。


「ゼーラーン家へ……ですか?」


「部屋なら空いている。二人には頼みたいこともあるし、――家賃はいらない。食事も用意する」


「行きます!」


 二人の声が重なった。ジルが豪快に笑い、ニケがため息まじりに小さく肩を竦める。


「でも、俺たちは構いませんが……いいんですか? 傭兵なんかが出入りして。お上品な真似はできませんよ」


「構わない。いつからでもいい。来てくれ」


 言葉に強さを込めたのは、二人を信用しているからだけではない。何よりも――目の届く場所に置いておきたかった。


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