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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第六章 結界の中で
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035 水鳥の池 二人の行方③

 早朝、ウィラードとシルヴァは、老人たちに頼まれた水道の様子を見に来ていた。


 水道といっても大げさなものではない。山の斜面から湧き出す水を木の枠で受け、集落まで導くだけの仕組みだ。覗き込めば、落ち葉が詰まって水の流れを阻む箇所や、枠が外れかけて水が漏れる箇所がいくつも見つかる。


「これなら、すぐに直せそうだな」


 シルヴァが必要な道具を頭の中で並べていると、不意に鳥の声が重なり合って響いてきた。


 小高い場所から見下ろせば、靄に包まれた大きな池がある。朝の光がぼんやりと水面を覆い、その上を群れになった水鳥たちが泳ぎ回っていた。シルヴァの瞳が鋭く細まり、息を潜める。獣が獲物を見据える時のそれだった。


「よし、あれをとって食おう」

「え? シルヴァ、本気?」


 返事はなかった。音もなく池のほとりへ降り立つと、背の高い葦の陰に身を沈め、鳥の一挙手一投足を追う。羽音の間合い、水面との距離――数拍の沈黙が張りつめる。


 次の瞬間、シルヴァは着ていたローブを脱ぎ、迷いなく鳥へと投げかけた。


 氷の刃のような水が半身を切り裂き、羽が水面で暴れる。ばしゃり、と水飛沫。乾いた衝撃が指先を叩いた。命が掌にのしかかる重みとなって伝わり、シルヴァは濡れた布ごと獲物を引き上げる。


 その光景に、ウィラードの喉の奥で鉄の味が広がった。吐き気がせり上がり、胸が縮む。誰かがこうして命を奪わねばならない――頭ではわかっていた。けれど心は頑なに拒んでいた。目の前の仲間の姿と現実が噛み合わず、足元の雪が揺らめいて見える。


「寒っ!」


 シルヴァが歯を鳴らす。濡れた絹の裾が足に張り付き、体から熱を奪っていく。だが、その口元には早くも肉の匂いを思い描く余裕が漂っていた。


「シルヴァ、水鳥を捕るのうまいね」


 ウィラードは、濡れた布の中身から視線を外した。


「普通はあんなにうまくいかない。ここの鳥は人を警戒してないんだ。普段、誰も狩らないんだろうな。さあ、じいさんたちの所へ戻ろうぜ。服も乾かしたい」


 シルヴァの後ろを歩く。けれど、ふと背後にざわめきを感じて足を止めた。


 ――振り返る。雪の白さが目に刺さる。冬枯れの草が風に揺れるだけのはずだった。

 しかし耳を打ったのは乾いた音。枝の折れる気配、雪が軋む気配。残響だけが胸に残り、影も足跡もどこにもない。


 氷の針が皮膚の下を這い上がる。呼吸を整えようとするほど、胸の奥は重さを増していった。


「どうした?」

「あ、うん……気のせい。何か動いたような気がして」

「ネズミか何かだろ」

「……そうだね」


 歩き出す。だが背中には、見えない視線がまとわりついたままだった。


 集落へ水鳥を届ければ、老人たちは大喜びで迎えてくれる。処理を任せ、シルヴァは服を脱いで暖炉へ。そこへ老人が布で包んだ衣を持ってきた。リスの毛皮で裏打ちされたチュニックと下衣だ。


「その格好では動きにくいじゃろう。息子と孫のものだったんじゃが、嫌でなければ着てくれんか」


 包みを開いた途端、毛皮の匂いと温もりが広がる。シルヴァは毛並みに指を埋め、小さく息を吐いた。


「じいさん、ありがとよ。いいのか? 大事なもんなんだろ」

「お前さんたちのような人に着てもらえれば、あいつらも天で喜ぶさ」


 二人は服を受け取り、再び水道の修理へ戻った。毛皮の服は驚くほど暖かく、体も軽い。ただ、足元のサンダルだけは冷気を通し、熱を奪っていった。


 板を運びながら、ウィラードは堪えきれず口を開いた。


「ねぇ、シルヴァ。みんな心配してるよね」

「そうだな」


 事もなげな返事。


「どうやって帰るの? ここは、どこなの?」

「さあな」

「シルヴァは……帰りたくない?」


 シルヴァが修理の手を止め、真っ直ぐにこちらを見た。


「ウィル。エル・カルドに戻らなきゃいけないのはわかってる。騒ぎになってるのもわかってる。方法を探さなきゃならないのもな。でもこの話、少し俺に預けてくれ」

「どういうこと?」

「……今、じいさんたちと話す時じゃない。もう少し待ってくれ」


 ウィラードには、シルヴァの言葉の奥にあるものが掴めなかった。

 ただ、その目の奥には、自分には読めない道筋を知る者の影が宿っているように思えた。

 理解できないのに、抗えない。胸の奥がざわつき、落ち着かない鼓動だけが残った。


「……わかった。シルヴァに任せるよ」


 二人は黙々と作業を続けた。落ち葉を取り除き、枠を組み直し、水は勢いを取り戻す。


 仕事は順調に進んでいた。だがウィラードの胸の奥はざらついていた――結局、自分は横で見ていただけだった。


 陽が傾く頃、戻った小屋には鳥の肉のスープが待っていた。滋養が体に染み渡り、久しぶりに満たされる。


 部屋の隅の石臼に目を止めたシルヴァが言う。


「小麦はないのか? あれで挽けばパンができるだろ」

「あるにはあるが、石臼が壊れていてな」


 匙を動かしながらシルヴァは笑った。


「そんなことか。明日直してやるよ。……それと皮か毛皮は? 足が冷たくて。靴でも作ろうと思ってさ」


 老人たちは目を丸くする。七聖家の名を持つ者が、自ら手を動かして靴を作るなど、聞いたことがない。


「……お前さん、本当に七聖家の人間か?」

「だてにいろんな仕事してねえよ。たいていのことはできるぜ」


 鹿の毛皮となめし革を持ち帰ったシルヴァは、迷いなく針を動かし、靴を仕立てていく。


「シルヴァ、凄いよ。靴ができた」


 ウィラードは目を見張った。驚きと感心が胸を満たす。だが、その熱はすぐに冷え、手のひらには空しさが広がった。自分はただ見ていただけ――笑顔の裏にざらりとした感覚が残る。


 翌日にはシルヴァの靴も整い、残りの革で聖剣の鞘まで仕立て上げた。出来上がった鞘しか知らなかったウィラードは、その確かな手つきに言葉を失う。


 さらに石臼の修理、小麦粉作り、布団や手袋まで――生活は整っていく。便利なものが一つ、また一つと増え、暮らしは豊かになっていった。


 だが、火にあたり温もりに包まれるたび、ウィラードの喉には鉄の味がよみがえる。あの池の冷たさ、命が沈んでいった瞬間。その感覚だけは暖炉でも拭えなかった。


 夜ごと、ウィラードは目を覚ました。闇の向こうに何かがいる。風ではない。人でもない。


 耳を澄ますほど、音は遠ざかり、沈黙だけが膨らんでいく。息を殺すたび、微かな脈動が忍び込み、背骨の奥を冷たく撫でた。


 体を起こしたいのに動けない。何もできない――その自覚が恐怖を肥大させる。


 まぶたを閉じても、その気配は闇の底で形を変え、決して去らなかった。



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