033 共通語《コムナ・リンガ》 城外の館③
昔、吟遊詩人バルドはこう語った。
『エル・カルドの言葉は――大陸の古語に似ている』
それは焚火の揺らめきに照らされた夜のことだった。
炎の赤に頬を染め、杯をあおいだあと、唇から零れた独り言。
誰に向けたでもなく、ただ夜風に解き放たれた声は、火の粉のように闇へ散った。
その場に居合わせた者たちは耳を傾け、炎の明滅に紛れて、その言葉を心の奥に沈めたという。
やがて彼は仮説を立てる。
『かつて大陸全土に響いた一つの言葉があった。だが結界に閉ざされたエル・カルドと、古帝国の影響を受けた大陸とで、それぞれ別の姿へと変じていった。時は流れ、大陸では“共通語”と呼ばれるに至り、今もローダイン帝国に息づいているのだ』
焚火に混じるその古めかしい響きは、妙な真実味を帯びていた。
だが学者たちは笑い飛ばしたという。
それでも――エル・カルドの言葉と、大陸の共通語には、確かに響き合うものがあった。
だから若き者が両方を学ぶのも、決して不可能ではなかった。
◇ ◇
一夜が明け、東窓から射す光が白布を透かし、淡く揺れていた。
フィオンが着替えを抱え、静かに客室を訪ねると――扉の奥から、鋭い音が空気を断つように響いた。
息を呑み、扉を押し開ける。
そこではディランが剣を振るっていた。
最初は調度品を壊すのではと肝を冷やした。だがすぐに、それが杞憂だと悟る。
長い黒髪を後ろで束ね、背筋は弦のように張りつめていた。腕が振り抜かれるたびに衣が鳴り、刀身が空気を裂く。朝の光が柔らかく差し、壁に走る影が床を駆け抜ける。
刃に反射した光が天井へ跳ね、室内そのものが震えているかのように見えた。
剣は野蛮だと教えられてきたフィオンの目に、その姿はただ美しかった。
胸の奥で小さく脈が跳ね、息をするのも忘れる。
不意にディランが振り返り、鋭い眼差しと視線が交わった。
フィオンは慌てて姿勢を正し、両腕の布を持ち直す。
「お目覚めでしたか。お召し物をお持ちしました」
「その前に、水を一杯くれるか」
慌てて水を用意し、盆に載せて差し出す。
ディランは汗を拭いながらグラスを受け取り、外光にかざす。水面が光を返し、一滴が頬を滑り落ちた。
「いい水だな。川の水か?」
「はい」
「――このまま飲んで大丈夫か?」
フィオンは柔らかく微笑む。
「どこの村も通っていない、きれいな川ですから。僕もそのまま飲んで困ったことはありません。一応濾過器は通しています」
「川からここまで引いているのか」
「ええ。館まで水道を」
(村を通らぬ川……水を引ける距離……)
ディランは自然に地図を脳裏に描き、位置を探り始める。騎兵団で培った習慣が、癖のように働いていた。
その間にフィオンは着替えを広げる。並べられたのは昨日と同じ、第二聖家の長衣だった。
「また長衣か。ドナルのいない時はいいんじゃないか?」
うんざりした響きが混じる。
「申し訳ありません。ドナル様のご命令で」
「お前が謝ることじゃない。……七聖家らしくしろということか」
次々に布を被りながら、袖に腕を通すたび胸の奥に熱が籠もった。
重ね着させられる布の重みが、まるで見えない鎖のようだった。
「長衣はお嫌いですか?」
「動きにくい」
短く返す。その裏に、子供じみた支配への苛立ちが渦巻いていた。
やがてフィオンは椅子に座らせ、結わえられていた髪を解く。
束がほどける音とともに、黒髪が一気に流れ落ちた。濡れた絹のように重く、光を吸い込みながら背を覆う。
櫛を入れるたびに細い光がきらめき、指先でほぐすと滝が枝分かれして川筋を描くように流れ広がった。
息を止める。――やはり、この人こそ長衣を纏うにふさわしい。そう思いながら横目で盗み見る。
だが本人は退屈げに窓の外を見つめ、朝の淡い光に瞳を細めていた。
「ディラン様のいた所では、こういう服は着ないのですか?」
「ローダインで着るのは、文官か年寄りだけだ」
フィオンは目を丸くした。
「外の世界は、やはり違うのですね。私は言葉もわからず……外の人と話したこともありませんでした」
結界が解けてもなお、言葉という壁が結界のように人を隔てる。
「そういえば、ここの主人は共通語を話さないのか?」
「はい。必要ないと仰って」
「皆そうなのか?」
「ええ。エル・カルドの言葉だけです。……ディラン様は、この言葉で話すのは、お嫌ですか?」
「嫌ではない。ただ、慣れないと疲れる」
ディランが立ち上がると、フィオンは洗面器に水を注ぎ、台に置いた。
「では、私が……共通語を覚えます」
静かな声だったが、芯に硬さがあった。
ディランは顔を上げ、水滴を拭いながら眉を寄せる。
「どうやって?」
針のような問い。
フィオンは小さく喉を鳴らしたが、視線を逸らさず答えた。
「あの……教えていただけませんか」
その調子は、いつもの控えめさとは違う。妙に確かな響き――フィオンらしくない。
やはり何かの役目を帯びているのだろう。だが、ドナルが共通語など要らぬという言葉も確かに耳にした。
ならば、これは彼自身の理屈か。
「私は構わない。だが主人は?」
一瞬の逡巡の後、フィオンは顔を上げる。
「……内密に。ドナル様のいない時だけで結構です。――夜でも」
声音は柔らかいのに、不思議と真っ直ぐだった。
澄んだ瞳には影も揺らぎもなく、覗けば深みを測らねばならぬような気配があった。
――危うい。だが見過ごす理由もない。
「……私はいつでもいい。することもないしな」
軽く投げた言葉の裏で、心は冷静に測っていた。
この真っ直ぐさは隙だ。扱い方次第で、刃にも楯にもなる。
答えを出すのは、もう少し先でいい。
「ありがとうございます。……学んだら、ルーイやキアランにも教えても、いいでしょうか?」
問いかけは、子供が宝物を分け与えようとするように無邪気だった。
その笑みの奥に潜む危うさを、本人だけが気づいていない。
「好きにしろ。ただ、まとめてやれば気づかれるだろう」
ディランの返答は短く冷たい。
だがフィオンは屈託なく頷き、柔らかく笑った。
「大丈夫です。ドナル様の気性は皆知っていますから」
軽く放たれた一言が、刃よりも鋭く状況をえぐり取る――ディランにはそう見えた。
「……ならいい」
「ありがとうございます」
フィオンは洗面器を片付け、ほっと息を吐いた。
その背を見送りながら、ディランは思った。
――駆け引きは、すでに始まっている。




