表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第六章 結界の中で
37/193

033 共通語《コムナ・リンガ》 城外の館③

 昔、吟遊詩人バルドはこう語った。


『エル・カルドの言葉は――大陸の古語に似ている』


 それは焚火の揺らめきに照らされた夜のことだった。

 炎の赤に頬を染め、杯をあおいだあと、唇から零れた独り言。

 誰に向けたでもなく、ただ夜風に解き放たれた声は、火の粉のように闇へ散った。


 その場に居合わせた者たちは耳を傾け、炎の明滅に紛れて、その言葉を心の奥に沈めたという。


 やがて彼は仮説を立てる。


『かつて大陸全土に響いた一つの言葉があった。だが結界に閉ざされたエル・カルドと、古帝国の影響を受けた大陸とで、それぞれ別の姿へと変じていった。時は流れ、大陸では“共通語(コムナ・リンガ)”と呼ばれるに至り、今もローダイン帝国に息づいているのだ』


 焚火に混じるその古めかしい響きは、妙な真実味を帯びていた。

 だが学者たちは笑い飛ばしたという。

 それでも――エル・カルドの言葉と、大陸の共通語には、確かに響き合うものがあった。

 だから若き者が両方を学ぶのも、決して不可能ではなかった。


    ◇      ◇


 一夜が明け、東窓から射す光が白布を透かし、淡く揺れていた。

 フィオンが着替えを抱え、静かに客室を訪ねると――扉の奥から、鋭い音が空気を断つように響いた。


 息を呑み、扉を押し開ける。

 そこではディランが剣を振るっていた。


 最初は調度品を壊すのではと肝を冷やした。だがすぐに、それが杞憂だと悟る。

 長い黒髪を後ろで束ね、背筋は弦のように張りつめていた。腕が振り抜かれるたびに衣が鳴り、刀身が空気を裂く。朝の光が柔らかく差し、壁に走る影が床を駆け抜ける。

 刃に反射した光が天井へ跳ね、室内そのものが震えているかのように見えた。


 剣は野蛮だと教えられてきたフィオンの目に、その姿はただ美しかった。

 胸の奥で小さく脈が跳ね、息をするのも忘れる。


 不意にディランが振り返り、鋭い眼差しと視線が交わった。

 フィオンは慌てて姿勢を正し、両腕の布を持ち直す。


「お目覚めでしたか。お召し物をお持ちしました」


「その前に、水を一杯くれるか」


 慌てて水を用意し、盆に載せて差し出す。

 ディランは汗を拭いながらグラスを受け取り、外光にかざす。水面が光を返し、一滴が頬を滑り落ちた。


「いい水だな。川の水か?」

「はい」

「――このまま飲んで大丈夫か?」


 フィオンは柔らかく微笑む。


「どこの村も通っていない、きれいな川ですから。僕もそのまま飲んで困ったことはありません。一応濾過器は通しています」


「川からここまで引いているのか」

「ええ。館まで水道を」


 (村を通らぬ川……水を引ける距離……)

 ディランは自然に地図を脳裏に描き、位置を探り始める。騎兵団で培った習慣が、癖のように働いていた。


 その間にフィオンは着替えを広げる。並べられたのは昨日と同じ、第二聖家の長衣だった。


「また長衣か。ドナルのいない時はいいんじゃないか?」


 うんざりした響きが混じる。


「申し訳ありません。ドナル様のご命令で」


「お前が謝ることじゃない。……七聖家らしくしろということか」


 次々に布を被りながら、袖に腕を通すたび胸の奥に熱が籠もった。

 重ね着させられる布の重みが、まるで見えない鎖のようだった。


「長衣はお嫌いですか?」

「動きにくい」


 短く返す。その裏に、子供じみた支配への苛立ちが渦巻いていた。


 やがてフィオンは椅子に座らせ、結わえられていた髪を解く。

 束がほどける音とともに、黒髪が一気に流れ落ちた。濡れた絹のように重く、光を吸い込みながら背を覆う。

 櫛を入れるたびに細い光がきらめき、指先でほぐすと滝が枝分かれして川筋を描くように流れ広がった。


 息を止める。――やはり、この人こそ長衣を纏うにふさわしい。そう思いながら横目で盗み見る。

 だが本人は退屈げに窓の外を見つめ、朝の淡い光に瞳を細めていた。


「ディラン様のいた所では、こういう服は着ないのですか?」

「ローダインで着るのは、文官か年寄りだけだ」


 フィオンは目を丸くした。


「外の世界は、やはり違うのですね。私は言葉もわからず……外の人と話したこともありませんでした」


 結界が解けてもなお、言葉という壁が結界のように人を隔てる。


「そういえば、ここの主人は共通語を話さないのか?」

「はい。必要ないと仰って」

「皆そうなのか?」

「ええ。エル・カルドの言葉だけです。……ディラン様は、この言葉で話すのは、お嫌ですか?」

「嫌ではない。ただ、慣れないと疲れる」


 ディランが立ち上がると、フィオンは洗面器に水を注ぎ、台に置いた。


「では、私が……共通語を覚えます」


 静かな声だったが、芯に硬さがあった。

 ディランは顔を上げ、水滴を拭いながら眉を寄せる。


「どうやって?」


 針のような問い。

 フィオンは小さく喉を鳴らしたが、視線を逸らさず答えた。


「あの……教えていただけませんか」


 その調子は、いつもの控えめさとは違う。妙に確かな響き――フィオンらしくない。

 やはり何かの役目を帯びているのだろう。だが、ドナルが共通語など要らぬという言葉も確かに耳にした。

 ならば、これは彼自身の理屈か。


「私は構わない。だが主人は?」


 一瞬の逡巡の後、フィオンは顔を上げる。


「……内密に。ドナル様のいない時だけで結構です。――夜でも」


 声音は柔らかいのに、不思議と真っ直ぐだった。

 澄んだ瞳には影も揺らぎもなく、覗けば深みを測らねばならぬような気配があった。


 ――危うい。だが見過ごす理由もない。


「……私はいつでもいい。することもないしな」


 軽く投げた言葉の裏で、心は冷静に測っていた。

 この真っ直ぐさは隙だ。扱い方次第で、刃にも楯にもなる。

 答えを出すのは、もう少し先でいい。


「ありがとうございます。……学んだら、ルーイやキアランにも教えても、いいでしょうか?」


 問いかけは、子供が宝物を分け与えようとするように無邪気だった。

 その笑みの奥に潜む危うさを、本人だけが気づいていない。


「好きにしろ。ただ、まとめてやれば気づかれるだろう」


 ディランの返答は短く冷たい。

 だがフィオンは屈託なく頷き、柔らかく笑った。


「大丈夫です。ドナル様の気性は皆知っていますから」


 軽く放たれた一言が、刃よりも鋭く状況をえぐり取る――ディランにはそう見えた。


「……ならいい」

「ありがとうございます」


 フィオンは洗面器を片付け、ほっと息を吐いた。

 その背を見送りながら、ディランは思った。


 ――駆け引きは、すでに始まっている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ