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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第六章 結界の中で
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030 ドナルという男 城外の館②

 フィオンは、絨毯の柔らかさを踏みしめながら廊下を進み、一階の客室へディランを案内した。


 天蓋付きの寝台、丸いテーブル、椅子、文机。

 窓には光を拒む重たいカーテンが垂れ、暖炉の炎だけが赤々と燃えている。


「こちらのお部屋をお使い下さい。御用の際は、この呼び鈴を鳴らして下さい」


 結界に守られた館に客室がある――つまり、ここには客人を迎える理由がある。


「それから、こちらにお着替え下さい」


 寝台に並べられたのは、真新しいリネンのシャツ、黒の長衣、袖なしのチュニックに幅広の帯、革底のサンダル。第二聖家の者が普段着とする衣服だった。


 ドナルは、ディランの灰色の衣を殊更に嫌っている。七聖家の人間がそれを着るなど、到底許しがたいのだろう。


「その指輪……七聖家の方でしたか。申し訳ありません、てっきり……」


 フィオンは孔雀石の指輪を見て謝罪した。十七、八歳の若さで、灰色を使用人のものと見なし、指輪から家を即座に見抜く。エル・カルドの風習は頑なに根付いていた。


 ディランが上着を脱ぎかけた瞬間、フィオンの動きが止まった。

 呼吸が途切れ、衣を握る手がかすかに震える。


 その一瞬を、ディランは視界の端で捉えた。まるで禁忌を覗き込んだかのような反応に、口元がわずかに歪む。


「……もしかして……傷が怖いのか?」


 問いは低く、挑むように投げられた。


 フィオンはすぐに真顔になり、ぎこちない手つきで服を差し出す。


「いえ……大丈夫です」


 ディランは背を向け、淡々と着替えを済ませる。布が肌を覆った途端、フィオンの胸に息が戻り、手がわずかに緩んだ。


 ひざまずき、帯を締め、裾を整える。そのまま椅子に座らせ、櫛を手に取って乱れた髪を梳いていく。

 一房ずつ掬い、息を詰めるように慎重に。


 ディランは目を閉じ、静かに任せていた。


 ――過剰なまでの慎重さだ。傷を見慣れないにしても、ただの使用人の反応にしては不自然。


 その時、ドナルが扉を押して入ってきた。


「ほう、少しはエル・カルド人らしくなったではないか」


 口角をゆっくり吊り上げ、近寄る。髪を一房掬い、指に絡めた。


「髪は切らんのかね」

 

 冷たい感触が頭皮に伝わる瞬間、ディランの体に微かな戦慄が走る。

 ――嫌悪が胸の奥でざわめいた。だが表には出さず、顔をわずかにこわばらせるだけ。


「まあいい。では、魔道書を見せてやろう。二階の書斎にある」


 ドナルは髪から手を放ち、裾を翻して歩き出す。


 階段を上がると、重たいカーテンに閉ざされた部屋があった。

 昼であるにもかかわらず、外光は一筋も入らない。燭台に火が灯されるたび、蝋の匂いが濃く漂った。


 壁一面を埋め尽くす書棚。革表紙はひび割れ、紙は黄ばみ、どれも長い年月を生き延びてきたものだ。

 古紙の甘い匂いと湿った木の香りが入り混じり、息を吸うたび喉に重さが残る。


 部屋の中央の大机には書きかけの書類と本。紙を押さえる重石の下から、まだ乾ききらぬインクの匂いが鼻先に漂う。


「知っての通り第二聖家は、代々魔道書の管理をしてきた」


 ドナルは書棚の前に立ち、胸を張って両腕を広げた。

 声はよく通り、堂々とした響きを装っている。


「ここにあるものは、すべてアレスルであった祖父から受け継いだものだ」


 誇らしげに言う口元。だが顎がわずかに痙攣し、笑みの奥に不安が滲んでいるのをディランは見逃さなかった。


「もっとも、祖父は流行り病で亡くなり、具体的に何をしていたのか知る間もなく……」


 視線は炎を避けるように伏せられていた。


 短い沈黙。


「私がアレスルになった時には、病に倒れ、もう誰も残ってはいなかった! 君の母君も国には戻らなかった!」


 言葉は力強く放たれた。だが、拳を握る逞しい腕にはかすかな震えがあった。


「唯一残ったアレスルすら、『魔道など役に立たない』と吐き捨てた……。私は魔道のことなど何もわからないんだよ」


 ドナルは大きく息を吐き、肩を落とした。笑みを無理に作ろうとしたが、目の奥は空洞のように冷えていた。


 ディランは視線を鋭くして問う。


「では、館の結界は一体、誰が? あなたが魔道を使えないというのなら――」

「私に答える義務があるとでも? ……まあ、君の態度次第では、考えないでもないがね」


 ドナルは両腕を広げ、笑い声を響かせた。だがその響きは、空虚に反響するばかりだった。


 その日のうちに、ドナルは城内の邸宅へ帰ることになった。


「私は七聖家の会合に行ってくる。君がここにいることは、マイソールに伝えておこう。それからこれを……書斎の鍵だ。あの部屋は自由に使うといい」


 堂々と差し出す声とは裏腹に、手はわずかにためらいを含んでいた。


 馬車は衛兵を従え、霧の中に消える。館には静寂だけが残った。


「ディラン様。お疲れでなければ、館内を案内いたしますが……」


 ドナルを送り出したせいか、フィオンの表情は少し和らいでいた。ディランはうなずき、共に館を巡る。


 二階にはドナルの部屋、先程の書斎、そして使用人の居室。


「私どもは掃除以外で書斎に入ることはできませんが、ディラン様はご自由に」


 階段を降り、一階へ。


「こちらが応接室。隣に客間が二部屋。向こうは食堂と調理場、その奥が洗い場になります。お食事はお部屋にご用意いたします。それから最後に、こちらの扉が……」


 廊下の突き当たり。


 ただの木の扉にしかみえないが、近づくほど炎は不穏に揺れ、空気は沈み、音が吸い込まれていく。

 蝋燭の炎が細く震え、壁に映る影が異様に長く伸びた。


 鼻をかすめたのは、石の冷気と鉄錆びのような匂い。

 ほんの一瞬、床板の下から湿った風が這い上がった気がした。


「地下への入り口となっておりますが……」


 フィオンの声は妙に低く沈み、すぐに途切れた。額に浮かぶ汗が、蝋燭の明かりを鈍く反射する。


「絶対に触れないで下さい。……怪我をした者もおりますので」


 その視線は扉ではなく、廊下の床へ落ちている。

 袖を握る手は固く、指先がわずかに白んでいた。


「中に、誰かいるのか?」


 ディランの問いに、フィオンは一瞬まばたきを忘れたように固まった。

 沈黙の奥で、――かすかな音がした。木が軋むような、誰かが息を潜めるような。


「……それは……お答えできません。申し訳ありません」


 声は震え、喉の奥で掠れていた。


 ――扉の向こうには、確かに“何か”がいる。


 ディランは再び書斎へ戻り、魔道書を手に取った。だが記された文字は彼の知識と系統を異にし、意味をなさない。宝の山も、興味のない者には紙屑にすぎなかった。


 椅子に身を沈め、炎を透かすガラス越しに漂う煙を見つめる。


 ――あの男から話を引き出すには、どうすればいい。


 脳裏に浮かぶのは、尊大な虚勢と、その下に覗く空虚。

 かつて戦場で見た将たちと同じ。声を張り上げて兵を縛った男たち。


 ああいう男が欲するのは、己の手に収まる存在。逆らわず、外のことを知らない、頷くだけの人間。――あの少年たちのように。


 拳を握り、肘掛けを沈ませる。冷たい計算が指先にまで染み込む。


 ならば――演じるしかないだろう。


 蝋燭の炎を凝視した。

 煤が広がり、影が伸びる。

 

 ぱち、と音が爆ぜた。


 それは決意の刻印だった。

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