028 聖剣の間
ディランは灯りを携え、再び聖剣の間へと続く石の階段を降りて行った。
昨日は〈聖剣の儀〉のざわめきが夜半まで満ちていた。今はただ、蝋燭が燃え崩れる音がじりじりと石壁に沁み込むばかりだった。
灯をかざした瞬間、ふと光が反射して、左手の指輪が目に映った。
母の形見であるはずの指輪――それが魔道符だったなど、今も信じがたい。父も母も、魔道を使えたという事実さえ、自分には異国の伝承のように遠い。
改めてそれを凝視するが、孔雀石のはめられた銀の輪にしか見えなかった。冷たい光を返すばかりで、理屈を超えた力の気配などどこにもない。
ずっと、自分には魔道など何の関わりもないと信じ込んでいたのに――。
シルヴァなら、あの男ならば気づけただろうか。辺境で魔道符を受け取った時も、彼は迷いなくその正体を見抜いた。エル・カルドの土で育ったからか、あるいは〈アレスル〉の血ゆえなのか。
己には、魔道に関する知識がほとんど何もない。その無知が、常に心に影を落としている。
一方で、魔道が人の意思を媒介とする力であると考えると、わずかに安堵もあった。得体の知れぬ怪奇ではなく、人が目的を持って操る道具であるならば、まだ理解の余地がある。
聖剣の間へ入ると、まず燭台に灯を移した。炎が立ちのぼり、厚い石壁に赤と黒の影を揺らし出す。冷えた床に膝をつき、床石の一枚一枚に目を走らせる。
そして、台座を下から見上げたとき、わずかな付着物が光を吸った。手で触れると、湿った粘りが残る。何かが、ここに貼り付けられていたのだ。
その刹那――背に人の気配が走った。
戦いで研ぎ澄まされた感覚が反射的に身構えを強いる。耳に届くのは、階段を下りてくる靴音。規則正しく響き、次第にこちらへ迫ってくる。
息をひそめ、開け放した扉に目をやった。閉じ込められぬよう、樽を支えにしている。
足音が扉の前で止む。
……間が落ちた。
炎の揺れが大きくなり、鼓動が耳を叩く。
そして、静かに人影が現れる――ドナルだった。
ドナルは、銀糸の刺繍を施した黒い長衣を肩から流し、その裾を音もなく引きずった。
炎が彼の影を長く伸ばし、壁を這い、まるで部屋そのものが彼を迎えるように歪んでいく。影は裂けては絡まり、異形が潜んでいるかのようだった。
「何か、見つかったかね」
響いた声は柔らかい。だが奥に乾いた鉄の響きが混じり、笑みを浮かべながらも、眼差しだけは冷たい獣のように光っていた。
ドナルは優雅に近づいてきた。物腰はゆったりと、しかし重々しく。歩を進めるたび、衣擦れの音が石に吸い込まれ、存在感だけが増していく。
金の波打つ髪は短く切りそろえられ、炎に照らされると剣の鍔のように硬質な輝きを放った。だがその光沢は、肉体の温かさを感じさせず、まるで冷たい像が歩いているように見えた。
「いいえ。まだ、何も見つかっておりません」
ディランは膝を離し、静かに立ち上がる。裾にかかった埃を払う指先には微かな緊張が走った。
「そもそも、魔道というものをよく知りませんので、何を調べれば良いのか」
声にかすかな硬さが混じる。
ドナルは腕を組み、右手の指を顎に添えた。太い指に嵌められた指輪が炎を受けてきらめき、まるで小さな目のようにディランを睨み返す。その瞳は瞬きもせず、笑みを浮かべる口元との齟齬が不気味さを際立たせた。
「『転移の魔道というのは、基本的に魔道符によって行われる。その魔道符を使用できるのは〈アレスル〉のみ』――これは魔道書に記されていたに過ぎぬがね」
声は軽く流すようでありながら、一語ごとに重さが絡みつく。まるで自分の言葉そのものが縄となって、相手を縛ることを愉しんでいるかのようだった。
「昔の人は、転移の魔道でどこへ行っていたのでしょうか」
問いを投げたディランは、ドナルの表情を探る。
しかし男の顔は石壁のように動かず、炎の揺れすらその眼差しを崩せなかった。
「さあね。そんな事に関心を持つ人間は、もうここにはおらんよ」
ドナルは目を伏せ、自虐的な笑みを浮かべる。
「今のエル・カルドの者たちは、七聖家の人間ですら魔道を過去の遺物とみなしている。――嘆かわしいことだ」
ドナルは低く言い、蝋燭の炎を揺らしながら台座へと歩み寄る。
間近に立つと、その体格の厚みが石壁よりも重くのしかかってくる。だが――そこには戦士特有の気配がない。張り詰めた刃のような緊張を持たぬ身体。それは、力強さをまといながらも一度も血を浴びていない肉体であると、ディランにはすぐにわかった。
ドナルはディランを上から下まで舐めるように眺め、薄い笑みを浮かべる。
「第四聖家の青の長衣……実に美しい。七聖家の人間にふさわしい。君のお父上がこれを纏っていたのを、私はよく憶えている。お父上も母君も、美しい人だった」
失われた日々を懐かしむように、ドナルの目が細められた。
「……ああ、君はお父上に会ったことがなかったね」
その言葉に、ディランの口の端がわずかに震えた。奥歯をかみしめ、視線を鋭く返す。
ドナルは柔らかな笑みを浮かべた。だが目は冷え切った水底のように沈み、微動だにしない。
「そんな顔をするものではないよ。感情が顔に出やすいな、君は。……羨ましかったんだよ、私は」
羨望を装う声の奥には、乾いた嘲りが混じっていた。
やがて彼は唐突に手を伸ばし、ディランの髪を指に絡めた。
冷たく乾いた指先が頬をかすめ、ぞわりと嫌悪が背筋を這い上がる。同時に、その触れ方の異様な親密さが恐怖を際立たせた。あたかも、目の前の人間を“愛玩物”として撫で回しているかのように。
「だが、この髪はいただけんな。長髪はローダインでは『戦士の証』だったか? エル・カルド人が真似事をしてどうする」
ディランはその手を力強く払った。髪が背に散り、微かな残り香が鬱陶しく残る。全身の皮膚が痛いほどに粟立った。
――癇に障る男だ。わざと話題を逸らし、こちらを苛立たせている。
だが流されてはならぬ。今は魔道符の調査こそが目的だ。
「魔道の管理は代々、第二聖家が担っていると」
「管理といってもな、もう魔道を扱う者がいない。今はせいぜい、古い魔道書を修理し、棚に収めているだけだ」
「今でも、研究を続けていると聞きましたが」
「研究とは大げさだ。置き場を造っただけだよ」
「見せていただいても?」
ディランの言葉に、ドナルの表情がわずかに揺らぐ。思案の影が走り、すぐに消えた。
「……いいだろう。今から城外へ出る予定だ。馬車を用意させる。城門で待て」
ドナルは長衣の裾を翻し、炎を背に去っていった。
――こちらから求めずとも接触してきた。マイソール卿に頼んでいた手間が省けたのは幸いだ。
だがその風貌の豪奢さに反して、あの男は明らかに恐れている。聖剣の間を調べられることに耐えかね、様子を見に来ただけ。
小心者――そう断じてもよい。
そう心に呟いた瞬間、胸の奥に張りついた重さが残り、息が浅くなる。炎が揺れ、石壁に伸びた影だけがまだざわめいていた。




