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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第五章 失踪調査
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027 花の香り

 グレインネは拳で扉を二度叩き、そのまま返事を待たずに押し開けた。


「入るよ」


「グレインネ。入っていいって言ってから、入ってくれない?」


 室内から返ったのは、壊れ物のように脆い抗議の声。声色は頼りなく、胸の奥で細く折れた笛の音を思わせる。


「悪いね、せっかちで。それより、あんたがお待ちかねの人だよ。ディラン、お入り」


 その名を呼ばれた瞬間、ディランが一歩部屋に足を踏み入れた。濃密な花の香りが彼を包み込み、胸の奥に沈んでいく。


 陶器の器に盛られた花びらは、机の端、棚の影、床の隅々にまで点在し、そこかしこから香気を放っていた。部屋全体は窓を閉ざした温室のように息苦しく、逃げ場のない檻のような空間に感じられる。


 窓辺の寝台には、上体を辛うじて支えるように起こした少年の姿。布に沈む体は削ぎ落とされた影のように軽く、骨ばった手、乾ききってひび割れた唇にはかすかな血の跡さえ残っている。


 虚ろな瞳が揺れていたが、ディランを見つめた途端、その蒼白な頬に一瞬の紅が差し、瞳孔にかすかな輝きが戻った。


 アルトは唇を震わせ、乾いた舌でひび割れをなぞる。潤んだ瞳に小さな光が宿り、かすかな笑みの息をこぼした。


「……本物?」


 声は掠れていたが、重ねた指先が期待に震えていた。


「はは。本物だよ。さあ、こっちへおいで。この椅子に座るといい」


 グレインネは寝台の傍らに小さな丸椅子を引き寄せ、自分も隣に腰を下ろした。ディランは椅子に腰掛けると、迷いのない仕草で手を差し伸べる。


「ディランだ。少し、話をしてもいいか?」


 アルトはその手に細い指を重ね、両手でしがみつくように包み込んだ。窓から射し込む朝の光に透かされ、薄茶の髪がやわらかな光輪のように輝いた。


「いいよ。あの……共通語(コムナ・リンガ)で、話してみてもいい?」


「話せるのか」


 ディランは共通語(コムナ・リンガ)で問いかける。


「ウィラードの国の言葉で話をしたくて、クラウスに教えてもらったんだ。僕の言葉、わかる?」


 アルトも同じ言語で返す。


「ああ、ちゃんとわかる。ところで昨日の〈聖剣の儀〉があった時も、ここで外を眺めていたのか?」


「うん。そうだよ」


「その後は、どうしていた?」


「……〈聖剣の儀〉の終わりの鐘が鳴った後、この下の石畳を通る炎を眺めていた」


 アルトは窓の方へ顔を傾けた。光に当たった横顔は透き通るように白く、影は淡く長く伸びている。


「そうしたら、すごい振動があって……窓が割れるんじゃないかと思うくらい」


 握った手を胸に押し当てると、骨ばった節が白く浮き出た。


「びっくりして……使用人が様子を見に来てくれて……。それからは、ずっと寝台で横になっていたよ」


 胸が小刻みに震え、呼吸のたびに掛け布が不安定に上下する。


「他に、変わったことはなかったか? 何か、おかしなものを見たとか」


 アルトは首を小さく振った。


「では〈聖剣の儀〉が始まる前に、城に誰か出入りしなかったか?」


 少年は虚ろな瞳を細め、ディランを見つめ返す。


「ごめん。お昼から夕方までは眠ってて――」


「わかった。ありがとう」


 新たな手掛かりは得られなかった。ディランの胸には、再び聖剣の間を調べるしかないという確信が冷たく沈んだ。


「もう、いいのかい?」


 グレインネと席を代わると、彼女は黒ずんだ指を少年の手首に当て、脈を確かめる。その姿をアルトは、自分のことではないかのように遠い眼差しで見ていた。


「僕……後、どれくらい生きられるの?」


 グレインネは眉を寄せ、口をきつく結んだ。


「さあねえ。私は預言者じゃないからね」


「お母様は、残ったのが僕だったこと、後悔してるかな」


 彼女の唇が硬く結ばれ、低い声が部屋の空気を震わせた。


「滅多なことを言うんじゃないよ」


 その声に目を細め、グレインネから視線を逸らす。閉じられた唇から、かすかな息がこぼれ落ちた。


「でも、もう生きていたくない。早く終わりにしたい」


 アルトは掛け布を掻き寄せ、背を向けた。その背中は小枝のように折れやすく、布の下から骨の輪郭が浮かび上がる。


 グレインネの困惑した視線がディランに向けられた。


 ディランは静かな声で、その儚げな背中に言葉を投げる。


「誰がいつ死ぬかなんて、誰にもわからない。今、元気でも明日生きている保証など何もない。特に戦場ではな。さっきまで話をしていた味方が、次の瞬間には倒れているなんてことは、何度もあった」


 ディランの頬には、その時の矢のかすめる感触が、今もまざまざと残っていた。

 耳の奥に矢羽の唸りが蘇り、土に落ちる鈍い音が胸を抉る。主を失った馬のいななき、容赦なく照りつける太陽の熱、草に混じる血の匂い――五感に刻まれた死の記憶。 

 振り返った時には、さっきまで笑っていた仲間が喉を射抜かれていた。

 仲間はもう二度と動くことはなかった。


 死は影のように忍び寄り、次の瞬間には隣から人を消し去っていく。


「――だからこそ、生きている間は足掻くしかない。考え、抗い、必死に次の瞬間を掴み取れ。お前は死ぬのを待つだけなのか?」

 


 アルトは手を握り締めたまま、身じろぎもせず、耳をすます。

 室内に重苦しい沈黙が流れ、花の香りすら冷えた。アルトは必死に言葉を探し――それでも吐き出されたのは一つ。


「……わからない」


 そのままアルトは長く黙し、やがて瞼を重く閉じた。浅い呼吸が徐々に花の香りとともに、夢へと沈んでいく。


 グレインネは灰衣の侍女に薬を指示し、ディランを伴って邸宅を出た。外は再び雪が舞っていた。


「ありがとうよ。私やミアータの言葉は、あの子にはもう届かなくてね」


「正直、何を言えばいいのかわからないが、本当に死にたい人間は、人に死にたいとは言わないんじゃないですか」


「……そうかもね」


 グレインネは目を閉じ、しばし雪の冷気に身を晒した。


「彼は、何の病気なんですか?」


「わからない。七聖家では昔から時々ああいう子が産まれるんだよ。あの子も、十二、三歳までは普通の子だった」


「残ったのは、自分とは?」


 グレインネは口を結び、背を向けた。


「エル・カルドが国を開いて二十五年。たった二十五年か、もう二十五年か……。ほんの少し前まで私たちは古い因習の中にいたのさ。胸糞悪い因習にね」


 グレインネは短く吐き捨てると、話題を切り替えるようにディランの手に目を落とした。


「それよりあんた。ちょっと、その指輪を見せてくれないか?」


 ディランは左手の小指から指輪を外し、差し出した。渡された指輪を光にかざし、彼女はにやりと微笑む。


「……うん。やっぱり。……これも魔道符だと知ってたかい?」


「魔道符……?」


「そう。エル・カルドが国を開く前、アレスルは皆が魔道を使えた。あんたの両親も例外じゃない」


 ディランは言葉を失った。母からは一度として聞かされたことがなかった。


「安心しな。これはお守りみたいなもんだ。悪いものじゃない」


 返された指輪を嵌め直すと、グレインネは小さく肩を竦める。


「ちなみに、ドナル卿は……彼は魔道を?」


「いや。ドナルは知らないはずだ。少なくとも私の母は教えていない。流行り病の後で母は魔道を絶った。新しい〈アレスル〉に教えるのもやめた」


 昨日の会議で誰もドナルを疑わなかった理由が腑に落ちた。彼には魔道がないと皆が知っていたのだ。だとすれば、別に魔道を扱う者がいる――。


 ディランが考えを巡らせていると、第一聖家の邸宅から灰衣の侍女が籠を抱えて出てきた。


「それじゃあ私は帰るけど、気が向いたらうちにおいで」


 グレインネは侍女を伴い、自邸へと戻っていった。


 雪がしんしんと舞い落ちる。白の静寂に包まれた空気の中、城へ向かうディランの衣に、花の甘さだけが消え残っていた。


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