026 薬草師
次の日の早朝、ゼーラーン卿一行は雪に覆われた城門を抜け、ローダインへと旅立っていった。
トーマは最後まで「ここに残る」と言い張っていたが、コンラッドに背を押され、渋々荷馬車に乗り込んだ。荷台に沈み込んだ顔には、不満と諦めが重なり、目だけが雪の白へと逃げていた。
一方でエディシュは腕を組み、なぜかディランを睨みつけるように視線を寄越している。
「さっさと終わらせて帰ってきなさい」
吐き捨てるように残した声音には、心配よりも苛立ちが濃く滲んでいた。
空気は針のように肌を刺し、吸い込むたびに肺が縮みあがる。吐いた息は白くほどけ、風に裂かれて消えた。
馬の鼻息が曇りを散らし、蹄が石畳を叩くと低い衝撃が城門にこだまする。
荷車の車輪は凍った轍に軋みを響かせ、雪片を跳ね飛ばした。やがて音の名残りさえ雪に呑まれ、残されたのは張りつめた白い静寂だけだった。
暗く垂れ込めた雲の切れ間から、また雪が舞い出す。ひとひらずつ、音もなく落ち、一行の背を淡く覆い隠していく。
――やがて、蹄音も遠ざかり消えた。
ディランは雪に埋もれていく轍をしばらく見つめた。胸の奥に穴が穿たれ、その空洞へ冷気が流れ込み、肺を締めつける。誰かを失ったわけではない。だが確かに「去った」という感触だけが、重く残った。
沈黙が耳を覆い、吐いた息すら白く消え去る。自分の鼓動だけが、石壁の奥で鈍く反響しているようだった。
やがて、深く冷気を吸い込み吐き出すと、凍りついた心臓にわずかな熱が戻っていくのを感じた。
――マイソール卿から託された調査の権限。
その言葉を思い出すと、雪に縫い止められていた足が、ゆっくりと城の方へ動き出した。
いつの間にか雪はやみ、雲間から柔らかな光が差していた。朝陽は弱々しいが、冷えきった石畳をかすかに照らす。城の背後には七聖家の邸宅が並び、重々しい壁や窓の模様が一様に雪を抱え込んでいた。
石畳を進んでいると、前方から白い頭巾を深くかぶった人物が、風に押されるように足早に近づいてくる。雪明かりを反射して白布がきらめき、その下からのぞいた横顔には険しさと朗らかさが同居していた。第五聖家のグレインネである。
昨日の会議でまとっていた重厚な長衣とは打って変わり、今日は栗色の長いチュニックに裾を引きずるスカート姿。胸元から腰に白いエプロンを締め、庶民的な実務の匂いを漂わせている。
傍らには灰色の衣を着た中年の女が籠を抱え、その中から薬草の乾いた香りが風に混じり、鼻腔に苦味を残した。
「おや、さっそく調べものかい?」
声は思ったより軽やかだった。
「はい。一通りの場所は見ておこうかと思いまして」
「そうかい」
グレインネは足を止め、じっとディランを見つめた。
「……まあ、あんたが調べてくれてよかったよ」
意外な言葉に、ディランは眉を動かす。
「……あんたは、信用できそうだ」
彼が訝しげな表情を浮かべると、グレインネは小さく笑みを返した。
「……あんたの人となりはまだ知らない。けどね――あんたの“手”は信用できるよ」
不意に告げられた言葉に、ディランは一瞬視線を落とす。両手を持ち上げ、掌を上に向けて見つめた。雪明かりが左手の指輪に反射し、かすかな光を散らす。
「ああ、その左手は華奢で、女物の指輪がはめられるほど細い。けど右手は……別人だ。剣を握り潰すように使ってきた、骨の固まった手だ」
グレインネの目は笑っていなかった。指先から手首までを射抜くように観察し、口元だけがゆるく歪む。
「……努力をし続けた証さ。うちの母もよく言ってた――『手は嘘をつかない』ってね」
彼女は自分の手をぱっと広げてみせた。皺と染みが重なり、薬草の汁が黒くこびりつく。光に透かせば、一本一本の溝が刻まれた証のように浮かび上がる。
「ほら、この通りさ。私の手はもう、どんな言葉より雄弁だ」
その響きが、白い静けさに消えず、ディランの胸にだけ深く残った。
「あなたは、医者なんですか?」
問いかけると、グレインネは鼻を鳴らした。
「そんな大層なもんじゃないよ」
肩をすくめ、籠を抱える女をちらりと見やる。
「ただの薬草師のばあさんさ」
籠からは乾いた草の香りが立ちのぼり、陶器に詰められた薬が雪明かりに白く浮かんでいた。
「第五聖家はね、代々薬草絡みのことをやってきた。そういう家風なんだ。……今日はここの、ミアータの息子の具合が悪くてね」
顎で示された先――第一聖家の邸宅。蔦に覆われた石壁の二階、丸い模様のガラス窓にぼんやりと人影が映っていた。
「いつも、あそこから外を見ているのですか?」
「ああ、そうだよ」
ディランは目を細める。あの位置ならば、城の出入りをよく見渡せるだろう。
「彼と話すことはできますか?」
「それは喜ぶだろうよ。あの子はあんたと話をしたがっていたからね」
「なぜです?」
ディランの声には警戒がにじむ。
「あの子は、あんたみたいになりたかったんだよ。剣を取り、戦場に立ち、敵と渡り合う。今までエル・カルドの人間が避けてきた生き方さ。……ウィラード殿下から色々と聞いたようだね」
グレインネは空を見上げた。灰色の雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいる。
「あたしたちの世代とは違って、若い子は今のエル・カルドのあり方に疑問を持ってる。ミアータは嫌がるだろうが、気にするんじゃないよ。私も一緒に行くからついてきな。――それから。あの子を見ても驚くんじゃないよ」
彼女は邸宅の扉を叩き、声をかけた。灰色の衣をまとった中年の男が扉を開け、グレインネに軽く会釈する。
「さあ、入りな」
顎をしゃくると、彼女は先に足を踏み入れた。
館の内部は、外気とは別種の重苦しさを抱えていた。石壁に押し込められた空気は湿り、廊下に並ぶ燭台の炎がかすかに揺れている。足音を立てるたび、その響きがじわじわと呑まれていく。
階段を下りてきたミアータ夫人は、昨日の会議で見せた威厳とは違い、どこか落ち着かない面持ちで立ち止まった。
「あら、あなたは……」
「アルトが会いたがっていただろう? そこにいたから連れてきたよ」
「ええ、でも……」
口ごもる夫人を、グレインネは鋭い声で断ち切った。
「ミアータ。アルトはもう十八だ。立派な大人だよ。体が不自由だからって、いつまでも子ども扱いするんじゃない」
その言葉に夫人は肩を震わせ、まるで叱られた少女のように小さくなった。視線を落とし、口を閉ざす。
階段を上がると、廊下の先からクラウスが顔をのぞかせた。
目の下には濃い隈が刻まれ、頬は青白い。眠れぬ夜を過ごしたことは一目でわかる。
「ディラン! 何か、わかったか?」
思わず口をついた共通語。
「いや。まだ、何も」
「ウィラード殿下は一体どうされているのか……」
クラウスの声は震え、足取りは覚束ない。ディランは変わらぬ調子で答える。
「心配するな。シルヴァが一緒だ。あいつはどこへ行っても何とかする奴だ。ウィラード殿下のことも、きっと守るだろう」
その名を聞いた瞬間、グレインネの顔にわずかな動きが走った。
「ディラン。あんた、シルヴァの友達か?」
目を細め、じっと確かめるように問いかける。
「……別に、友人というわけでは」
「あの子、バカだからね。友人といわれても困るか」
「はい」
短く返す。
グレインネは一瞬きょとんとし、それから豪快に笑った。
「……正直だね、あんた。私はそういうの嫌いじゃないよ」
肩をすくめ、息を吐く。
「まあ、あの子は本当に……バカだよ。一昨日だって『〈聖剣の儀〉にちゃんと帰ってきたぞ』って得意顔で言うもんだから、『あんたが船に乗ってる間にうちの婆さんが死んでたらどうするつもりだったんだ』って聞いたら、目を白黒させてさ。……考えてなかったんだね」
回想に苦笑を混ぜながらも、彼女の吐息には寂しさが滲んでいた。
やがて廊下の奥、重たい扉の前で足を止める。
「さあ、ディラン。ここがアルトの部屋だ。隣はウィラード殿下の部屋だよ」
言葉の後に訪れた沈黙は、館全体の冷気よりも重くのしかかってきた。




