025 夜更け
深夜、コンラッドはディランの部屋を訪ねていた。
城全体が息を潜めたように静まり返り、外の雪明かりさえも白く窓硝子に張りついている。廊下に吊るされた燭台の炎は小さく震え、影だけが壁を這い回っていた。
自室へ戻る気にはなれなかった。胸の奥に溜まった不安が、ひとりきりではどうにも持ちこたえられそうにない。ウィラードはどこへ消えたのか。何から手をつければ良いのか。考えようとすればするほど霧の中に迷い込むようで、落ち着かない。誰かの声を聞いていなければ、得体の知れない闇に押し潰されてしまいそうだった。
そして――本当にディランをひとりにして良いのか。
視線をやれば、ディランはいつも通りの面持ちで寝台に横たわろうとしている。その落ち着きぶりが、かえって現実感を奪った。コンラッドはただ、ぼんやりとその背を眺めていた。
「フォローゼルが魔道符を使っていたこと……言わなかったんだね」
問いかけに、ディランは動きを止める。
「誰が、どう繋がっているかわからないのに、こちらの手の内を晒すこともないだろう」
その声は冷えて透き通っており、この状況でなお揺らがなかった。マイソール卿が沈黙を守ってくれたことは、確かに感謝すべきだろう。
「そうだね……大丈夫かい?」
コンラッドの表情は、いつになく深刻だった。もしこれが剣戟の戦場であれば、ここまで怯むことはなかったはずだ。
だが今、自分たちが足を踏み入れようとしているのは、姿の見えぬ魔道の領域――触れてはならぬものに手を伸ばしているのではないか。その感覚がじわじわと胸を締め上げる。
「また、何か変な心配か?」
ディランの軽口に、コンラッドは眉を寄せた。
「違うよ。君だって魔道は専門外だろう。何が起きるのか……全く読めない」
言葉が零れ落ちると同時に、強張っていた表情は一瞬にして不安の色に変わった。
「魔道の事がわかる人間なんか、ほとんどいないだろう。何もかもが手探りだ。……長丁場になるかもな。それに、フォローゼルの動きも気になる。奴らは必ず何か仕掛けてくる」
「そっちの方は、陛下に進言しておくよ」
「陛下の方が経験豊富だ。わかってらっしゃるとは思う」
それでもコンラッドは、心の底で恐怖に縛られていた。得体の知れぬ力に身を浸されるようで、冷や汗とともに外の冷気までが背に染み込んでくる。だというのに、目の前の友は平然と、何事もないかのように振る舞っていた。
同じローダインで生まれ育ったはずなのに、魔道に対する感覚はまるで違っていた。これは血の違いなのか。エル・カルド人とローダイン人の差というものなのか。
思えば、辺境で剣が弾かれる奇怪な現象に遭遇した時も、ディランは迷わなかった。あの場で彼は攻撃の継続を命じたと傭兵たちから聞いた。その咄嗟の判断は、後になって魔道符による結界だったと知れたが――なぜ、あの瞬間に即座に見切れたのか。問いただしても「それでいけると思った」としか言わなかった。
もし自分だったら。足がすくんで剣を振るうどころではなかったかもしれない。
そう思い至った時、寝台に横たわる友の背が、急に遠いものに見えた。
「どうした。寝ないのか? 明日は、早いんだろう?」
ディランは、帰れと言わんばかりの視線を投げる。だがコンラッドは、この場を離れる気になれなかった。このまま帰れば、もう彼は手の届かないどこかへ行ってしまいそうな気がしていた。
「誰か、手伝いに置いていこうか?」
「いや、一人でいい。正直、人の面倒まで見ている余裕はない」
コンラッドは目を伏せ、深く息を吐いた。
「わかったよ。……ウィラード殿下とシルヴァは、大丈夫かな」
窓に視線を移すと、丸い模様の施された硝子に雪が張りついていた。白の結晶が冷気を含んで、外気の厳しさを突きつけてくる。この寒空の下に放り出されたのなら、とても無事で済むはずがない――コンラッドの胸は締めつけられた。
だが、やはりディランは変わらなかった。眠たげに顔だけ向けると、毛布を肩まで引き上げる。
「大丈夫だろう。それについて心配はしていない。そのうち、ひょっこり帰ってくるんじゃないか?」
まるで信頼が前提であるかのような声音。コンラッドには、その無造作さこそが理解できなかった。ローダイン人の自分には、届かない何かがあるのか。それともただ、友への揺るぎない信頼か。
「そういうのは、七聖家同志で何かわかるものなのかい?」
「別に、そんなものはない。あいつは色んな場所で生活して、順応力だけはあるからな。どこにいても何とかするだろう」
その言葉は、焚き火の灰のようにふわりと落ちて、会話を終わらせた。
「……そうだね」
今は、それを信じるしかなかった。
祈る気持ちを冬の空に託すように、コンラッドは外の雪を見つめていた。
◇ ◇
パチパチと木がはぜる音をぼんやりと聞きながら、シルヴァは意識の底から浮かび上がった。煙が喉に絡み、むせそうになる。
聖剣の間にいたはずなのに、どこか違う。冷えた敷物の感触が背にあり、炎の光が瞼を透かしていた。体は鉛のように重く、目を開けるのがやっとだった。
灯火に照らされた壁には黒い影が揺らめく。驚いて身を起こすと、白髪白髭の小柄な老人が二人、ローブを纏って彼のすぐ傍に座っていた。
「うわ、何だあんたら」
声がやけに洞窟に響いた。
外からの音は一切なく、焚き火と声だけが反響している。
「『何だ』とは何じゃ。せっかく倒れているところを助けてやったのに。あんたの連れも」
振り返れば、ウィラードもすぐ側に横たわっていた。
「殿下……殿下!」
シルヴァが揺すると、ウィラードは重たい瞼を少し開いた。
「……シルヴァ? ……ここ……どこ?」
「ここですか?」
周囲を見回しても、暗闇ばかりで何も見えない。二人の老人の顔だけが焚き火に浮かんでいた。
「じいさんたち、ここはどこだ?」
問えば、老人たちは怪訝な顔を交わした。
「お前さんら、ここがどこか知らんときたのかい?」
「何も知らずに、どうやってきたんだ」
甲高い明るい声と、腹立たしげな低い声が交互に響く。
「……そんなこと、俺に聞かれてもわかんねえよ。〈聖剣の儀〉が終わってから、ウィラード殿下が剣を抜いたら、魔道陣が急に現れて……気がついたら今だ」
一人の白い眉毛が跳ね上がる。
「ほっほっ。〈聖剣の儀〉とは、懐かしい響きじゃな。まだ続いていたのか」
もう一人は眉間の皺をさらに深める。
「ウィラード殿下とは何じゃ。エル・カルドは、いつの間に王制に変わったんじゃ?」
思いがけない言葉に、シルヴァは目を丸くする。
「あんたら、エル・カルド人だろう? 別に王制になんかなっちゃいねえよ。ウィラード殿下は、ローダインの皇弟子殿下だよ」
「ローダインとは、何じゃ?」
「え?」
シルヴァは唖然とした。この大陸を統べる名を知らぬ者など、いるはずがない。
「ここに人が来るのは何十年ぶりかの。いつの間にエル・カルドは、そんなに変わったんじゃ?」
「前に来たのは、どこの誰じゃったかな。もう、それも忘れた」
「待て、じいさん」
シルヴァは混乱を隠せなかった。老人たちは顔を見合わせ、不思議そうに肩を揺らす。
「最近の〈アレスル〉は、薄情じゃの。儂らに挨拶もない」
「……一体、ここはどこだ?」
「ここか? ここは――エル・カルドの流刑地じゃよ」
焚き火の炎がぱちりと音を立て、洞窟に影を広げた。シルヴァの喉が、無意識に息を呑んだ。




