021-2 マイソール卿
マイソール卿が顔を上げたとき、暖炉の炎がぱちりと弾け、赤い光がゆらめきながら室内を照らした。その揺らぎに導かれるように、ディランの指先が視界に差し込む。
そこに浮かんだのは孔雀石の指輪。深緑の石が炎を受け、まるで森の奥に眠る泉の水面のように深く煌めいていた。
――セクアが結婚の折、キリアンから贈られたものだ。
祝宴のざわめき、寄り添う二人の笑み、誇らしげに満ちていた幸福の気配。忘れたはずの情景が鮮烈に甦り、卿の胸を熱で押し広げた。思わず言葉がこぼれる。
「君、結婚は?」
「いえ、まだですが」
唐突な問いに、ディランは眉をわずかに寄せた。炎の赤が横顔を斜めに切り裂き、冷たい陰影を際立たせる。
「まだ……ということは、する気はあるんだね」
「できる気はしませんが」
「シルヴァと同じことを言う」
卿の口から出た名に、ディランの視線が逸れた。口元がかすかに歪む。自分と同列に並べられたことが、癪に触ったのだろう。
「君はまだいい。若いのだからな。だがシルヴァは……何を考えているのやら」
卿は額に置いた指をこめかみに滑らせる。薪が爆ぜて乾いた音を放つが、次の瞬間には青年の冷たい眼差しに飲み込まれ、音はすぐに沈んだ。
「あいつなら大丈夫でしょう。そのうち落ち着きますよ。シルヴァはバカじゃない」
氷を思わせる澄んだ声。だがその端には、わずかな温度が差していた。卿は小さくうなずきながらも、胸の奥に小石のような不安が残る。
「他の聖家からは、バカだと言われているがの」
「彼は本能で動いています。言葉で説明できないから誤解されるだけです。でも……あいつは自分に足りないものを探しているように見える」
「足りないもの?」
卿の目が見開かれた。凝視する先で、ディランは表情を崩さぬまま、淡々と続ける。
「何かを決断するために必要なもの……いや、国そのものに必要なもの、かもしれません」
卿の胸にざわめきが走る。鼓動が速まり、掌に冷たい汗が滲む。
――この青年は、息子のどこを見ているのだ。自分さえ気づけぬ部分を。
ディランは冷えた葡萄酒のグラスを持ち上げ、無表情のまま唇を濡らした。その自然な仕草に、卿は言葉を失う。
「失礼ですが、この国の方々は外を知らなさすぎる。状況も、流れも、世界の仕組みも。……けれどシルヴァは違う。自分の目で確かめようとしている」
――胸が震える。
息子をここまで真剣に語る者が、他にいただろうか。乾いた喉を無理に動かし、卿は声を絞った。
「……シルヴァは、君のような友を得て幸せだ」
「別に、友人だと思ったことはありません」
鋭い刃のような返答。直後、グラスが卓に打ち付けられ、乾いた響きが居間に広がる。余韻が溶けるまでの数呼吸、卿は言葉を探しあぐねた。
「そ、そうなのか? いや、いつも迷惑をかけているようだね」
沈黙。ディランは応じず、椅子に深く身を沈める。卿の額にじわりと汗が光る。
その時、廊下から足音と笑い声が押し寄せ、重苦しさを押し流すように扉が勢いよく開いた。冷たい外気と共に活気が流れ込む。
「なんだ、ディラン来てたのか。お、うまそうなもん飲んでるな。俺もくれ」
シルヴァが外套を脱ぐと、革と馬の匂いが一気に部屋に広がった。
「あ、あたしも欲しい!」
「エディシュ。お前は、やめといたほうが……」
シルヴァは砦での彼女の酔態を思い出し、渋い顔で制した。
「なによ。温かい葡萄酒くらいで酔ったりしないわよ」
エディシュは唇を尖らせ、子供のように抗議する。結局、その頑固さに押され、二人にも葡萄酒が注がれた。
シルヴァは杯を傾けながら卿と低く言葉を交わす。
エディシュは葡萄酒で頬を温めつつ、ふいにディランへ顔を向けた。
「ねえ、ディラン。シルヴァたちは何の話をしてるの?」
「……ああ、すまない。ちゃんと聞いてなかった。孤児院の子供がどうとか……何かあったのか?」
一瞬、彼女は視線を伏せ、言葉を飲み込む。だがすぐに首を振った。
「ううん。なんでもない。……ねえ、トーマはまだ起きてこないの? あたし、起こしてきていい?」
「おう。階段を上がって左の突き当たりだ」
エディシュは弾むように駆け上がり、扉をそっと押し開ける。
中には毛布にくるまり、気持ちよさそうに眠るトーマの姿があった。
「トーマ! いい加減に起きなさい! 冬眠中の熊じゃあるまいし!」
怒声と同時に毛布が跳ね上がり、トーマは慌てて飛び起きた。




