002 序章 青い衣の女性
バルドは静かに語った。
「彼女の名前は『セクア』。やはりエル・カルド人で、見たことのない人たちが馬に乗って現れたので、外の様子を見に来たそうです」
アルドリックは驚嘆の眼差しで、目の前の女性を見つめた。
「……エル・カルド人。本当にいたんだ」
アルドリックは、漂う匂いに鼻をひくつかせた。
「じゃあ、この匂いは……」
「恐らくフォローゼルかと」
アルドリックとゼーラーンは、霧とも煙ともつかぬものが浮かぶ空を見上げた。アルドリックは、小さく舌打ちをした。
「バルド。彼女に、こう伝えてくれないか? 私はローダインの王で、エル・カルドのために手助けをしたいと。今、部下たちが様子を見に行っているので、戻ったらエル・カルドに連れて行って欲しいと」
「陛下、この人数で行くのは危険かと。一旦、陣に戻り……」
ゼーラーンは、主の気持ちが変わらないであろうことは承知していたが、忠告せずにはいられなかった。ここにいる者は、皆腕に覚えのある者ばかりではあったが、それでも何かあれば、この人数で出来ることは限られている。
「そうだね。でもまずはエル・カルドの様子を確認しないと。自分の目で見てみないと、判断がつかないよ」
アルドリックはバルドに通訳を促した。バルドは彼女にアルドリックの意図を説明し始めた。時折、地面に地図や文字を描きながら、かなりの時間をかけてようやく、アルドリックの意志は伝わったようだ。
セクアはアルドリックの前に歩み寄ると、深々と礼をした。少なくとも敵でないことは、伝わっているようだ。
セクアは力なく座り込んだ。張り詰めていた緊張がぷつりと切れてしまったのだろう。慌ててアルドリックは、その場にひざまずき、セクアの手を取った。その手は、池に浮かぶ月のように冷たかった。
よく見ると、青い絹の長衣には見事な金糸の刺繍が施されており、左手の薬指には、孔雀色の石がはめられた指輪が光っていた。
身に着けている物は、彼女の身分の高さを思わせたが、それにも関わらず、供も連れずに一人でいることは不思議だった。
火を起こして温めてやりたかったが、今はそういうわけにもいかない。アルドリックは自分のマントを地面に敷き、その上にセクアを座らせ、革袋に入った水を差し出した。セクアは戸惑いながらも革袋を持ち上げ、水を飲むと、ほうっと息をつき、安堵の表情を浮かべた。
アルドリックは、その様子をぼんやりと眺めていたが、ふいにゼーラーンに腕をつかまれ、その場から引き離された。ゼーラーンは渋い顔で、アルドリックに釘を刺した。
「陛下。あの御婦人の左手をご覧になられましたか? 指輪の持つ意味が我々と同じであるなら、あの方は既婚者です」
ゼーラーンは有無を言わさず、立て続けに言葉を継いだ。
「それから陛下御自身、二歳になる皇子の父親であることをお忘れなきよう。ことと次第によっては、レダ様に……」
妃である妻の名を出され、アルドリックは一気に現実に引き戻された。
「ち、違うよ。そんなんじゃないって。バルド! その人に、エル・カルドの王様ってどんな人か聞いて!」
女性と見ると親切が過ぎるのは相変わらずだと思いながらも、ゼーラーン自身、この女性の美しさは国を乱すかもしれないと感じていた。
一方で、バルドとセクアのやり取りは、段々とすんなり進むようになっていった。改めてこの男の順応力、理解力に感嘆した。
大陸には、共通語があるとはいえ、未だ土着の言語も多い。その中で彼は、大陸中を巡り、人々と暮らし、吟遊詩人としての糧を得ている。古今東西の歌にも通じ、あらゆる世俗の知識に堪能であった。
バルドは冬が近づくと、毎年ローダインの都エゼルウートにやってきて、冬の間はゼーラーンの屋敷で世話になるのが慣わしだった。
今は、大人になったゼーラーンの子供たちも、かつては冬のバルドの訪れを楽しみにしていたものであった。
今回、エル・カルドの話を持ってきたのも、バルドであった。フォローゼルとの戦闘が続く中、陣中にわざわざやってきて、近在の者たちの噂を告げにきたのだった。
成り行きで同行を許されたが、バルドの力がここまで役立つとは。あの時は誰も予想していなかった。もし、この場にバルドがいなければ、言葉もわからず、何もできなかっただろう。
やがてセクアは、地面に座ったまま外套の下から長剣を取り出して、バルドに何やら説明しだした。
ゼーラーンは剣を見てぎょっとした。彼女が、剣を帯びていたことに気づかなかったのだ。そして迂闊にアルドリックに近付けたことを悔いた。
彼女が、たまたまアルドリックを害する意図がなかったから、何事もなく済んだだけであり、本来は自分が対処すべきことであった。
冷静でいるつもりであったが、自分もまた、彼女の見た目に惑わされていたことに気が付いた。しばらくするとバルドは立ち上がり、アルドリックとゼーラーンに話し出した。
「彼女の話では、エル・カルドに王はいません。代わりに七聖家といわれる人々が、話し合いで様々なことを決めているそうです」
「七聖家」とアルドリックは、つぶやいた。
「七聖家には、それぞれ聖剣が一振ずつ与えられているそうです。そして、その剣に選ばれた者は〈アレスル〉と呼ばれ、家の代表となるそうです。ちなみに彼女も〈アレスル〉の一人だそうです」
セクアは静かに息を整え、柄を手にゆるりと剣を抜き去った。清冽な音が空気を揺らし、溢れるような光をまとう剣を、天に向かって掲げてみせる――まるで、神から与えられた剣のように。
そして、その剣は〈アレスル〉以外には、抜くことができないらしい。
剣の柄には、大きな孔雀色の石が嵌め込まれており、剣の素材は誰もが見たことのないものであった。
――アルドリックは、その異質な存在感に圧倒された。
(これが、エル・カルドの聖剣……)
次から次へと知らされる事柄に、正直、疑いの念がないと言えば嘘になる。だが、目の前でセクアと名乗る女性が存在することも、事実であった。
やはり自分の目で確かめたい。アルドリックがそう考えていると、遠くから馬の駆ける音といななきが聞こえてくる。二人の兵士が戻って来た。
「陛下。やはりエル・カルドの町が姿を現しました。それからフォローゼルの攻撃も。すでに退却したようですが、被害も出ているようです。我々は姿を見せぬ方が良いかと思い、遠目でしか確認しておりませんので、詳しいことはわかりかねます」
アルドリックは二人の判断を褒め、労をねぎらった。報告を終えた二人は、アルドリックのマントを下に敷き、座り込む女性に気が付くと、顔を赤らめうつむいた。
その様子を見て、アルドリックは気がついた。浮つくような熱が去り、冷静になる自分が戻ってくるのを。――為政者としての思考が戻ってくると、アルドリックはセクアの前にひざまずき、手を差し伸べた。
「……エル・カルドを、案内してくれますか?」
見つめる瞳にバルドの通訳は必要ないようだった。セクアは赤い花弁のような唇を少し開き、アルドリックの手を取った。アルドリックは、フェンリスの馬にセクアを乗せ、彼に手綱を引かせた。
一行は『迷いの森』の奥へ向かって進み始めた。霧の向こうの、まだ見ぬ町へ向かって。