017 詠唱と古歌
着替えを終えた五人は、城内の食堂でゼーラーン卿とコンラッドの帰還を待っていた。
太い梁に守られた食堂は、白壁に蝋燭の影をゆらゆらと漂わせ、炎の匂いがわずかに鼻をくすぐる。中央の長卓は長年の使用に磨かれた光を帯び、堂々と鎮座していた。窓には厚いガラスがはめ込まれ、さらに重苦しいカーテンが外の冷気を退ける。外は雪の気配があるのに、ここだけは柔らかな温もりに包まれ、吐息さえ静かに溶け込んでいた。
その扉が、不意に大きな音を立てて開く。
飛び込んできたのは、家に戻ったはずのシルヴァだった。死人のように青ざめた顔。額には汗が光り、喉は荒く上下しているのに、服装だけは不自然なほど整っていた。第六聖家の色を帯びたチュニックが、逆に彼の蒼白を際立たせていた。
「なんだ、ここは楽しそうだな。俺も泊まっていこうかな」
「何を言ってるのよ。あんたは家に帰んなさい……って、どうしたの? 顔色が悪いじゃない」
エディシュは呆れたように声を上げながらも、心配そうに近寄る。シルヴァは唇を開きかけ、ためらい、しぼり出すように言った。
「……忘れてた」
一瞬、時が止まる。誰もが互いを見合い、沈黙が重く落ちていく。
「忘れてたって、何を?」
エディシュの声は震えていた。
「……詠唱。〈聖剣の儀〉で唱えるやつだ」
広間がさらに冷えたように固まり、蝋燭の火が細く揺れた。シルヴァの肩は小刻みに震えている。
「前回は覚えるのに五日かかった。今度は一日しかない。……何のために早く帰ったのか、忘れてた。迎えに行ってる場合じゃなかった」
力なく言い終えると、その影だけが壁に揺れ続けていた。
「……一度覚えたなら思い出せるんじゃない?」
「それが、そうでもないんだ。全く意味のわからん言葉で、まるっきり忘れてる」
「書き付けはないの?」
首を振り、シルヴァは乾いた笑みを浮かべる。
「口伝だ。文字に残すなって言われてる」
エディシュは苛立ち、声を荒げた。
「じゃあ誰かに教わってきなさいよ! ここで騒いでもしょうがないでしょう」
「さっきまで教わってた。でも七聖家の会合があるから帰れって……。明日までに覚えられる気がしない」
そのまま壁に背を預け、ずるずると座り込む。両手で頭を抱え、呼吸だけが乱れていた。
「そんなこと言われても……ディラン、何か知ってる?」
「いや。もう口だけ動かしておけばいいだろう」
窓際に座るディランが、冷ややかに言い捨てる。シルヴァは顔を上げ、声を震わせた。
「よくそんなことが言えるな……。俺のせいで殿下の儀式が失敗したらどうする」
叫びが空しく広間を打ち、蝋燭の火が震えた。拳は爪が食い込み、わずかに震えている。
「お前の詠唱にそんな力があるのか? ただの儀式だろう」
冷えた声が突き刺さり、シルヴァは目を見開いてうろたえる。
「無責任なこと言うな。……俺のせいで殿下の〈聖剣の儀〉が失敗したら、どうするんだ」
「無責任なのは、覚えてないお前だ」
その一言に、シルヴァは呻き、肩を落とした。
「ああもう! あんたたち、うるさい!」
エディシュが叫び、張り詰めた空気を切り裂く。ディランはカーテンを引き、外の闇へと顔を背けた。
「結局シルヴァが覚えれば済む話じゃない。なんでそんなに覚えられないのよ」
広間が凍りつき、シルヴァは呻くように答えた。
「お前ら、知らないからそんなこと言えるんだ」
「じゃあ、どんなのかやってみなさいよ」
促され、シルヴァはおずおずと唇を開き、一節を唱える。
耳に馴染まぬ響き。どの国の言葉でもない、冷たい響きが空気を締めつける。
終わったあとも沈黙が残り、誰一人理解できず、蝋燭の滴る音だけが時を刻んだ。
「ごめん、シルヴァ。舐めてた。これは……よく前回覚えたわね」
「だろ? しかも十節あるんだ」
涙に滲む目で、シルヴァはかすれ声を返す。背後でトーマがクラリッツァを膝に抱き、ためらいがちに口を開いた。
「あの、シルヴァさん……もしかして、その詠唱ってこんなのですか?」
灯火の揺れを背に、記憶の奥底から旋律を引き上げる。変声期の不安定な声が、それでも澄んだ古歌を紡いだ。
「……トーマ、これは……」
シルヴァは耳を疑う。旋律は違えど、言葉は確かに〈聖剣の儀〉の詠唱だった。
「すみません。これ以上は声が……古歌の一つです。師匠に教わりました」
歌が止んでも余韻だけが残り、甘い沈黙が広間を満たした。
「へえ……古歌なの。大陸の古語とはまた別なの?」
エディシュの声が余韻を裂き、皆の意識を現実へ引き戻す。
「古歌はもっと古いものだそうです。神の言葉だとも言われます」
トーマの胸に、師の声が甦る。
「文字にしてはいけないとも言われました。――どんな文字だったのか、私は知りませんが」
静寂が、深く広間に沈んでいく。
「……トーマ。お前は神か。よし、飯のあと俺のうちに来て教えてくれ。泊まってもいい」
シルヴァの顔に明るさが戻った。
「いいんですか? でも……」
「気にすんな。うちには俺と親父しかいない。――よし、俺も飯食いに帰るわ。家は端から二番目だ」
嵐の爪痕を残して、彼は軽やかに去っていく。
「落ち着きのない奴だな」
ディランは肩を落とし、エディシュはトーマを見つめ、胸に手を当てた。
「トーマを連れてきて良かった。本当にすごいわね、あんた」
その言葉に、トーマの胸には嬉しさと後ろめたさが入り混じる。
詠唱の余韻がまだ胸に残ったまま、廊下の向こうからざわめきが押し寄せた。誰も言葉を継げないうちに、ゼーラーン卿とコンラッドが扉を開けて戻ってくる。通訳のミッダが食事を告げ、ジルとニケは使用人用の食堂へ移ろうとした。だがコンラッドに促され、二人はしぶしぶ客席へ腰を降ろす。
(……これ、絶対に食った気しないやつだ)
ジルは心で呻き、ニケも小さく肩をすくめた。二人は観念したように席につく。トーマだけは背筋を伸ばし、自然に椅子へ腰を下ろした。
給仕たちが灰色の服で皿と銀器を並べる。背後からの監視のような気配。
ずらりと並ぶ銀器にジルの胃は冷え、ニケも背を丸める。
一方のトーマは落ち着き払っていた。吟遊詩人として貴人の席に同席した経験があるのだろう。匙を取る仕草も自然で、口元に柔らかい動きがあった。――師の教育の賜物か。
ジルは自分との差を意識し、胸の奥にざらりとした感情を覚える。
「明日からはローダインの料理人が作るから」
コンラッドが囁く。その一言でジルはようやく息をつき、匙を動かした。
熱いスープが喉を滑り落ちる。味は分からなくとも、張りつめていた胸は少しだけ緩んだ。




