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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第三章 エル・カルドへ
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016 流行り病の痕跡

 ミッダに導かれ、一行は一階の湯殿へと向かった。

 石造りの廊下はひんやりと冷え、乾いた空気に足音が軽く響く。


 扉を押し開けた瞬間、熱気が押し寄せた。

 香油の甘い匂いが肺の奥にまで染み込み、肌は瞬く間に汗ばむ。


 エディシュとニケには別の浴室があてがわれる。

 灰色の衣を纏った女が二人、浴衣と着替えを両腕に抱え、深々と頭を下げた。

 彼女たちは共通語(コムナ・リンガ)を解さぬようで、静かな仕草で着替えるよう促してくる。

 やがて湯浴みの手伝いを申し出たが、エディシュは軽く手を振って退けた。

 女たちは従順に背を向け、入口に控える。


 蒸気の立ちこめる中、エディシュは浴衣(よくい)に袖を通し、湯船に身を沈める。

 橙の光が水面に揺れ、天井をゆらゆらと染めた。


「ニケ、どうしたの? お風呂入ったら?」


 頬を緩め、両手を広げてみせる。無防備な笑顔。

 けれど浴室には、静かな緊張が漂っていた。


「いえ、私は入口で見張っていますから」


 こわばった声が、濡れた石壁に跳ね返る。

 視線は鋭く、指先は衣の裾を落ち着きなくつまんでいる。


「その人たちがいてくれるから大丈夫よ。それに、お風呂に入らないと食事が出てこないわよ」


 しばしの逡巡。

 ニケは浴衣に着替え、湯へと身体を沈めた。

 だが背筋は最後まで緩まず、瞳には警戒の光が宿ったまま。


 ボドラーク砦の騎兵団でも、入浴と洗濯は厳しく命じられていた。

 戦傷を負う兵にとって、清潔は生死を左右する。

 理由は理解している。――だが、ここで強いられる清潔には、別の意図が潜んでいる気がしてならなかった。


 ニケは湯に浮かぶ香油をすくい、鼻先に寄せる。

 慣れぬ芳香に、眉をひそめた。


「……そんなに、お風呂って大事なことでしょうか?」


 無意識に、体を走る無数の傷跡へと指が触れる。

 指先が辿るたびに、過去の痛みが呼び覚まされる。

 エディシュはその仕草を見て、口を開いた。


「エル・カルドは開国して間なしの頃に、流行り病が蔓延してね。人口が半分に減るくらい酷い被害が出たの」


 湯に身を預けたまま、エディシュは天井を見上げる。

 湯気が橙光を滲ませ、揺れていた。


「その時、学者たちがね、外から来る人を清潔にさせると効果があるって言ったの。それで、ここではみんなにお風呂に入ってもらうことになったの」


 ぽたり、と天井から滴が落ちる。

 波紋が広がり、沈黙を打ち砕いた。


「旅の疲れ云々は方便ですか。……エディシュ殿は随分とお詳しい」


 ニケの声は鋭く尖る。

 エディシュは笑みを浮かべたが、すぐに真顔に戻った。


「――だって、その時事態の収拾にあたっていたのが、私のお父様だったから。……結局、お父様も流行り病にかかって、亡くなっちゃったけど」


 短い言葉のあと、沈黙が落ちた。

 湯気の向こうで、水音がやけに大きく響く。


「……そうでしたか」


 ニケは顔を伏せ、胸の奥に鈍い重さを抱えた。


「気にしないで。もう昔の話だし。小さい時に父親が死んだなんて、珍しくもないでしょう? 当時はあちこちで戦もあったんだし、戦死した人間だってたくさんいるわ」


 軽く言い残し、エディシュは湯船を上がる。

 水滴が白い肌を伝い、床石に落ちる。

 洗い場で桶を手に取り、頭から湯をかぶった。冷たいしぶきが散り、熱気を裂いた。


 ――その背中に、どこか拭い切れない寂しさが残っていた。


    ◇      ◇


 二人が浴室を出ると、灰衣の女たちが待っていた。

 用意されたのは白絹の長衣。金糸で縁取られ、七聖家の衣に並ぶ格式を帯びている。


 白――それは「清め」を意味する色。

 紫、黒、黄、青、茶、赤、緑。聖家の七色のほかに、客人に与えられるのは常に白。

 冠婚葬祭にも用いられ、同時に流行り病の記憶を背負う色だった。


 女たちは丁寧にエディシュへ長衣を着せ、肩に羊毛の白いショールを掛ける。

 灯りを受けて絹がきらめき、彼女の動きに合わせて柔らかに揺れた。


「見て、ニケ。お姫様みたい」


 エディシュは嬉しげにくるりと回る。

 その笑みの幼さに、一瞬だけ浴室の沈黙が遠のいた。


「お姫様みたい、とは……エディシュ殿はゼーラーン家の姫君でしょうに」


 呆れ顔のニケもまた、白絹の衣を纏っていた。

 褐色の肌に映える白は、彼女の警戒すら薄く覆い隠していた。


 髪を整え、二人は階段を上がる。

 クラリッツァの調べが微かに流れてきた。

 食堂前の廊下で、トーマが弦を爪弾き、ジルや下働きの者たちが輪を作っている。


 下働きの者たちは皆、白いリネンの衣を纏っていた。

 その白の連なりに、エディシュは思わず息を呑む。

 ――清潔こそ、今もなお最大の戒めなのだ。


 彼女の姿に気づいた彼らは、揃って静かに頭を下げる。

 そして散り、使用人用の食堂へと戻っていった。

 残ったジルとトーマが、彼女たちと共に客用の食堂へと歩みを揃える。


 ゼーラーン卿とコンラッドは既に出かけていた。

 ジルは白衣を纏い、トーマは使用人と同じ簡素な装い。

 革底のサンダルが床を軽く叩き、音が規則正しく続く。


「ジル。よく、あんたの着られる服があったわね」


「ええ、コンラッドさんが先に言っといてくれたみたいで」


 巨躯の彼に合う服は珍しい。だが備えは万全だった。

 ジルは裾を持ち上げ、所在なげに揺らす。


「ただ、こんなお上品な服は、俺にはちょっと……。剣も城に入る時に預けちまったし、なんだか落ち着かないなあ」


 その姿に、エディシュは小さく笑った。


「トーマも、お風呂に入った?」 「はい。入りました。エディシュさん、その服すごく似合ってますよ」 「ありがとう。そんな事言ってくれるのはトーマだけよ」


 エディシュは少年の頭を抱え込み、髪をぐしゃぐしゃに撫で回す。

 トーマは小さく身を固めたまま、されるがままだ。


 ――その時、扉の軋む音が広間に満ちた。

 厚い木の扉が押し開かれ、青衣を纏った影が姿を現す。


「……ディラン、その服……」


 現れたのはディランだった。

 深い青の長衣には銀糸が惜しみなく縫い込まれ、光を受けて眩いほど。

 戦場での彼を知る者にとって、その優美さはあまりにも異質だった。


 視線が一斉に集まり、空気がわずかにざわめく。

 エディシュの胸に、ざらついた焦燥と苛立ちが芽生える。

 ――ただ纏っただけなのに、彼が遠い存在へと変わっていく。


「父の家の者が持ってきた」


 他人事のような声音。

 布地に施された植物の刺繍が、エディシュの目に焼きついた。


「それは、お父様の? ずいぶん前の物よね。大事に取ってあったんだ」


 胸に浮かぶのは懐かしさではなく、置き去りにされたような痛み。

 彼が青衣を纏うその姿が、エル・カルドの人間であることを容赦なく突きつけていた。


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