015 エル・カルドへ
翌日、細かな雪片が風にさらわれ、砦の石壁を淡く白く染めていた。
吐き出す息は頼りなく霧散し、冷気は衣の隙間から静かに染み込んでくる。
砦の引き渡しは滞りなく進んでいた。石畳には蹄の音が高く響き、馬たちの鼻から荒い息が白い蒸気となって散る。荷車の軋みは風に溶け、慌ただしさの中に「終わり」と「始まり」が同時に漂っていた。
その光景を、丘の上から二騎が黙して見下ろしていた。
旅装のコンラッドとディラン。雪を受けた外套は湿り、鼻先は冷たく濡れる。
コンラッドが低く声を発した。
「昨日の捕虜の話だけど、魔道符の出所がわかったよ。――フォローゼルの神殿だった」
「神殿?」
思わず洩れたディランの声には戸惑いが混じる。魔道と神殿――決して並ぶはずのない名が並ぶ。
「首都ロクスファントの神殿だそうだ。本人は魔道符だとは知らなかった。ただのお守りとして母親から渡されたらしい。神殿で受け取ったものだって」
ディランは目を見開き、手綱を強く握った。革の軋みが指に食い込み、雪混じりの風が外套を翻す。
「どういうことだ。一体誰が魔道符を作っている? 神殿か、それとも別のどこかか……」
コンラッドは視線を逸らし、遠くの城門を見やった。冬を迎えて兵の数は減り、隙間の多い城壁が彼の胸に淡い影を落とす。
「まだ確かじゃない。ただ、あんなものが戦場に出回れば厄介だ。やはりエル・カルドの内部を探るべきだよ。ディラン、出来るかい?」
彼は足踏みする馬の首を撫で、落ち着かせる。
「どうだろうな。長い間まともに話していない。言葉が通じるかどうか」
「トーマには教えていたんだろう?」
「わかる範囲でな」
「シルヴァで耳慣らししてみたら?」
ディランは返す言葉を失い、逸る馬を旋回させてまた元の位置に戻した。
「そういえば、シルヴァもエル・カルド人だったな。共通語でしか話したことがなかった」
「昨日、シルヴァも同じことを言っていたよ」
眉を寄せたディランは視線をそらす。季節外れの赤い花が目に入った。
「教育係のクラウスはどうなんだ? 殿下と来てから、もう五年は第一聖家にいるだろう」
「クラウスは所詮ローダイン人だ。七聖家の中に深く入るのは難しい。たとえ表面上は親しくなれてもね」
「それなら私でも無理かもしれない。ローダインで生まれ育った私など、彼らにとってはエル・カルド人でも何でもない。……まあ、やれるだけやってみるが、期待はしないでくれ」
淡く差す陽が、コンラッドの伏せた顔に陰を作る。
「嫌な思いをさせるかもね」
「構わない。魔道符の出所を探るほうが重要だ」
丘の下から声が響き、二人は馬首を返して下り道へと進む。
街道には、砦を離れた人々の列が続いていた。荷車の車輪がぬかるみを軋ませ、泥を跳ねる。兵士たちの笑い声がかすかに混じり、帰郷の列は安堵の気配を漂わせていた。
そのざわめきの奥から、蹄の音が鋭く響いた。雪を散らして現れたのは、深い外套のフードを被った痩せた長身の男。四十ばかり、腰低くにこやかだが、瞳には理知の光がやどっている。
「すみません。コンラッド様、ディラン様。フェルディナンド商会のユーリです」
駆け寄る勢いのまま白い息が広がる。コンラッドは微笑み、馬首を向けた。
「やあ、ユーリ。君の所も大変だね。新しい司令官とは上手く行きそう?」
ユーリは軽やかに馬を降り、手綱を引き寄せながら小声で告げた。
「いえ残念ですが、うちは今回手を引きます。あちらは別の商会を利用されるようですし……」
言葉は丁寧だが、声音には冷えた秤の響きがあった。
「御用だとうかがいましたが」
「これを、帝都に届けて欲しいんだけど」
コンラッドは懐から手紙を取り出し、視線を前に向けたまま差し出した。紙の擦れる音が冷気に紛れ、ユーリの外套の内へ滑り込む。
「かしこまりました。確かにお届けします」
ユーリは素早く馬に飛び乗り、蹄の音を残して行列の中へ紛れ消えていった。その背には、長年の信頼が刻まれていた。
やがて人々の列も散り、残ったのは二十人余り。元将軍の一行にしては寂しい規模だったが、受け入れる側の負担を思えば妥当である。
準備が整うと、クラリッツァを抱えたトーマが荷車に揺られ、エディシュとシルヴァは昨夜の酒に頭を押さえている。
「私たちも、そろそろ行こうか」
一行は辺境育ちのジルを先頭に、最後尾にニケを置き、軋む荷車と共に進み始めた。足元には湿った風が吹き、枯れた草を踏んで行く。
その間、雪は積もらず、寒さも和らいだ。明るい光が降り注ぐ中、一行は順調に道を進める。
三日目の夕暮れ、エル・カルドの町が見えた。黒ずむ町並みに雪雲が垂れ、人影はまばら。やがて城へ続く跳ね橋に着く。シルヴァの呼びかけに応じ、門番が速やかに動き、重い橋がきしみながら降ろされた。木の板が石畳を叩く音が低く響く。
一行が馬を降り橋を渡ると、城門の影に一人の女性が立っていた。濃い紫の長衣に白い毛皮を縁取ったショールを纏うミアータ夫人。篝火の灯りにその影が揺れる。
彼女はゼーラーン卿の前に進み出て、傍らの灰衣の若い通訳に言葉を託した。
「ようこそ、おいでくださいました。ゼーラーン卿。お久しぶりです」
「ミアータ夫人も、お変わりなく」
夫人はちらとディランへ視線をやったが、言葉はなく通訳に合図を送る。
「さあ、皆さん城の中へどうぞ。私は通訳のミッダです。御用がありましたら何なりと」
帝国出身の移住者ミッダを先頭に、一行は馬と剣を預け、城へ足を踏み入れた。
広間の空気は意外にも暖かい。高い天井から垂れる燭台が炎を揺らし、磨かれた床石に金の光を散らす。中央には大階段が伸び、奥の廊下へ人影が吸い込まれていく。
慌ただしい出入りの最中、少年の声が響いた。
「コンラッド、エディシュ、ディラン!」
駆けてきた体を、エディシュが全身で受け止める。抱きしめた瞬間、胸の奥に昔の温もりが蘇った。
「ウィラード殿下! お久しゅうございます。砦へ来られなかったので、心配してましたよ」
「うん。前と違って遠くなったしね。なかなか行けなくって。でも馬の稽古はちゃんとしてるよ。……剣はあまりいい顔されなくて、ここでは野蛮だって言われるんだ」
唇を噛む呟きが、エディシュの胸に重く落ちた。
その声を聞きつけ、ゼーラーン卿が姿を現した。彼は膝をつき、ウィラードの前にひれ伏す。他の者たちもそれにならった。
少年は一歩進み出ると、幼さを脱ぎ捨てたように落ち着いた声で語りかけた。燭台の炎が揺れ、影がその顔に複雑な陰を作る。
「ヴォルフ、世話をかける。明日は頼む」
「今までよく頑張られましたな。結果がどうあれ、それは糧となります。御自分の力を信じて、明日に備えましょう」
クラウスに付き添われて去るウィラードの背を、皆がしばし見送った。名残惜しい空気の中、ミッダがにこやかに告げる。
「皆さん、旅の疲れを癒して下さい。その後、お食事をご用意いたしますので」




