012-1 ゼーラーン将軍
シルヴァが案内されたゼーラーン将軍の執務室は、明日撤収を迎えるというのに、荷物はそのまま残されていた。暖炉前の石床には、口を開けたままの空のチェストがいくつも転がり、書簡や衣服が無造作に積まれている。片付けの気配を待ちながら。
部屋の外からは、荷運びの人足たちの荒々しい掛け声が響き、木の扉を震わせていた。
「……あたし、席を外してるから」
部屋を出ようとしたエディシュの背を、シルヴァは慌てて引き留める。
「いや、居てくれ。ゼーラーン将軍と一対一だと緊張する」
エディシュは振り返り、呆れたように眉を吊り上げた。
「あんたが緊張するの? 嘘でしょ? ……おじいちゃん。シルヴァが来たわよ」
そう言い残すと、彼女は箱を引き寄せ、黙々と衣服を詰め始めた。埃を払うたび細かな粒が舞い、微かな風に押されて漂った。
シルヴァは将軍に促され、部屋の中央にぽつんと置かれた革張りの椅子へ腰を下ろす。座面の冷たさが背筋を貫き、思わず身を縮めた。
「悪いな、シルヴァ。こんな所へ座らせて」
ゼーラーン将軍の声は、暖炉の残り火のように低く深く響く。真白な長い髪と豊かな髭が揺れ、その影が壁に滲んだ。机の上のインク壺を脇へ押しやり、燭台を近づけると、光と影が交互に彼の顔を厳しくも柔らかく見せた。
頑健な体に、ローダイン人らしい大きな体躯。幼い頃に見たままの、変わらぬ姿。
――その人が引退する。胸の奥が急に締めつけられ、懐かしさと寂しさが押し寄せた。
「いえ、このようなお忙しい時に、お時間を割いていただき恐縮で……」
シルヴァは思わず立ち上がり、背筋を張り、指先までぴんと伸ばす。心臓が響き、喉が乾く。
「シルヴァ。堅苦しい挨拶は抜きだ。君と儂の仲だろう。昔、君がアルドリック陛下の膝に登っていたのを覚えている」
ゼーラーン将軍は目を細め、記憶を懐かしむように笑った。その青い瞳は灯火を映し、氷のように澄んでいる。
「その話は、どうか……。俺、本当に覚えてなくて。ただ、後で親父にこってり絞られて、木にくくりつけられたことは覚えています」
シルヴァは顔を赤らめ、頭をかきながら腰を落とす。背中にじわりと汗がにじみ、視線が机の縁を泳いだ。
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「お父上は息災かね?」
「はい。俺より元気なくらいです」
将軍は重々しくうなずいた。髭がわずかに揺れ、その動きに合わせて影もまた揺らいだ。
エル・カルドが開国して以来、ゼーラーン将軍とシルヴァの父マイソール卿は、互いに国の橋渡しをしてきた。友とまでは言わずとも、それに近い絆があった。
「それは何よりだ。此度は〈聖剣の儀〉の立会人に指名していただいて光栄なことだ。エル・カルドの人たちにすれば、外部の人間には見られたくないものだろうに」
「いえ、我々にとってゼーラーン将軍は特別ですから。ただ……」
「ただ?」
将軍の眼光が一瞬、炎に照らされて鋭く閃いた。
シルヴァは膝の上で両手を強く握りしめ、迷いながらも言葉を探す。
「ウィラード殿下のことが気がかりで。将軍を前にこんなことを言うのもなんですが、七聖家の人間は、殿下が〈アレスル〉になることにあまり肯定的ではなくて……」
ゼーラーン将軍は顔色を変えなかった。全て承知している、とでも言うように。
「七聖家の人たちにとってはそうかもしれないな。第一聖家の女性が母親とはいえ、他国の影響を受けざるを得ないだろうから、面白くはないだろう」
シルヴァの喉がかすかに鳴った。胸に押し込めていた思いが、堰を切ったようにあふれ出す。
「それに俺たちは、いつまでこんな事をしているんだろうと思って。〈聖剣の儀〉にしても、七聖家の制度にしても、昔はそれが当たり前だと思ってました。でも、いろんな国や場所を見て、こんなことをしている国はエル・カルドしかなくて……」
握った指を擦り合わせると、皮膚がこすれる音が耳に残る。
ゼーラーン将軍はふっと笑みを含み、髭を撫でながら問いかけた。
「シルヴァ。ローダインの戦士が『戦士の証』といって、みんな髪を伸ばしているのはなぜだかわかるか?」
「えっと確か……昔、首を守るためだったとか」
「そうだ。大昔の話だ。今となっては短い髪のほうが合理的だと思わんか? 実際フォローゼルの兵士は皆短いだろう? それで儂も若い頃、一度だけ髪を切ったことがある」
「え? 将軍がですか?」
シルヴァは目を見開いた。
「そうだ。そうしたら、どうなったと思う? 『こんな伝統を軽んじる奴の下でなど戦えるか』と反発されて総スカンだ。慌てて妻に頼んで、つけ毛で戦場に出たよ」
「……それ、作り話じゃなくて……」
笑うべきか、感心すべきか。シルヴァの視線が宙を泳ぐ。
横目でエディシュを探すと、黙ったまま首を縦に振っていた。
「本当の話だ。若気の至りだな。結局何も変えられなくて、ローダインの兵士は未だに長い髪が普通になってしまっている」
シルヴァは息を吐き、視線を落とした。
「難しいんですね。何かを変えるって」
「こんなつまらない事ですらな。だから焦るな。時期がくれば、変わらざるを得ないこともある」
将軍は艷やかな机に拳を置き、ぐっと身を乗り出す。青い瞳が炎を映し、温かさと鋭さを同時に湛えていた。
「君はまだ若い。気長にその時期を待ってもいいんじゃないか? お父上たちも恐らく、そうしてきたのではないか?」
「親父たちも?」
シルヴァは目を瞬かせた。あの堅物の父が変化を受け入れるなど、思いもつかなかった。
「そうやって今、儂のようなものでも招いてみようという気になったんじゃないか?」
父の広い背中が瞼に浮かぶ。
「……そうでしょうか」
シルヴァは言葉を飲み込んだ。
その間を断ち切るように、ゼーラーン将軍が話を転じる。
「それで、他に何かあるんじゃないのか? その話だけのために来たんじゃないだろう?」
シルヴァははっと顔を上げた。
胸の奥に沈んでいたものを掘り起こすように、次の言葉を探した。




