010 不可解な出来事
コンラッドとディランは、上官の居室へ続く石造りの廊下を並んで歩いていた。壁に並ぶ燭台の炎がゆらめき、細い煙が天井へと溶けていく。靴底が床を叩くたび乾いた音が遠くへ伸び、やがて背後から追いかけてきた。人声で満ちていた中庭とは正反対に、この廊下には靴音と息遣いしか残らない。
歩きながら、ディランが兜とフードを外す。黒髪が湿気を吸って頬に貼りつき、首を振る仕草にしなやかに揺れた。燭火に照らされた顔立ちは女と見紛うほど整っており、影が頬を鋭く切り取る。右手の籠手を外し、兜の中へ押し込みながら戦場で奪った魔道符をコンラッドへ差し出した。血と鉄の匂いがふっと漂い、冷たい空気をひときわ濃くする。
「今日の収穫だ。それを持っていた捕虜は牢に入れてある」
掌に載せられたのは孔雀色の石だった。ひび割れた表面が鈍く光り、抜け殻のように力なく転がる。コンラッドは無造作にポケットへ押し込み、横目でディランをうかがった。
黒髪の下、ディランの表情は無で、吐き出される声だけが硬い。
「こちらに気付くまで、奴らの動きは演習のようだった。……戦いというより、何かを試していた気配がある」
その一言でコンラッドの足が止まった。石床に響いた音が廊下全体を震わせ、静けさをさらに際立たせる。冷気が裾を舐め、首筋を這い上がった。
振り返ったディランの横顔は炎に縁どられ、光と影の狭間で揺れている。その視線を受け、コンラッドは喉を鳴らした。
「演習? 一体、何の?」
蝋燭が揺れ、影が壁を這う。短い沈黙ののち、ディランは顎をわずかに上げ、孔雀色の瞳を光らせた。
「さあな。フォローゼルの密偵から何か知らせは?」
問いかけに、コンラッドは拳を口元に当て、短く首を振った。影が頬を横切る。
「軍の動きについては特に報告はない。魔道符の調べも、これからだ」
淡々と返しながらも声に不安が滲んだ。ディランは聞き流すように前を向き、歩みを早める。肩越しの影が遠ざかっていった。
コンラッドは小走りで追い、軽くからかうように言葉を放つ。
「――そういえば報告書にあったな。女嫌いのフォローゼルの王子が、最近東国の女性を側に置いているとか」
氷のような表情が返ってきた。唇が僅かに動き、吐き捨てる。
「くだらない。関係ない」
その蔑むような眼差しに、コンラッドは窘めるような微笑みを見せた。
「くだらない話でも、時に有益になるんだよ。頭の片隅に置いておくだけなら損はない」
言葉は軽やかに聞こえながらも、底に重みがあった。コンラッドの穏やかな笑みが、蝋燭の影に奇妙に揺らぐ。
「この砦が落ちてから、フォローゼルの内紛は激しくなっている。根っこは病弱な国王と、妃も娶らぬ王子だよ」
告げられた現実に、ディランは視線を落とした。伏せられた瞳に長い睫毛が影を作り、靴音に苛立ちが混じる。兜を小脇に抱えなおした。
「わかっている。……だが、あんな魔道符を誰が作った? フォローゼルではないはずだ。魔道絡みならエル・カルドを探るべきだ」
苦味を帯びた声音は石壁に吸い込まれていく。コンラッドはその横顔を見つめ、目を細めた。
「調べるなら、君が適任だろう? 丁度ウィラード殿下の〈聖剣の儀〉がある。私もじいさまと参列するし、エディシュも行くと言っている。君も――」
「エディシュも? 何故だ」
苛立ちが困惑に変わった。黒髪が頬にかかり、影の奥から孔雀色の眼差しが揺れる。
「嫁入り前に、行きたい所があるらしいよ」
コンラッドは肩をすくめる。その仕草には兄としての複雑さが混じっていた。戦場では息が合う二人が、日常に戻ればいがみ合う――その不和を苦笑でごまかすしかない。
ディランは深く息を落とす。吐く息が白く散った。
「……実は、七聖家の代表から手紙が来ている。『〈聖剣の儀〉にゼーラーン将軍と同行されたし』と」
眉間に皺が寄り、炎が影を強める。
「なら好都合だろう。問題でもあるのか?」
軽く返す声に、ディランは足を止めた。石床に響いた靴音が長い廊下を渡り、炎が風もないのに揺れる。
「エル・カルドが私を呼ぶのは、聖剣の在り処を聞き出すためだ」
声は氷のように冷たく、空気を張り詰めさせた。コンラッドの肌をざわめきが走る。
「それは君の責任じゃないだろう?」
必死の声は廊下に溶けていく。
「母君が亡くなった時、君は帝都の私の家にいたじゃないか。父君がフォローゼルへ連れて行かれたのは生まれる前のことだよ」
遠い人声が、別世界の響きのように耳を打つ。ディランは暗がりへ視線を落とし、長い髪の影に顔を隠した。
「理屈が通じる相手ならいい。だが『戻れ』と言われたら厄介だ。……かと言って、いつまでも逃げるわけにもいかないがな」
諦念と苛立ちが交じった横顔に、コンラッドは胸を締め付けられる。無意識に拳を握り、逃げ道を探すように過去へ触れた。
「エル・カルドとは全く交流が無いのかい?」
「昔、叔父が母を訪ねてきた。それだけだ。シルヴァは別だが」
「母君のご兄弟かい?」
「いや、父の弟だ。今は第四聖家の代表。父の聖剣があれば〈アレスル〉になる可能性もある男だ」
声に熱はなく、感情を切り捨てていた。父と共に失われた聖剣は戻らず、ただ訃報だけが残った。遺体も聖剣も帰らなかった。
コンラッドはそっと目を伏せ、歩き出す。靴音が石床に染み込み、遠い余韻を残す。ディランも無言で並び、その影が二つ伸びていった。
反響する足音が背後から追いすがる。コンラッドは沈黙を破った。
「次の部隊の責任者と話したんだ。魔道の話をしたら、鼻で笑われたよ」
苦笑の裏に陰りがある。
「彼らには正しく対処する力がなさそうだ。この砦が危うくなれば、エル・カルドも巻き込まれるよ」
「そうだな」
ディランは短く応じ、瞼を伏せた。
「魔道符は、自分たちで調べるべきだ」
炎に照らされた横顔は月のような影を帯びていた。
「フォローゼルからの報告書は帝都に戻っても入手できるようにしておく。……父君の聖剣のことも、もし調べられれば」
「ああ、頼む。フォローゼルに私が乗り込むわけにもいかない」
二人の声は靴音と共に廊下へ溶けていった。
やがて目的の扉の前にたどり着く。立ち止まった瞬間、夜の鳥の羽ばたきが聞こえた。
ディランが取っ手に手をかけた時、コンラッドが穏やかに声をかける。
「――後でじいさまの執務室に来てくれ。私たち二人に用があるらしい」
柔らかな笑みを残し、コンラッドは踵を返す。背に束ねた金髪が光を受け、薄闇へと溶けていく。やがて靴音だけが余韻となった。
静寂に残されたディランは、ゆっくりと扉を押し開ける。冷えた廊下に温かな空気があふれ出し、張り詰めた心をわずかに緩めた。




