095 サディアスの帰還
雪解けの月も半ばを迎え、ローダイン皇帝アルドリックの弟・サディアスが、半年にわたる周辺諸国の視察を終え、帝都エゼルウートに帰還する日がやって来た。
宮殿にサディアスの一行が到着すると、謁見の間には多くの廷臣が集まり、皇帝との公式な再会の場が設けられた。
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅうございます」
サディアスは、兄の好まない形式張った挨拶を淡々とこなした。アルドリックも、人目の多い場では素直に応じるしかなく、同じく儀礼的な言葉を返し、皇帝としての務めをこなしていった。
夜。ようやく人目を離れ、アルドリックの執務室で兄弟だけの時間が訪れた。皇帝は宝冠や装飾品を脱ぎ捨て、長椅子にどさりと身を預けた。サディアスも向かいの椅子に腰掛け、葡萄酒のグラスを手にした。
「あー疲れた。サディアスは、よく平気でいられるな」
「陛下ほど、常時注目されているわけではありませんから」
「“陛下”か。子供の頃は“アル”って呼んでくれてたのに」
ふとアルドリックが懐かしげに笑う。
「そういえば、昔サディアスがベラノーシュで初めて冬を過ごした時、城の鉄柵を舐めて、舌がひっついて剥がれなくなったねえ」
「……そんなくだらないこと、よく憶えてますね」
「だって、もうどうしたらいいか分からなくて、大人たちを呼んで大騒ぎしたからね。忘れようにも忘れられないよ」
「私は、今の今まで忘れてました」
「自分が何も出来ない子供だと、思い知った出来事だったからね」
アルドリックとサディアスは五人兄弟の三男と五男。八歳差の兄弟で、特に仲が良かった。二人とも、少年期は他国で過ごすという当時の王族の慣習として、一時期ベラノーシュの城に滞在していた。
本来アルドリックは王位継承から遠い存在だったが、戦乱の中で上の兄二人が相次いで戦死し、十五歳で王太子となった。文武に秀でた兄たちと比べ、口先ばかりの息子に父王は不安を抱いていたが、他に適任はおらず、渋々後継者に据えた。
やがて父の死後、王となったアルドリックは周辺国との休戦交渉を始めた。その大きな転機となったのが、フォローゼルによる聖都ロクスファントへの侵攻だった。
東方へ攻め上がったフォローゼルは、聖地を制圧すると、今度は西方の諸国へと侵攻を開始。危機感を持った西側の国々は手を結び、ローダイン、ベラノーシュ、セントフェルド、ルッカを中心に帝国が築かれた。
アルドリックが皇帝に選ばれたのは、若くて扱いやすそうだったからだと本人は笑う。まさか二十五年後も皇帝の座にいるとは、当時誰も思わなかっただろう。
その治世を支えてきたのが弟・サディアスだった。誠実で実務に長け、誰からも信頼された彼がいなければ、アルドリックの政権はここまで続かなかったと言われている。
現在のサディアスの役目は、近隣諸国の監視だ。特に、ベラノーシュを除くサントフェルドやルッカでは時折不穏な動きが見られる。自由に動けない皇帝に代わり、彼は周辺の国々を訪れている。
「隠し子騒動は、視察先にも聞こえてきましたよ」
そう言ってサディアスは笑った。兄が意外と真面目な性格であることを、サディアスはよく知っていた。
「こういった噂は、定期的に出てくるもんだよ」
「……そうでしたね」
そして、グラスを口に運んだアルドリックが話題を切り出す。
「それで、アラナのことなんだけど……」
「ジーンから、だいたいの報告は受けていますよ。例の可能性についても」
「そうか」
「私は、アラナが話してくれるまで待ちますよ。エル・カルドの女性と結婚する以上、自分の理解出来ない事象が出てくるかもしれないということは、覚悟しています。とりあえず、ウィラードもアラナも無事で良かった。詳しいことはわかりませんが、いずれエル・カルドのシルヴァ殿には、礼を言わねばなりませんね」
「なかなか、面白い人物のようだな。身一つで大陸中を巡っているとは……。うらやましい」
「あの国にも、そういう人間が出てきたんですね。確か、陛下の膝に乗ってきたという子供でしたね」
「ああ、あの子か。覚えているよ。俺たちが話す言葉を、不思議そうに聞いていた。もう、二十五年も経つのか。あの時は、エル・カルドを実際に見ていろいろ驚いたよ」
中でも、アルドリックを驚かせたのは、エル・カルドには当時、貨幣という概念が無く、物々交換と労働力の提供で成り立っていることであった。そして七聖家が必要とする物は、無条件に供給され、対価についてはよくわからなかった。
ただ、七聖家に献上するという名誉はあったようだ。町の人たちにも特に不満は無さそうで、閉じられた場所ではそれも成り立つのだと、アルドリックは感心したのだった。
「ずいぶん、大陸の普通が通用するようになったとはいえ、まだ俺たちの知らない所で、昔の風習がいろいろ残っているんだろうね」
比較的、円滑に大陸の流儀が取り入れられていった背景には、流行り病で大量に高齢者が居なくなったことも大きかった。不幸な出来事ではあったが、エル・カルドの当時の若い人たちは、柔軟に新しい価値観を取り入れていった。
だが急激な変革は、必ずその代償を負う。いずれ、目に見える反発が、エル・カルドから起こるであろうことは、アルドリックも予想していた。ただ七聖家の人間が、フォローゼルを引き込むというやり方を取るとは、さすがに思い至らなかった。
「敵を国内に引き入れるなど、通常であれば死罪に相当するかと。エル・カルド側に、何か処分を与えられますか?」
「いや。内通者の件については、はっきりした証拠はないからね。それに処分などしたら、それこそフォローゼルの奴らの思う壺だ。彼らの目的の一つは、ローダインとエル・カルドの離反にあるだろうからね。七聖家の人間をローダインが処分などしたら、エル・カルドは反感を覚えるだろう。幸いフォローゼルの奴らはすぐに撤退したし、しばらくは俺も気づかない振りをしているよ。――それより、視察はどうだった? 何か変わったことは?」
サディアスは長椅子にもたれ、腕を組んだ。
「小国の王たちから、エル・カルドへの処遇に対して不満は出ています。なぜ、あそこだけ特別に厚遇するのかと」
「彼らに、魔道のことを言ったところで、理解はしないだろうね」
「エル・カルドでも、もう魔道はほとんど使われていないのでは?」
「そう思ってたんだけど、ちょっと風向きが変わってきたかな。あのまま、魔道が消えてくれれば良かったんだけれど……。でも、小国の王たちだって帝国の恩恵は受けているはずだろう? 軍備にかかる費用は格段に下がったはずだし。以前は軍費を捻出するために、パンを焼くことにさえ税をかけていたんだから」
「収税の手段を制限されたことも、不満の一つかと」
「帝国内で整理しただけなんだけどね。まあ、建国祭にはローダイン以外の諸侯も集まる。話をする機会を設けよう」
「後は、陛下にとって気分のいい話ではないと思いますが、次の皇帝について、探りを入れてくる者はありましたね」
「次の皇帝か……。俺はいつでも譲る気があるんだけど」
「ご冗談を」
「俺はいつでも本気だよ。今でも長過ぎたと思っているのに……。次の人が大変だよ。二十五年もやった人間と比べられるんだから」
「在位の長さもさることながら、皆が納得する人物となるとなかなか……」
「その点、エル・カルドの仕組みは上手く作用していたね。七聖家の代表は聖剣が人を選んでくれる。後継者選びに人の意思が介在しないから、揉め事も少なそうだ。羨ましい仕組みだね。当人たちには思うところもあるだろうが、結果的に何百年も続いている。うちなんか、二代目を選ぶだけで大騒ぎなのに。やっぱり無理にでも、最初にちゃんと皇帝の選び方を決めるべきだったんだろうね」
「しかし、当時はやはり難しかったのではないかと思いますよ。どの国も、自分の所から皇帝を出したかったようですし」
その夜、アルドリックとサディアスの話は、深夜まで続き、昔と変わらぬ絆を確かめ合った。




