094 暗い光
「よく戻ったね。ネイリウス」
ネイリウスと呼ばれた男は、祭壇の前でひざまずいた。顔を上げると、年代物の優雅な椅子に座る若い男の姿があった。
その若い男は細い体に不似合いな豪奢な神官の衣をまとい、両目に包帯を巻いていた。肩で切りそろえた黒髪をかき上げると、ネイリウスの方へ顔を向ける。
「アレイオス様。例のものをお持ちしました。今、執務室へ運ばせておりますので」
「悪いけど、私の部屋へ運ばせてくれるかい?」
「……お部屋にでございますか?」
「面倒かい?」
「いえ、とんでもございません。ただいま」
ネイリウスは内心舌打ちをしたが、神官長の言葉に逆らうつもりもなかった。相手は年若いとはいえ、ロクスファントの神官長なのだ。
ネイリウスは、神官長の私室に運び直すよう指示を出すと、再び祭壇の前にひざまずいた。
「ネイリウス、手を貸してくれるかい?」
「は、喜んで」
ネイリウスは立ち上がると、急いで駆け寄り、アレイオスの手を取った。女性のような細く冷たい手に、ネイリウスは不穏な面持ちを見せた。
「足元に段差が二つございます。どうか、お気をつけて」
アレイオスは右手に杖を持ち、左手をネイリウスに預け、神殿の奥にある私室へと向かった。部屋へ向かう長く暗い廊下に、ネイリウスはこわごわ足を進め、灯りを持って来なかったことを後悔した。
「ネイリウス、もしかして見えてないのかい? もういいよ。ここまできたら、一人で大丈夫だから」
「いえ、お部屋までお送りします」
ネイリウスは目を凝らして足元を探った。そのぎこちない様子にアレイオスは、ふふっと笑った。
「ネイリウス、『子リス』は捕まえた?」
ネイリウスの脳裏に、例の娘の顔が浮かんだ。
「……申し訳ございません。取り逃しまして……」
「そう。急がなくてもいいけれど、ちゃんと捕まえておくれよ」
「はい。必ず」
口には出さずとも、ネイリウスの顔には苦い色が浮かんだ。高位の人間というのは、言葉一つで現実をねじ曲げられると思っている――そんな反発が胸の奥にわだかまる。
この目の不自由な神官長は、不思議と何でも感じ取ってしまう。目の不自由な人は、感覚に優れているというが、アレイオスのそれは常軌を逸している。
彼は不思議と、手に触れた物を読み取ってしまう。まるで魔法だった。書物に手を触れただけで、文字が体へ流れ込むのだという。
その才は幼少期から発揮され、寂れた漁師町で生まれたにも関わらず、神の子と幼くして神殿に差し出された。神殿の書物に触れるようになってからは、あっという間に知識を蓄え、若くして神官の長となったのだった。
もしかしたら、見えているのではないか。その疑念は何度も抱いた。だが、いつもその考えは崩されるのだった。
……正直なところ、こうして手をつないで歩いていることすら、恐ろしい。心の奥底まで覗かれている気がして、ぞっとする。
ようやく私室の前にたどり着き、ネイリウスは重々しい扉を押し開けた。部屋の片隅には、エル・カルドから持ち出した魔道書の束が、供物のように積まれている。
アレイオスはそっとその一冊に手を置いた。皮革の感触と、金の文様を指でなぞりながら、かすかに微笑む。
ネイリウスは言葉を失い、知らず身を引いた。
◇ ◇
辺境の小さな町の宿に、女が一人帰ってきた。手には革袋を下げている。その女は、くすんだ金色の髪をショールで覆い、口の端を上げながら部屋へと入った。
「……モーガン、どこへ行っていた」
冷えた寝台の前で、若い男がたたずんでいる。
「ザザ、“仕事”に決まっているだろう? あいつらを追わなきゃならないんだ。支度は必要だよ」
ザザはそっと唇を噛んだ。モーガンの“仕事”がまともなものではないことは、充分理解していた。それが稼業として仕込まれたものであることも。
モーガンは革袋をテーブルに置くと、頭のショールを脱ぎ捨てた。
「あの娘、次は逃さない」
乱れた髪の隙間から、鋭い瞳が空を見つめる。
「……私は、ああいう女が大嫌いだ。人から守られて当然といった顔をした、何の苦労も知らぬような娘が――」
あの娘は、ある日フォローゼルに現れたかと思うと、あっという間に宮廷に招き入れられた。かつて、自分たちの居場所であった宮廷に、珍しい国の出というだけであの娘はいた。
王妃ベアトリキは若く見える東国の娘に興味を抱き、使節団の滞在中、後宮に部屋を与えた。王子バシリウスまでもが、娘を伴い市場や神殿へ足を運んだ。
それだけでも腹立たしいのに、先日は東国の武人が娘のために戦って死んだ。人に守られ、自分の手を汚さず、あの娘はのうのうと生きている。
泥の中を這い回ってきた自分と比べ、虫酸が走るほどあの娘が嫌いだった。
一方で、ザザにはモーガンの気持ちがわからなかった。東国の娘が宮廷に招き入れられた事と、この女の家が没落した事とは、なんの関係もない。
あの娘のことを苦労知らずと言うが、彼女の何を知っているのか。比べたところで仕方の無いことを比べ、目の前の女は怒りをぶちまけている。
冷静さの欠片もない女であったが、ザザにとってモーガンは放っておくことのできない昔馴染みでもあった。世が世であれば、結婚相手であったかもしれない。――もっともモーガンは、そんなことすら忘れたようだが。
今となっては、浮き上がることの無い身の上である。この女のために、生命を張るのも悪くないと思っていた。




