092 文書庫にて
ある日、コンラッドはジーンの執務室から少し離れた場所にある文書保管庫を訪れた。そこは人の出入りがほとんどない静かな場所で、彼がまだ少年だった頃によく通っていた思い出の場所でもあった。
そこでコンラッドは、文書室で働く一人の女官に声をかけた。歳の頃は自身と同じくらい、二十代後半に見えた。栗色の髪を結い上げ、落ち着いた濃紺の長衣に身を包んだ彼女は、まるで喪に服しているようにも見えた。
「昔の文書を読みたいんだけど」
「いつ頃のものでしょうか?」
「二十五年くらい前のものなんだけど」
「その頃のものでしたら、地下の保管庫になります。鍵をお渡ししますのでどうぞ」
女官はコンラッドに保管庫の鍵を渡した。
「必要な文書を見つけられましたら、閲覧は上の部屋でお願いします。一度に持ち出せる文書は三点まで。保管庫での滞在は、最小限でお願いいたします」
何度も聞かされてきた注意事項に耳を傾けたあと、コンラッドは蝋燭を手に取り、地下へと続く階段を下りていった。階段の突き当たりには、大きな木の扉が立ちはだかっていた。右手に持った大きな鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくり回す。蝶番がぎいと軋む音を立て、コンラッドは重い扉を引きずるようにして開けた。
暗い文書室に足を踏み入れたコンラッドは、蝋燭の灯りを頼りに保管棚をたどりながら、年代を古い方へと遡っていった。揺らぎ一つない空間には、自分の足音だけが響いている。目的の年代にたどり着くと一冊ずつ背表紙を確認していく。慣れた手つきで棚に手を伸ばし、書類を確かめたあと、入り口まで戻り、大きな鍵で木の扉を閉めた。
女官はコンラッドの姿を見ると、静かな声で話しかけた。
「お目当てのものは、ございましたか?」
「ええ。出来れば、一人で読みたいのだけれど」
「それなら、閲覧用の個室をお使いになりますか?」
コンラッドは鍵を女官に手渡すと、静かに個室へと歩を進めた。
「ありがとう。君は、いつからここで働いているの?」
「二年ほど前でしょうか。夫を亡くして、しばらくしてからですので」
「そう。ご主人は戦で?」
「いえ、ちょっとした揉め事で……。戦死でしたら、私も、もう少し良い扱いを受けることができたのですが」
「そう……悪い事を聞いたね。済まなかった」
「いえ。みんな存じておりますから。お気になさらず」
彼女の夫は、帝都の浴場でのケンカが元で亡くなったのだそうだ。不名誉な死に方ということで、親族からも見放されたのだという。『不名誉な死』。それはコンラッドにとっても他人事ではなかった。
コンラッドの父は、流行病が蔓延するエル・カルドで事態の収拾にあたっていた。エル・カルドで流行っていた病は、大陸の国々では子供ならば、誰でもかかるような病であった。
父は結局、その病にかかって死んだ。子供の頃、罹ったことがなかったのか、再び罹患したのかはわからなかったが、戦死でない父の死は『不名誉な死』とされた。もし祖父がいなければ、自分たちの境遇もまた困難なものだったに違いない。
コンラッドは個室を案内され、机の上に書類を置いた。窓からは陽の光が差し込み、その陽だまりに椅子を移動させると、書類を膝に乗せ、一枚ずつ紙をめくっていった。
書類の内容は、主に『中央』と呼ばれる会議の議事録であった。政務官や重鎮たち約百人が出席するこの会議は、帝国の統治機関として、主に外交、軍事、財政について話し合われた。
議事録には、エル・カルドが発見されたことを報告する内容と、その反応が生々しく記されていた。当時、皇帝に就任して間もない若いアルドリックに対する反応は、冷ややかなものであった。
その空気を一変させたのが、ディランの母セクアの存在であった。彼女の『中央』での訴えは、その場にいた全ての人の心を打ったようだ。言い伝え通りの孔雀色の瞳や手にした聖剣に驚き、彼女の美しさに呆然とする様が記されていた。
本来、この種の議事録に、記す者の感情が入り込むことはない。だが、このとき綴られた記録には、驚きと興奮が抑えきれずに滲み出ていた。
そして、言葉が不自由なセクアの代わりに、なぜかバルドが、フォローゼルに夫を連れて行かれた悲しみを歌い、皆が涙したらしい。
その後すかさず、祖父による辺境への派兵の要請があり、様々な施策への予算が組まれた。
帝国とエル・カルドの交流が進むにつれ、やがて『中央』に、エル・カルドで流行病が発生したとの報告が上げられた。病自体は、帝国にとってありふれたものであったため、当初、さして気に留められることもなかった。
だが、町での病の広がり方は尋常ではなく、帝国より派遣された医師により、エル・カルドの人々にとっては未知の病であったことがわかった。帝国からは事態の収拾にあたるため、アルドリック直属の部隊が編成されることになった。
だが、人員はなかなか決まらなかった。万が一、自分たちにとっても未知の病であればという恐れから、辞退が続いたせいであった。戦場で死ぬ覚悟のある者たちも、病で死ぬことは『不名誉』といって嫌ったのだ。
その中、名乗りを上げたのがコンラッドの父であった。『ブルーノ・ゼーラーン』。彼が中心となり、部隊が派遣されることになった。
コンラッドは目を細め、父の名前に指先で触れた。そして、そのまま書類を机の上に戻した。議事録で、父の名前が出てくる唯一の箇所であった。
病で死んだ父の遺体を帝都へ戻すわけにはいかず、エル・カルドで埋葬された。家族の元へと戻ってきたのは、父の名を記した紫色の木札だけであった。その木札は、今でも居間の暖炉の上に飾ってある。
帝国では、死者の名前を紫色に染めた板に記す。弔いのために、墓碑に葡萄酒をかける習慣からくるものであった。
戦場でもまた、生命を落とした者の名を山多豆の実で紫色に染めた小さな木の札に記し、家族の元へ知らせていた。たとえ字が読めない者であっても、その紫色の木札によって、家族の死を知ることができるのだった。
コンラッドが、軍務について初めて与えられた仕事は、帳簿をつけることと、紫色の木札に死者の名前を記すことであった。
部屋の扉が叩かれ、外から女官が声をかけた。
「ここは寒うございます。温かい飲み物をお持ちしました」
「ありがとう」
コンラッドは、女官の淹れた温かい葡萄酒に口をつけた。ジーンがよく淹れてくれた、マーマレードの入った葡萄酒とはまた違う、少し癖のある飲み物であった。
「お口に合いませんでしたか?」
「いや、そんなことはないよ。初めて飲む味だったから……」
温かい葡萄酒は、淹れる人により様々な味がある。最近は、南の大陸や東国から入ってくる香辛料を入れたものがよく出されたが、ジーンのように昔ながらのジャムを入れる方法もある。女官の葡萄酒からは、かすかに火酒の香りがした。酒飲みが好みそうな味だと思った。
「私は飲みませんのでよくわからないのですが、亡くなった主人が、この飲み方が好きだったもので……」
「そうでしたか」
「そういえば、コンラッド様は剣闘会に出られるとか」
「もう、そのような話が出回っているのですか?」
「ええ。それはもう。宮殿のあちらこちらで評判になっておりましてよ」
コンラッドは内心、戸惑っていた。まるで、コンラッドが辞退しないよう、外堀を埋められているようだ。
「私の夫も、建国祭の剣闘会に出場したことがありました。勝ったことはありませんが、あそこに出られるだけで名誉なのだと、自慢しておりました」
本来ならば、コンラッドも名誉に思うべきなのだろう。だが、ジーンから武勲は邪魔と言われ、砦でもずっと裏方に徹してきた。それが無駄になるような気がして、素直に喜ぶことが出来ずにいる。
自分のことだけなら、まだ我慢できた。だが、コンラッドは自分が裏方に回るために、代わりにディランを前に立たせた。不満そうにしていたものの、彼は最終的にその役目を引き受けてくれた。――騎兵団長という役割を。
彼が怪我をして戻ってくるたびに、心臓が止まる思いをした。自分が剣闘会に出ることは、彼の努力まで無駄にしてしまうような気がして、なかなか決心がつかなかった。




