091 空白の地図
コンラッドは、ジーンが拡げる半分空白の地図を前に息を呑んだ。
地図は、古来より軍事機密であった。地図による情報は兵站の確保、攻撃経路の選択に大きな影響を与える。
帝国では、地図の所持自体が禁じられている。手にできるのは、皇帝の近習など、ごく限られた者のみ。
――そんなものが、なぜジーンの机の下から出てくるのかは謎だったが。
大まかな国の配置を記した図や、街道・宿場町を示した簡単な絵を見ることはあった。だが、目の前にあるような地形が描かれた地図を見るのは、コンラッドも初めてであった。
そしてこの空白の部分。
――それは、政治上の空白部分でもあった。
「我々は、漠然とフォローゼルの東側を東国と言っているが、東国も様々だ。東国のうち、西側の一部は、ローダインよりもはるか昔――古帝国の時代に、その版図に組み込まれていた。人も文化もここと変わらないし、共通語も通じる。この地図の西の端がそうだ。そして、我々にとってその先は未知の国々」
ジーンは、まだ描かれていない白い部分を指差した。
「私には、まだわからないことが……」
「何だい?」
「魔道書の件です。なぜドナルは、わざわざバシリウス王子に奪わせたのでしょうか? 単にフォローゼルに渡すだけであれば、他の方法もあったでしょうに」
「ドナルが渡したのでは、エル・カルドがフォローゼルに魔道を流したことになってしまう。お守りと称した魔道符とは意味が違う。魔道書は、魔道の知識の根幹だ。エル・カルドは、今まで国の護りをローダインに頼ってきた。つまり今回の侵攻を許した責任は、ローダインにあり、その責任下で魔道書は奪われたということにしたいんじゃないか?」
「魔道が流出することに関して、エル・カルドは責任を負わないということですか?」
「今後、魔道がフォローゼルによって使われても、彼らは、そう主張するだろうね」
「……これから……さらに、魔道が使われてくるのですか?」
「正直、魔道に関して私も素人だからね。魔道書を手に入れただけで、どうにかなるものなのか検討もつかないけど、可能性はあるね」
コンラッドの握り締めた掌に、じわりと汗が滲んだ。本人が魔道符と気づかず持っていたものでさえ、それなりの脅威になったのだ。それをもし、フォローゼルが意図的に持たせるようになったら……。果たして、自分たちに打つ手はあるのだろうか。
「あくまで、これは仮説に過ぎないけれど、陛下の耳には入れておこう。後は、ディランが戻って来たら、もう少し何か……」
「あの……ディランのことですが、しばらく戻らないと……」
ジーンは眉を上げた。
「うん? 何かあった?」
「詳しいことは、また知らせると……」
コンラッドは、ジーンには見せなかった私信の入った懐を手で押さえた。すると、部屋の扉の向こうから素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「え? ディラン帰ってこないの?」
その声に、ジーンは顔をしかめた。いつの間にか、アルドリックが部屋の入口に立っていた。
「陛下! 盗み聞きはおやめなさいって、いつも……」
「声はかけたよ。議論が白熱してたから」
「ここへ来るなら、先触れを出しなさいと言っているでしょう。急に来られると迷惑なんですよ」
「……酷い。せっかくの息抜きの場所なのに」
不機嫌なジーンの抗議にも関わらず、アルドリックは、ずかずかと部屋へ入り込み、勝手に戸棚からグラスを出し、葡萄酒を注いだ。
「……で、ディラン帰ってこないって? 俺、確か〈聖剣の儀〉が終わったら、来るように言ったよね」
「祖父からうかがっています」
アルドリックはグラスを手に、長椅子にどっかと座ると、子供のように口を突き出した。
「……なんかさ、エル・カルド人って皇帝の命令とか権威とか、何とも思ってないことない?」
「彼に限って、そんなことはないかと……」
アルドリックは葡萄酒を一口飲み、テーブルに置いた。
「ひざまずいてくれるよ。頭も下げてくれるよ。でも、何か違うんだよね。こいつ俺のこと、何とも思ってないなっていうのが伝わってくるというのか……」
ジーンはアルドリックの不満を一蹴した。
「めんどくさい人ですね。普段は、皇帝だからといって気にするなと言っているじゃないですか」
「皇帝の権威を感じてくれる人にはそう言うよ。でも……」
「七聖家の人間は、彼ら自身、長い間絶対的な権力者でしたからね。皇帝のように最近できた地位など、何とも思ってないかもしれませんね。皇帝どころか、あそこには神様すらいないんですから」
「でも、彼はローダイン生まれのローダイン育ちだよ。それでも?」
「血は争えないんじゃないですか? だいたい、皇帝の権威を感じて欲しければ、普段の行いを改めて下さい。先触れをちゃんと出すとか――」
「あの、陛下の御用というのは……」
コンラッドは、たまらず口を出した。
「え? あ、えーっと……今年の建国祭でやる剣闘会にね、二人に出てもらおうと思ったんだけど。二人とも、ずっと辺境にいたから、出たことなかっただろう?」
唐突なアルドリックの言葉に違和感を覚えたが、コンラッドは黙っていた。
「剣闘会……ですか?」
「陛下、コンラッドを出すなんて聞いてませんよ」
「今、思いついた」
「……」
ジーンは、渋面を作った。
「前から君たちが帝都に戻ったら何かしようとは思ってたんだよ。コンラッドにしても、ディランにしても、これから帝都でやっていくのなら、名前を売ることも大事だからね。何と言っても、二人とも華がある。目玉になること間違いなしと思ったんだけど……」
コンラッドはジーンをちらと見たが、ジーンは我関せずとばかりに外の景色を眺めている。
「あの、私は……」
「コンラッド、いいかい。君がジーンのやっていることに興味を持ってくれるのは、正直ありがたい。ローダインでは、諜報や交渉ごとをする人間は賤しいと言って嫌う傾向があるからね。でもね、君はブルーノともジーンとも違う。生まれながらにゼーラーンの名を持っている。君は、君のやり方でことを運ぶべきだ。人の後を追っているだけじゃ駄目だよ」
「陛下……」
アルドリックは、葡萄酒の入ったグラスを指先で弾いた。キンと高い音が部屋に響く。
「知ってるかい? 昔、フォローゼル国王の妹で、イリス将軍っていただろう」
「はい。ずいぶん前から、消息は聞こえてきませんが」
「若くて戦歴も何もない彼女が、なぜ多くの町を陥落させることができたと思う?」
「優秀な副官がついていたのでしょうか?」
「それもあるかもしれない。でも、一番の要因は、彼女が攻め込む前、必ず工作する人間がいた」
「それは、どの司令官でも行うことでは? 上手くいくかどうかは別として」
「彼女の場合、その集団が恐ろしく優秀だった。国王が、妹のためにつけたんだろうね。暗殺、諜報、破壊。残念ながら、彼女が使いこなすことは出来なかったようだけれど」
イリス将軍の行動の苛烈さは、たびたびフォローゼル内でも疑問視されていた。彼女は戦場となった国や町で、必要以上に殺し、必要以上に奪い獲った。結果的に、辺境に住む人々の心をローダインへ向けてしまったことは、フォローゼルの大きな失敗だった。
アルドリックは、イリス将軍の苛烈さは恐怖からきていたのではないかと思っていた。自分の力以上の地位、自分の力以上の周りの期待、それを裏切る恐怖。昔はわからなかったが、今のアルドリックには、それが嫌というほど理解できた。
アルドリックは長椅子から立ち上がると、扉へ向かった。
「じゃあ、剣闘会の件、頼んだよ」
アルドリックが出て行くと、ジーンは散らかった机に肘をつき、ため息をついた。
アルドリックはどうやら、この城の片隅で、コンラッドを終わらせる気はないらしい。それが皇帝の意向であれば、二人とも従う以外にはなかった。
――たとえそれが、その場の思いつきであったとしても。




