009 ボドラーク砦
一団が砦に戻ったのは、陽の落ちる寸前であった。西の空は赤銅色に染まり、石壁の上で揺れる旗が燃えるように照らされている。冷えた風が頬をかすめ、遠くで渡り鳥の声が細く響いた。
ボドラーク砦は元々、フォローゼルが築いたものだ。異国風の尖塔や丸窓の並びは、重厚な石造りの中にどこか柔らかな曲線を描き出していた。幾度見ても飽きず、シルヴァの目を楽しませる。
堀に架かった跳ね橋が重々しく降ろされ、人馬がどっと雪崩れ込む。鉄の蹄が石畳を打ち鳴らし、馬の嘶きと兵士たちの掛け声が重なり合う。中庭では、木蔦に覆われた壁が夕闇に沈みつつあり、そこへ溢れ出した人々の熱気と声が一気に満ちていった。革の匂い、汗の匂い、焚き火の煙が入り混じり、雑然とした活気が渦を巻く。
すれ違いざま、次々と声がシルヴァに飛んでくる。
「ようシルヴァ。久しぶりだな。今度はどこへ行ってたんだ」
「船に乗ってた」
「船か。いいな。後で飲もうぜ」
たわいもないやり取りに笑みを返すシルヴァを見て、エディシュは呆れ顔をした。
「あんたって、どこにでも知り合いがいるのね」
確かに、行き交う人々は地方も身なりも様々で、砦の中は小さな市のようであった。異国の建物と人波とが混じり合い、日暮れの空気の中に奇妙な光景が広がっていく。
灯りのつかぬ回廊から、背の高い若い騎士が現れる。エディシュによく似た面差し、鋭さの奥に柔らかさを宿す碧眼が、真っ直ぐこちらへ歩んで来た。
「あ、お兄ちゃん」
「エディシュ、怪我はないか」
「お、コンラッド。久しぶりだな」
シルヴァは手を上げ、軽く振った。
「なんだ、シルヴァ。一緒だったのかい。悪いね。ここも明日の撤収の準備で、あちこちごった返している」
手にした羊皮紙を広げ、次々と兵士に指示を飛ばすコンラッド。その声は冬の陽だまりのように穏やかで、騒がしい砦の中で不思議と通りがよい。
シルヴァは、ひと回り背の高いその姿を見上げた。ローダイン人は総じて体躯が大きく、エル・カルド人とは対照的だ。
「明日、撤収か。本当に解散しちまうんだな。悪いな。忙しい時に来ちまった」
「構わないよ」
穏やかに返す声に、シルヴァはふと笑った。彼が怒る姿を見たことはない。エディシュと双子のように似ていながら、性格はまるで違う。
ふと天を仰いだコンラッドの掌に、ひとひらの白い粒が落ちた。
「ほら、雪がちらついてきた。雪が降りだしたらフォローゼルは来ないからね」
静かな言葉に、周囲の喧騒が一瞬遠のいた気がした。夕闇の空気の中、冷たく冴えた匂いが漂い、白い粉雪が暗い石畳に溶けて消えていく。
行き交う人波をかき分け、一人の少年が飛び出してきた。
「あ! エディシュさん。おかえりなさい」
歳は十四、五か。金色の巻き毛が中庭の焚き火の明かりにきらめき、碧い瞳がはじけるように輝いている。短いチュニックと下衣の軽装は、冬の空気にはいささか心許ない。頬に走る赤みが幼さを残し、その姿にシルヴァはふとウィラードを思い出した。
「トーマ。ただいま」
エディシュの声に安心したように頷いた少年は、その背後に立つシルヴァへと目を移す。
「あの、この方は?」
「この人はね、シルヴァ。エル・カルド人よ。これでも七聖家の人間よ」
エディシュは意地悪そうに笑い、指先でシルヴァを示した。
「これでもってなんだよ。……この子は初めて見る顔だな」
「この子はトーマ。バルドの弟子よ。バルドが亡くなってから、もう半年くらいここにいるかな」
その名を聞き、シルヴァは思わず目を見開いた。
「バルド? また、懐かしい名前だな。ってことは、こいつも吟遊詩人か?」
「ええ、失業中だけどね」
冗談めかした返しに、シルヴァは視線をトーマへ向け直した。少年は口を開きかけて、声がうまく出ずに喉を鳴らす。まだ不安定な響き――声変わりの最中なのだ。
「声が落ち着くまで、うちで面倒をみようと思って。ここで、いろいろ手伝いをしてくれてるわ」
「へえ、そうか。歳はいくつだ」
問いかけに、トーマの表情が曇った。沈黙が短く落ち、彼は視線を泳がせた。
「……わかりません」
「へ?」
シルヴァは目を瞬かせ、口を開ける。
返す言葉が見つからず、沈黙が落ちる。甲冑の触れ合う音がやけに大きく響き、荷を運ぶ男たちの掛け声がそれに混じった。
「僕、もともと捨てられていたんです。それに師匠も、最初はこれくらいだろうって数えてたそうなんですけど……途中で忘れたって」
トーマは顔を伏せ、最後は声を詰まらせた。寒さで赤らんだ鼻を手の甲で擦る仕草が、見た目以上の幼さを垣間見せる。
「なんだ、それ。……バルドって……そんな人だったっけ」
シルヴァは短く息を吐いた。
石壁に反響する物音が遠のいた気がし、胸の奥に落ち着かないざらつきが残る。
シルヴァが知る限り、バルドはあらゆる言語を自在に操る天才であった。父の話では、彼がいなければローダインとの交渉は成立しなかったというほど。そんな男が弟子の年齢を忘れる――その落差に、妙な違和感が生まれる。
「それに、年齢よりも他に覚えることは、たくさんあるって言ってましたので。古歌とか、古語とか、エル・カルドの言葉も習いました」
トーマは再び顔を上げ、誇らしげに瞳を輝かせる。
「へえ。じゃあ、エル・カルドへ来たら通訳してもらおうかな。エル・カルドではまだまだ共通語の話せない人間が多いからな」
慌てたように少年は首を振る。
「そこまでは、ちょっと自信ありません。騎兵団長には、時々教えてもらってますけど……」
「ディラン!? ……あいつ、エル・カルドの言葉を話せたのか。いっつも共通語で話してたから、気が付かなかった」
驚くシルヴァに、エディシュは肩を竦め、ため息をついた。
「そりゃ、話せるでしょ。セクア様は、あまり共通語が、お得意ではなかったらしいから。ディランとはエル・カルドの言葉で話されていたみたいよ」
石壁に反響するざわめきの中、シルヴァは腕を組み、しばし考えた。
「まあ、大人になってから新しい言葉を覚えるのは難しいよな。それでいうと、バルドってやっぱり凄かったんだな」
廊下が闇に沈む中、篝火が一つ、また一つと灯されていく。
自分の師を褒められて、トーマの顔にぱっと笑みが広がる。その笑みは幼く、無邪気で――ローダイン人らしい少年の顔は自分のことのように喜んだ。
「あ、ディランが戻ってきたわよ」
エディシュの言葉に、シルヴァが顔を向ける。
篝火の火の粉が舞う横を、風雪とともに面頬を上げた騎士が早足で近づいてきた。戦士も荷運びの人足も、慌てて道を空ける。トーマがそっと駆け寄ると、ディランは歩みを止め、身を屈めて小声で二言三言交わす。その姿は硬い鎧姿でありながら、妙に柔らかかった。
やがて少年は手を振り、暗い通路へ駆けて行った。背中に篝火の赤がちらりと揺れ、闇に溶ける。
「ずいぶん懐いてんな」
シルヴァが感心したように呟くと、エディシュは肩をすくめて笑った。
「まあ、ああ見えてディランは面倒見がいいからね」
その時、指示を終えたコンラッドが戻ってきた。
「エディシュ。シルヴァをじいさまの執務室へ連れて行ってくれないか。私たちも後で行くから」
短く言い残すと、彼はディランを伴い、居室の方へと歩き去る。人混みの中、残響のように足音が遠ざかり、しばし沈黙が残った。
エディシュがシルヴァへ振り向き、声を落とす。
「で、今日はおじいちゃんに用? 〈聖剣の儀〉のこと?」
「まあな。とりあえず挨拶と相談事かな。ゼーラーン将軍に」




