001 序章 解けた封印
――〈エル・カルド〉。古の言葉で「七つの剣」を意味するその国の名は、かつて魔道とともに封印された。
森は深い霧に包まれていた。秋の終わり、広葉樹は葉を落とし、針葉樹の影が森を覆っている。六騎の馬がゆっくりと、音をたてぬよう森を進んでいた。五人は旅人を装い、一人は本物の吟遊詩人だった。
若い男が、馬上で湿った金の長髪をかき上げ、きょろきょろしながら密やかな声を出した。
「真っ白で何も見えないな。ヴォルフ、どこだ?」
「陛下、すぐ前におります。この辺りは“迷いの森”と呼ばれておりますゆえ、くれぐれもお離れなきように」
そう応えたのは、白髪混じりの長い金髪をなびかせた男、ヴォルフ・ゼーラーン。顔を覆う髭と威圧的な眼差しが、戦の修羅場を潜ってきた将であることを物語っていた。
「以前ここでフォローゼル軍と遭遇しましたが……戦になりませんでした。互いに霧に惑わされ、ただ彷徨うばかりでした」
「中には、フォローゼルの兵士たちと、手を取りあって森から出てくる者もいる始末」
「人間、いざとなれば敵とだって協力できるってことだよ。なのに、何で戦なんかするのかな」
若者――ローダイン皇帝アルドリックの言葉に、ゼーラーンは顔をしかめた。
ローダインは大陸西方の強国であり、アルドリックは近隣の三大国をまとめ上げ、若くして皇帝として推戴された。いまや西は平定され、南の商業自治州も影響下にある。
「『エル・カルドを見つけるのは、我がローダイン軍が先。フォローゼルなど蹴散らしてこい』と言われたのは、アルドリック陛下では? おかげで我が軍は散々な目にあいました。だいたい今回も、陛下自らお出ましになる必要はなかったのではありませんか? こんな妙な変装までして」
ヴォルフ・ゼーラーンは、軍の天幕で、アルドリックが嬉しそうに皆に旅装を配る姿を思い出し、眉間に皺を寄せた。
「だって、千年も封印されているはずのエル・カルドの町が、姿を現したっていうんだよ。本当なら、早く見てみたいし」
「――そろそろ、その軽々しい言動を改めていただきませんと。陛下はもう一国の王ではないのですぞ」
二人のやり取りに、霧の中から羽飾りのついた帽子をかぶった男が馬を寄せてきた。
「何をおっしゃいます、ヴォルフ様。それは陛下の隠れ蓑。切れ者などと思われたら、命が危うくなるかもしれません」
「……バルド。何で、お前までついてきたんだ」
ゼーラーンが不機嫌な顔で、吟遊詩人を見返した。
「いやいや、霧に封印された伝説のエル・カルドの町が見られるとあっては、行かずにおられましょうか。吟遊詩人とは、古い伝承や古歌、古語、大陸中のあらゆる歌にも通じているもの。もし、エル・カルドが見つかれば、その辺の学者どもより、よほどお役に立てると思いますよ」
「そんなことは、本当に見つかってからでいいだろう」
「いえいえ、初めから携わってこそ『知る』醍醐味があるというものですよ」
ゼーラーンの憮然とした表情とは裏腹に、バルドは心底楽しそうであった。バルドという男は未知の探求こそ人生とばかりに、どこにでも飛び込んでいく男であった。
二人の様子を面白そうに眺めながら、アルドリックは静かに笑った。
「まあ、いいじゃないか。こんな時だ。誰が役に立つかなんてわからないよ。フォローゼルを相手にするのとはわけが違う」
東の新興国フォローゼル。いまこの“迷いの森”の向こう、辺境の荒野を挟んで対峙する最大の敵だ。
その急先鋒、イリス将軍――フォローゼル国王の妹にして、若き猛将。苛烈な行動を繰り返す彼女に、アルドリックは言葉では語りきれない不安を感じていた。
エル・カルド。伝説では、魔道とともに封印されたという古の王国。その封印が解けたとすれば、魔道の力が再び世に解き放たれる。もしイリスが先にそれを手にしたら――大陸の均衡は崩れ、戦乱が再燃しかねない。
もっとも、エル・カルドという国が、本当に存在するのかどうかは定かではない。昔読んだ本には、そこに住む人々は孔雀色の瞳を持つと記されていた。だがそれも、単なる言い伝えでしかなかった。
進み続ける一行の先頭で、ゼーラーンが馬を止めた。
「何か、きな臭いな。煙か……」
「お前たち、様子を見てこい。フェンリスは、儂とここで陛下をお守りしろ」
二人の兵は馬を駆り森の中へ消えて行った。ゼーラーンは、フェンリスに後方の守りを預けると、馬を降り、剣を構えた。フェンリスもまた馬を降りると、穏やかな表情のまま剣を抜いた。
アルドリックの乗る馬の前に立ち、ゼーラーンは目と耳を凝らし霧の中の気配を探る。毛羽立つような、緊張感のみなぎるゼーラーンとは対照的に、バルドは悠々と馬を降りた。そして、背中のクラリッツァと呼ばれる弦楽器を取り出し、膝に乗せた。
「止めろ! バルド。敵に見つかったらどうする!」
ゼーラーンの怒声もどこ吹く風で、バルドはクラリッツァを弾き続けた。
「待っている間、暇じゃないですか。それにフォローゼルだって、まさか、アルドリック陛下がこんな所で、呑気に音楽を聴いているなんて思いませんよ。大丈夫です。私の歌に惹かれて来るのは、ユニコーンか美女と相場が決まっています」
「そんなもの! どこかの昔話ではないか! 勝手に自分の話にするな。このホラ吹きめ!」
ゼーラーンは憤然としたが、アルドリックは馬を降り、木に繋ぐと、バルドの側に腰を下ろした。
「……そうだね。見つかったら、その時考えよう」
「陛下!」
ゼーラーンは青筋を立てたが、バルドは素知らぬ顔で歌い始めた。
「眠れ、眠れ、森の中で、目覚めるのは、時の彼方。
眠れ、眠れ、時の中で、再び会うは、終わりの時。
眠れ、眠れ、夢の中で、私の歌が、聴こえたなら。
眠れ、眠れ、あなたの、いましめが、解き放たれる、その時まで」
この大陸にいる者ならば、誰もが知っている古い子守唄だった。
「……歌というものは、訳がわからんな。一体、何を言いたいのやら」
ゼーラーンは、ぼやいた。
「武人という方々は、すぐに意味を知りたがる。悪い癖ですよ。こういったものは、もっと心で感じるものなのです。ご覧なさい。言葉のわからない馬たちですら、心地良さそうに聴いているではありませんか」
ゼーラーンは納得のいかない顔で、うっとりと目を閉じる馬を見た。が、不意に振り向き、再び剣を構えた。
「誰か来る」
ゼーラーンは、つぶやいた。
かすかに聞こえてくる、落ち葉を踏む音は軽い。女か子供か……。
「来た」
霧の帳が何者かに開かれるように姿を現したのは、月の女神もかくやと思われる黒髪の若い女性であった。深い青色の長衣にフードのついた外套を身に着けた姿に、アルドリックは息を飲んだ。
剣を構えるゼーラーンの姿を見て、彼女は恐れの表情を浮かべた。アルドリックは素早く駆け寄り、何も持たない両手を見せ、ゼーラーンを下がらせた。
その顔を間近で見た瞬間、アルドリックは陶然とした。月の光のような肌、けぶるような長い睫毛、切れ長の瞳――それは、まぎれもない孔雀色。まさに伝承の通りだった。
「……エル・カルド人?」
アルドリックが無意識に呟くと、彼女は何かを口にしたが、その言葉は理解できなかった。アルドリックが困惑していると、そこへバルドが割って入った。
バルドは、大陸中を巡り、あらゆる言語に堪能だ。たとえ知らない言葉であっても、どこからか糸口を見つけ、自分のものにしてしまう。そのへんの学者より有能だと、自負するだけのことはある。
バルドは自分の胸を指差し「バ・ル・ド」とゆっくり口に出した。
すると女性は目を見開いて「セクア」と自らを差した。
バルドはにっこりと笑い、地面に文字や絵を描きながら身振りで会話を始めた。時間をかけ、少しずつ単語を擦り合わせていく。
やがてバルドは驚くべき早さで言語の構造を掴み、セクアと交わす言葉が滑らかになっていく。セクアは瞳を見開いて、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
ようやく、バルドがアルドリックの方へ振り向いた。
「陛下、エル・カルドの言葉は、大陸の古語に非常に近いものです。つまり我々は、――思っていたより近しい存在なのです」