82.999本のひまわりを、君に。
泡沫夢幻。
『「……うわあ〜っ! もうこんな時間! 終電逃しちゃった!」
泣きそうになりながら、ばたばた駆けていく彼女とすれ違う。見る者をどきりとさせるような、不思議な引力を持つ緋の瞳。
運命だと思った。』
あの日ーー思い切って、彼女の手を取ることを選んだ。掴んで、けっして離さなかった。
*
親切心で声をかけたとはいえ。赤の他人同然の聖田に、彼女は言うまでもなく、困惑したような表情を見せた。
「いきなり、すみません。一駅分歩けば、僕のマンションがあります。だから……」
ーー女ひとりで野宿は危険なので、見ず知らずの男の家に泊まっていけ、だって?
聖田は思わず、苦笑する。
ナンパにしては、あまりにもひどすぎる出来だと思ったからだ。
「ええ……?」
赤い瞳に、まじまじと見つめられている。
分かっていたなら、こういう事態に慣れているであろう朱華に、ナンパが上手くいくコツでも教わっておくべきだった。まあ、"後輩"に教わる、というのに、若干の腹立たしさを覚えないわけではなかったけれど。
望み薄かと目を瞑ったとき、羽のように柔らかな手が、ふわりと聖田の腕を包んだ。
「いいん、ですかっ⁈」
今度は聖田が、素っ頓狂な声をあげる番だった。
*
「不束者ですが、よろしくお願いします……じゃ、なかった! お邪魔しまあす。」
殺風景な部屋は、年頃のお嬢さんの趣味には合っていないんじゃないかと思ったが、それはどうやら、杞憂に終わったようだった。
彼女、さっき自己紹介されて分かった名前ーー陽は今、部屋の中を好きなように物色している。
顎に手を添え、子どもみたいに隅から隅までを探索する陽には、なんというか、独特の可愛らしさが存在しているように思えてくる。
陽は部屋を一周すると、感想を求めたわけでもないのに「シティボーイみたいで素敵ですね」と、にこやかに言った。
この世でいちばん綺麗なものは?と聞かれたら、聖田は迷わず、その時の笑顔を思い浮かべるだろう。それくらい、陽は眩しかった。
その日を境に、陽はよく、聖田の家へ遊びに来るようになった。仕事帰りの陽はスーツ姿のまま、キッチンに立つ。ホワイト企業に転職したばかりの陽は、鼻歌まじりにおたまを握っている。聖田はエプロンを貸して、その姿を何十枚かだけ、写真に収めた。
恩返しにと作られるリゾットは、お世辞にも美味しいとは言えなかったけれど、焦げたきのこ含めて、陽の良さだ。なんて愛おしいんだろうと思った。
好きな本から楽器経験の有無に至るまで、聖田と陽は何においても、相性抜群だった。
何度同じ話をしても、全く飽きがこない。
結局、合鍵を渡し合う関係になるまで、そう長くはかからなかった。
(全部ほしい。全部あげたい。)
デートを重ねるごとに、聖田の欲望はまっすぐ育ってゆく。たまに、陽を壊してしまいたくなる。中身を開けたら一体、何が入っているんだろうといった、好奇心に駆られる。まるで己が、醜い悪魔のように感じられた。
「すみません……朧さんのプレゼント、間に合わせようと思ったんですけど、まだ配達屋さんが来ないんです」
ごちそうを前に、陽が申し訳なさそうに頭を下げる。料理の腕を上げたなと、感心しているところだった。
話を聞いてみる。テレビショッピングに感化されてしまうあたり、実に陽らしいなと聖田は微笑んだ。慌てると福島弁っぽいイントネーションになるのだって、聖田だけが知っていることだ。
「いえいえ。そんなふうに謝らないでください。陽さんと一緒に過ごせるだけで、僕はとっても幸せなんですから。ーーそれに今夜は、クリスマスだ」
窓の外に視線を落とした。カップルや家族連れが、ふわふわした表情たちが、これ見よがしと夜の街を闊歩している。
一度、陽から離れようと思った。もともと、自殺しようとしていた身だ。死ぬ前に良い夢を見せてもらったと、もっと似合う人を見つけてほしいと、そんなふうに言おうと考えていた。
しかし、いくら己の奥底に悪魔が潜むことを伝えても、陽は聖田の側を離れようとはしなかった。
ずっと一緒にいさせてほしい、と言われたとき、聖田は正直、どんな表情をしていいのか分からなかった。
もちろん、今のままでも、じゅうぶん幸せだ。でも、もっと幸せになりたいと陽を求めたら、ふたりは一体、どうなってしまうだろう。これまでの「気のおけない関係」ならではの均衡が、一瞬にして崩れてしまうだろうか。
柔肌にちょっと指先が触れただけで、おもしろいほど、陽の顔は火照りあがった。
もう、理性は効きそうになかった。
誕生日プレゼントには君がほしい、なんて、陳腐な台詞を囁きながら、聖田は陽のお腹にーーキスをする。
*
しばらく経って、陽の臨月が近づいた。
陽と、それからお腹の子に頑張ってもらうためにも、とっておきの景色を見せておきたいーー突然、そんな案が頭に浮かんだ。
聖田は身重の陽に負担をかけないよう、なめらかなエスコートに徹する。
陽は髪を下ろしていて、なんだかいつもと違う雰囲気を醸し出していた。もうすっかり母親だ、まるで聖母マリアの神秘のようだと、聖田は拍手を送りたくなる。
さあっと、あたり一面に、ひまわりの首が揺れている。穏やかで温い風が、三人を包み込んだ。たぶん、天国があるならこんなところなんじゃないかと思えるほど、素晴らしい眺めだった。
「ほわ……! すごいーーよかったねえ。嬉しいねえ。ありがとう、パパ」
陽が、大きくなったお腹をさすりながら笑みを向ける。聖田は陽の肩を抱いた。
「陽さんは、999本のひまわりの花言葉って知ってますか?」
いちいち数えてはいられないが、このひまわり畑には、それほどの本数が咲いているのだそうだ。
「……んー、分かった! いっぱいあるから、大好き、とかですか?」
あまりものを考えないところがまた、たまらない。
「うふふ。たしかに、それもまっすぐで素敵ですね。だけど正解は……"何度生まれ変わっても、私はあなたを愛します"なんだそうですよ。僕も陽さんを、死んでも愛し続けるんだろうなと思っ、て……」
聖田はぎょっとする。陽は、大粒の涙を溢していた。
「そんな、縁起でもない……」
「ああ、すみません。不安にさせるつもりはなかったんですよ」
聖田は、陽の背中をたくさんさする。もしかしたら、マタニティブルーになっているのかもしれない。
一家の大黒柱として、聖田ももっと、意識改革していかなければ。
このふたりを、家族を支えていこうと、聖田は目の前で揺れる花々に誓う。
だけど、どうしてだろうーーひまわり畑は、赤かった。
あとがき
古代アステカ帝国の象徴・赤いひまわりの花言葉は「悲哀」だそうです。