75.影武者と魂①
肌を刺すような冷たい風に、影助はコートを羽織り直す。
独断専行ーー結局、恵業たちにはなんにも言ずに屋敷を出てきた。事実、こんなことをしようと思ったのは初めてだ。いつだったか、世間知らずの陽に報連相を説いたのが、今はひどく懐かしい。
クリスマスが近いのもあってか、船内には優美なシャンパンタワーが、堂々と立っている。
そこからグラスをひとつ手に取って、影助はごく自然にあたりを見まわしてみた。
この船の行き先はどうやらイタリア、ミラノの北に位置する、オルタ・サン・ジューリオらしい。なんでも、聖なる山の上には、世にも美しい礼拝堂が無数に並んでいるのだとか。
天を連想させる翠の湖。影助はそんな風景を想像し、思わず苦笑してしまう。天国なんかじゃないーー地獄行きの船、わかりきった泥舟に、自ら進んで乗り込んでいるのだから。
陽に届いた手紙。
ほっと胸を撫で下ろす。陽は多分、あの手紙を最後まで読んではいないはずだ。
『オルタ・サン・ジューリオでお待ちしております』
あれはあくまで"陽宛て"という形をとった、いわば影助への果し状のようなものなのだ。船のチケットは、わざとらしく影助のデスクに置いてあった。どうもご丁寧に、と一枚もらったが、もう一枚はついさっき、ライターで跡形もなく燃やしたばかりだ。
売られたケンカは買って然るべき。それが影助の信条だった。
(誰にも邪魔させねェ。ひとりでカタをつけてやる。)
それが結果として、破滅を招いたとしても。影助には、絶対に成し遂げねばならない使命がある。
ーーカルマも陽も、全部オレが守ってみせる。
今生に意味を見出すため、死ににいく。
影助は信じる。それこそがきっと、カルマファミリー・アンダーボスの本懐なのであると。
見え透いた挑発に乾杯。首洗って待っとけ、と聖田にテレパシーを送るように、影助はシャンパンを一気に飲み干した。
*
独りきりの海外出張で寂しい、というよりかは、信者のふりをしてルナソーレ楽園に溶け込まなければならない、というほうが、影助にとってはよっぽど苦痛だった。
何か、暇を潰せるものでも持ってくればよかった。ポケットには、タバコと銃くらいしか入っていない。
「お隣いいかしら」
香水の匂いが、その場にむわっと立ちこめた。影助は、取り繕ったように微笑む。すると女は、品定めするように影助の頭から爪先までをじっくり見回した。
「ソーレ?」
「…………アンジェラ」
「よかった。素敵な殿方。あなたもやっぱり、聖地巡礼なさるのね。」
当たり障りのない返事にとどめておく。女の声は、なんだか耳障りだ。いやにはきはきしている。
「生きているうちにソーレ・アンジェラさまに謁見できるなんて、思いもしなかったわ。あなたもそうは思わない?」
影助は、はあとため息をつくほかなかった。
「馬鹿の一つ覚えみてェに、ソーレアンジェラソーレアンジェラって。一体アイツのどこに、崇め奉るポイントがある?」
目の前の女がどんな高尚な幻想を抱いているのかは知らないが、影助だけは知っている。陽はもっと、普通に笑うのだ。笑った時にできるえくぼを、ふいに思い出す。
それから、こっちが少し悪戯すれば、顔をタコのように真っ赤にもさせる。
神とか天使の類ではけっしてなく、もっとこう、孤独な人間にぐいぐい寄り添おうとするような、ただのお節介でお人好しの人間。
そう、影助を呼ぶ声も穏やかでーー
しばらくして女は、意味が分からない、というふうに目をぱちくりとさせた。
しまった、と思う。役に徹しようと思っていたが、全部口に出てしまっていた。
「あなた本当に、"こちら側"なの? ソーレ・アンジェラさま。最近、転生されていたのが分かったんですよ。新たな教祖さまが教えてくれたーー現人神が、ついに我らの前へ君臨なさったんです」
気付けば影助は、船内の信者たちに囲まれていた。皆ひとしく、絶頂に達したように目がイってしまっている。
ーー逃げるが勝ち。少々格好はつかないが、影助は脱兎の如く駆け出した。
「こっち!」
さっきの女だった。女は、思い切り影助の手を引く。
振りほどこうにも通路が狭いせいか、それはできそうになかった。
「……ここに隠れて。」
暗くてよく見えないが、中は展示室のようだった。
「オイ、お前はーー」
入らないのか、影助が尋ねると同時にがちゃりと、後ろで鍵が回った音がする。
「チッ、こンのっ……! スピババアめ!」
ハメられた。やっぱり無理にでも、女の手首を折っておくべきだった。
影助は瞬時に耳をすます。
暗闇の中でも、銃声が鳴り響いたのが分かった。
反射的に、巨大な水槽を盾にした。ガラスを砕いた衝撃と水の抵抗によって狙いは逸れ、徐々に弾の威力が削がれてゆく。
「ーーなはは、やってもうた」
(まだ、くたばってなかったか。ゴキブリみてェな生命力だな)
水底からは、ゆらりと癖毛のタレ目が浮かび上がっていた。