73.粘着ストーカーは騙したい
(でも、あのひとだけは違う。)
ヘリコプターは一旦、京都に着陸する。そうして、まだ京都に留まっているであろう男を、聖田は探すことにした。
*
何においても、中途半端は良くない。どうせ堕ちるのならば、行けるところまでとことん堕ちてみようと思った。
医学部を中退してからというものの、聖田はありとあらゆる反社会的組織に身を寄せるようになった。
昔からカエルの解剖は得意だったし、人体の構造も熟知していたつもりだったので、組織に裏切り者がいると分かったときなんかは特にーー最高だった。
"嬉々として仲間を折檻にかける"姿から付いたあだ名は、拷問のスペシャリスト・聖田朧。
だんだん、誰も彼もが忌避するような存在に、聖田はなっていった。
つまらない。意味がない。生産性がない。楽しくない。わくわくしない。
人生のどの部分を切り取っても、聖田は孤独だった。
もう、死のうと思っていた。
(樹海に行こう。照葉樹林がちょうどいい)
最期に記憶に刻むのは"あのひと"がいいと思って、聖田は電車の定位置につく。
おそらく、ブラック企業勤めなのだろう。あわてんぼうの彼女はいつも、終電間際にやって来る。
最初はただの、好奇心だった。
泣いている赤ん坊の前で、わざわざヘアゴムをゲジゲジに見立ててあやそうとしていたーー少々頭の弱そうな女性。
なぜだかは知らないが、しゅんと落とした肩を見たその日から、彼女を見るなり"もっとかわいそうになってくれ"と願うようになったのだ。
それでも毎日彼女を観察するのは、思ったよりも楽しくて。長らく観察してみて分かったのは、彼女は人を信じ、愛し、けっして疑おうとしないということだ。何より興味深いのは、周囲の人間もまた彼女に好感を抱いている、ということ。
一体どこから、魔性のフェロモンが出ているんだろう。聖田はそれが、気になって気になって仕方がなかった。
ふたりしかいない終電。にも関わらず、彼女は半分寝ているようだった。ミルクのような肌は青ざめ、目の下には大きな隈ができていた。
(貴女はそんな顔までして、生きるべきではない)
とっさに、あまりの警戒心の無さに「ふたりで心中しませんか」と誘ってしまいそうになったが、しばらく考えてやめた。
最初はただの、好奇心だった。
聖田は最期に、悪戯を仕掛けようと思った。
やるならねむかけしている今がチャンスだ。ちょうどヤミにばら撒こうと思って持ってきたアタッシュケースを、彼女の足元にそっと置く。
いつもの天然ぶりが発揮されれば、アタッシュケースだって楽器ケースに早変わりしてしまう。今なら寝ぼけているのも、相まって。
去り際、むにゃむにゃ言っていた彼女がやっと意識を取り戻しかけた。後ろ髪を引かれる思いはありつつも、極力目は合わせないようにする。
そうだ。ブラック企業なんてやめて、好きなように生きたらいい。
とりあえず、熱海あたりにでも旅行してくればいい、なんて呪いをかけながら。
最期に欲しかったんだ。「僕が貴女を生かしたんだ」という揺るぎない事実が。
それなのに。駅のホームからは、ありえない会話が聞こえてきた。いつもと違う駅で彼女が降りた時点で、気づくべきだった。聖田は唖然とする。
「こりゃ大金だ。お嬢さん、お名前はーー」
「いえいえそんな! 名乗るほどの者じゃないですよ。きっと落とし主さん、困っていますから」
落とし物扱いされたアタッシュケースはそのまま、老いた車掌にあっけなく引き渡されてしまった。
「……うわあ〜っ! もうこんな時間! 終電逃しちゃった!」
泣きそうになりながら、ばたばた駆けていく彼女とすれ違う。見る者をどきりとさせるような、不思議な引力を持つ緋の瞳。
運命だと思った。
ーーそうか。つまりあのひとは、僕に生きていてほしいんだ。
それから。彼女の勤め先、年齢、家族構成に至るまで、聖田は徹底的に調べ上げた。
どうやら命の恩人の名は、日楽 陽と言うらしい。
*
「ひとつ……おつかいを頼まれてくれはしませんか、朱華さん」
「うげっ! 誰やあ思たら、よりにもよって聖田クンかいな。相変わらずいけずやなあ。たまたま同じ大学やったからって、毎回俺のことパシるのやめてくれへん?」
トランシーバーの向こうの朱華は、先輩ハラスメントや!と、喧しい鶏のごとく好き放題に叫んでいる。聖田はちょっと大げさに、ため息をついた。
「残念です。あなたの頑張りしだいでは、僕も何か報酬をーーと思っていたのですが。いえいえ、無理強いするつもりはありませんよ。この話はなかったことにーー」
すると路地裏のほうから、ぬらりと影が現れる。先程から気配がしていたのは分かっていたが、わざととぼけたふりをして、そのまま通話を続けてみる。
「……それ、いくらになるん」
聖田は薄く笑って、おつかいの詳細を話す。船はもう、手配してあるのだ。
「……まーたそないなこと企んで。ええ加減、カルマの人らに叱られへんの?」
「さあ。強いて言うなら、君守さんしだいですしね」
「死,die,death,死ね……⁈ おおコワッ、殺意ましましやん。俺までチビリそうやわあ」
朱華は恐怖に肩を抱いているが、案ずることはない。なに。今からやってもらうことは、世界中におもちゃを仕掛けるだけの、実に簡単な仕事なのだから。
あとがき
本好きの朱華はかつて、文学部に在籍していたことがあります。