71.癒えない傷
影助に、寝台へうつぶせになってもらう。
さっきから大したことないと言い張ってはいるが、それは影助の精一杯の強がりなんだと、今の陽になら痛いほど分かる。
男の勲章ーー影助の背中は傷跡でいっぱいだった。おそるおそる患部に消毒液を塗ると、影助が低く唸った。まるで、悪夢にうなされているような声だった。
陽は慌てて謝罪すると同時に、己の無力さを恥じた。
こんな時、聖田なら、もっと上手く治療できていたはずなのに。
(朧さん……なんで……)
陽は叫びたくなるのを必死に我慢した。
これまで陽に優しくしてくれたのは全部、今日、陽を騙すためだったのだろうか。
弱気になってはだめだと思いつつも、わなわな震える拳を握る。
それならいっそーー優しくなんて、しないでほしかった。勘違いさせるようなこと、言わないでほしかった。
最初はただ、電車でよく会う憧れの人ってだけだった。時々穏やかに緩む口もとを見ては、笑顔ひとつで「今日も頑張ろう」と思えちゃうような、自分の世界の延長線上にいて、だけど、けっして運命が交わることのない人。
素晴らしい音楽、素晴らしい美術品に巡り出逢えたときに強く抱く感情。もしかしたら、一目惚れによく似ていたのかもしれない。だからこそ、いつの間にか陽の中で聖田の存在が大きくなっていっただなんて、本当は気付きたくなかった。
口を割ってみれば、驚くほど話が合った。常に歩幅を、合わせてくれた。普通なら馬鹿にされたっておかしくないような、どうしようもない陽のミスすらも、聖田は優しい眼差しで見つめてくれた。
失って初めて、その存在がいかに大事だったか気づくことがあるのを、陽は知っていた。だけど、胸にぽっかり空いたこの穴は、隠していくにはあまりにも大きすぎる。
「離れたくない。行っちゃやだ。朧さん……っ」
「………………」
あんなひどい人、もう知らない。だけどもう二度と、あんな素敵な人には出会えない。
抑えようとするのにとめどなく溢れる涙は、影助の傷口に沁みてしまったようだった。
*
「すまなかった」
眠りから目覚めた恵業たちが、陽に深々と頭を下げる。
「言い訳するつもりはねえが、あくまで陽を守ろうって作戦だったんだ。一日中見張でもつけて、いっそのこと陽自体を聖田から隔離しちまおうってな」
恵業は、それがこのザマだが、と両手を小さく広げる。今朝のカフェラテには、どうやら睡眠薬が混入されていたらしい。
影助の手から甘やかな香りがしたのは、やっぱりハンドクリームなんかではなく、カフェラテを溢しか何かしたためだったのだろう。
「だが、それでもあいつはお前の様子を見に行くだろうから、その時を狙って……全部白状させるつもりだった」
「ルナソーレ楽園。月と太陽。朧のルナと、陽のソーレ。」
セイコが、陽の頬にできた涙の跡を、さらりと撫でながら告げる。
「手紙が届くようになってから、怪しいとは思ってたんだ。あの団体は、もともとザンザーラの管轄下にあったしな。聖田も、あれだけ陽にご執心だったからまさかとは思ったがーーそのまさかだったな」
「……どういう、意味ですか?」
「あいつは、いくつもの顔を器用に使い分けてた。ある時はカルマの聖田 朧、またある時はザンザーラの聖田朧……まあ、それ以外にも色々だろうな。陽お前、今まで……笑っちまうくらい有利になったり、逆に笑っちまうくらい不利になったりしたことはねえか」
陽はえ、と声を漏らす。もしそうなんだとしたら。トランシーバーをなくしたのも、恵運村に鳩を送ってきたのも……
ハッとなって、顔を上げた。
全ては、彼によって仕組まれていたことだった?
「そう。俺らは今、ヤツの術中にまんまとはまっちまってるってわけだ」
全身に、鳥肌が立った。聖田は一体、どこを目指しているというのだろうか。