70.現人神
「このことについて詳しい説明を願えますか、陽さん」
「は、え」
陽は何度も、ボールペンのインク跡をなぞる。たしかにそこには、日楽 陽と書かれている。
セイコと影助が、神妙な面持ちでしばらく見つめあっていた。
「……まさかとは思うけど、ソーレ=陽って感じ?」
耳鳴りがした、と思うと、今度は鳥肌が立った。脳内処理が、追いつかない。
「なンだ……知らねェうちにお前、カルト団体と繋がり持ってたってのか」
視線も声音も、驚くほど冷ややかだった。
「宗教勧誘ねえ。そーいや若いヤツらの間じゃ、どうやってジジババを騙そうかって話題で持ちきりなンだって?」
詰め寄ってくる影助に、陽は全力でかぶりを振る。
「おじいさんおばあさんを、騙す……? そんな酷いこと、絶対やろうと思わないです!」
みんなが、訝しげに眉を顰めていた。陽はまるで、尋問にでもかけられているような気分になった。
やがてその場をさらに静めるかのように、恵業が重く、口を開く。
「ーー陽には悪ィが、昨今の情勢を鑑みて、用心するに越したことはねえよな。うちは"疑わしきは罰せよ"、だ。ーーおい! 連れて行け」
部屋の外に控えていた信濃と駿河が、陽を二人がかりで押さえる。
「違っ、どうしてーー私、ルナソーレ楽園なんて知りません!」
どんなに叫んだとて、悲痛な訴えが届くことはなく、陽は囚われの宇宙人の格好のまま、ずるずると引きずられていく。
火葬炉のように、扉は無情に閉まってしまった。
終始申し訳なさそうな顔を浮かべていた二人が、陽を地下牢に閉じ込めた。あたりを見渡すと、そこに花一の姿はなかった。
暗くて冷たい、独房。
(花一さんも、ずっとこんな気持ちだったのかな)
ルナソーレ楽園とソーレ・アンジェラについては、本当に何も知らなかった。それなのになぜ、陽に疑いがかけられてしまったのだろう。
「もしや同姓同名とかーーは、さすがにないか」
当て字だもんなあ、と一人寂しく思ってみる。
*
ぐうと、大きくお腹の音は鳴る。窓はないが、多分今はお昼くらいなんだろう。
唾を飲んで、空腹感を和らげようと思ったとき、遠くのほうから聞き覚えのある音が近づいてきた。
顔を上げれば、聖田がパンを片手に立っていた。
「あーー朧、さん」
勢い余って感謝を伝えようとしたところ、静かにというジェスチャーをされた。分かっていたとはいえ、陽はしゅんと肩を落とす。
すると、聖田はなんでもないふうに、慣れた手つきで鍵を開け始めた。
南京錠が、がちゃりと落ちる。
「朧さんっ⁈ あの、なにをしてるんですか」
困惑しすぎて震える声でたずねてみれば、
「話は後です。ここではなんですから、屋上まで向かいましょう」
聖田は表情ひとつ変えずに、そう返してきた。
*
意外にも、地下牢を出てからは誰とも鉢合わせなかった。
「今回の一件、どうも……陽さんを貶めようと暗躍する、黒幕がいるようです」
予想外の発言に陽は目を大きく開け、一歩引いた。黒幕って、とうわごとのように繰り返す。言葉の意味どおり、わざと陽を騙そうとしている、ということだろうか。
もう、人間不信になってしまいそう。
「事の次第を円滑に進めるためとはいえ、回りくどいーー信頼に欠くような真似をしたこと。どうかお許しください。僕は悪しき魔の手から陽さんを守るため、今こうしてお迎えに上がっているのです」
そう告げると、僕と一緒に逃げましょう、と聖田は陽に手を差し伸べてきた。
陽は正直、戸惑ってしまった。
(これは本当に、救いの手なの? この人のこと、信じてもいいの?)
思えば、資料を持ち出してきたのは聖田じゃないか。
いつもの聖田なら多分、ああいう事態が発生したら、「同姓同名の方かもしれませんね」と陽を肯定し、優しく微笑んでくれたと思う。
でも、そんなイメージでさえ、聖田に対する過剰な期待の現れなんだろうか……?
黙ったままでいると、ふいにーー灰色の瞳と目が合った。
「…………テメェ、今度は陽に何させる気だ。人に罪なすりつけて楽しいかよ、え?」
屋上のドアにもたれる影助は、手にした銃を聖田へと向けていた。にやりとした笑みを、口もとに浮かべている。
「おおかた目星はついてンだよ。ソーレ・アンジェラはお前だろ、聖田朧」
聖田はぴくりと眉を動かしたと思うと、肩を揺らして大笑いし出した。思わずぞっとして、陽はのけぞる。
「あははっ。いきなり何を言い出すかと思えば……僕がソーレ・アンジェラ様、ですって? 冗談にも程がありますよ。ああ! なんて恐れ多いんでしょう、清く美しきお方の御前でーー」
言いながら、聖田は跪いて、陽の手の甲にキスをした。
「僕たちの深き仲ーーいや、運命と言っても過言ではない。それを引き裂こうとする蛮族は、誰であろうと逃しません♪」
影助が陽の腕を引っ張った途端、聖田はトランシーバーに向かって、パチンと指を鳴らした。
「ッ、陽伏せろ!」
冷たい地面に、勢いよく額がぶつかる。影助に、後ろから覆い被さられた。
「さあみなさん、出てきてください! 敬虔なる使徒のおでましだ!」
ばりばり、ばりと、何かのひしゃげる音は腕の中からでも聞こえてくる。
巨大なヘリコプターが頭を出す。それはフェンスを突き破っていた。陽はハッとなって、がばりと腕から抜け出す。
「影助さん、怪我がっーー!」
陽を庇った背中には、フェンスの破片が突き刺さってしまっていた。ベスト越しでも分かるくらい、血が滲んでいる。
「チッ、いい。こンくらい、舐めときゃ治る。今は目の前のことに集中しやがれ」
見れば、満面の笑みを浮かべた老若男女が、陽たちを取り囲んでいる。
ところが陽を背中に隠した影助が銃を握り直すと、その人たちは一瞬、慄いたようにみえた。
聖田が、目をぱちくりとさせる。
「あれ? おかしいな、一旦体制を整えたほうが賢明だということでしょうか。まあ、あなたがたからしたら地の利を生かされても困りますか。それに……今は君守さんの目つきもだいぶ殺気だっているみたいですし」
何機にも及ぶヘリコプターに、もうすでに乗り込んでいる人たちがいた。聖田は仕方ありません、といったふうに肩をすくめている。
「ンだよコレ! クソッ、セーフティが外れねェ!」
聖田たちを撃とうとした影助が、銃をがちゃがちゃ鳴らす。
「うふふ。やっぱり念には念を、ですね。あらかじめすり替えておいて良かった」
苛立つ影助をよそに、聖田は陽にだけ聞こえる声で囁く。
「いずれまたお会いしましょう、ね? ソーレ・アンジェラ様」
聖田がヘリコプターに吊るされたはしごを掴む。
生ぬるい風が、陽の頬を撫でてゆく。昼間の月は暗雲に覆われて、よく見えなかった。