68.天照真夏の蚊のロンド
エリベルトが、そのガラス瓶を怪訝そうに見つめる。
「……キヨダ、なんだそれは」
「言ったでしょう? 永遠の若さを求めるあなたにふさわしい、不死の妙薬だって」
陽の髪を掴んでいた手が、勢いよく放される。陽はつんのめって、そのまま転倒してしまった。髪に触れると、血がべっとり付いていた。
「いや、カポ! それ多分、"あかんやつ"なんとちゃう」
「大丈夫です。農薬なんて入っていませんから」
朱華の忠告なんて、まるで耳に入っていないようだった。するとあろうことか、エリベルトは全身にガラス瓶の液体をかけた。シャワーを、浴びているみたいだった。
「ふはは……これでやっと……やっと、俺の永遠の夢が叶う! ついに成し遂げた! 究極の美を手に入れたぞ! なあ、見ろ朱華……!」
恵業の発砲音が、風を巻き起こした途端、マトリョーシカのように、オレンジの中へ、血の赤が灯る。陽があ、と言う間もなく、それはぶわりと広がって、エリベルトの全身をーー飲み込んだ。
生きたまま、満面の笑みを浮かべたエリベルトは燃え続ける。
くすくすと、聖田はお腹を抱えて笑っていた。
「これはこれは! いいものを見ました。中身はただの、油だったのに。ああ、世の中にはまだまだ生き汚い人間もいるものだ。それにしても、これ以上ないエコシステムですよね。若狭さんも、エリベルトさんも。二人まとめて、荼毘に伏すことができました。」
陽は頭を押さえた。めまいがする。地面は、ずっと回っていた。
*
どんどん、火は回る。
ここから脱出するため、恵業とセイコは『天橋立遊覧船』と書かれた船に向かって、長いカーテンを縄のようにして繋げていた。
胸に手を置いてみると、心臓ははかはかとしていた。
さっきふと思い立って、誰か御代の姿を見ていないかと聞いた。虫の知らせのように、嫌な感じがしていた。
「御代さんなら、あまりにも足が遅くいらっしゃったので……ねえ」
「ああ。断腸の思いで置いてきちまった」
聖田と恵業は、二人して困ったように陽を諭そうとする。それくらい急いでたんだと言われても、陽はちょっと、納得できなかった。
「御代さんを、助けなきゃ」
できあがった縄をつたって降りようとしないのは、もう、陽だけだった。影助からの怒号が飛んでくる。
「何してンだ陽! 早く来い! もう縄ちぎれる!」
「すみません。"おはし"はちゃんと守りますから!」
"おはしも"。火事の鉄則だ。もっとも、"もどらない"の"も"は、絶賛破り中だけれど。
そうして陽は、ぱっと踵を返した。
「けほっ、あっつい……」
部屋中に充満した肉の焦げる匂いは、さっきよりもずっとひどい。陽は鼻をおさえる。長くは、いられない。
扉の先。陽は目を見開く。
そうか、部屋の外に控えていたから。じんざもまだ、逃げていなかったのか。
陽は慌てて、じんざに駆け寄った。
「じんざ! ごめん、ごめんね。こんな熱い中置き去りにしようとしてーーあのね、もし良かったら、また背中に乗せてくれないかな。一人……助けたい人がいるの」
陽は手を合わせて懇願するも、じんざはそっぽを向いた。陽はハッとなって気づく。置き去りにしたうえ頼み事なんて、おこがましいにもほどがある。
煙に、喉をつつかれる。自業自得だと思った。
(へ、なに……?)
じんざは一所懸命に、何かを訴えている。ニュアンスでいこう。"あなた"、"いらない"、"足手まとい"……?
表情と鼻息から察するに、こんな感じだろうか。
「えっ、じゃあ……!」
陽がじんざの意思を確かめたと同時に、じんざは炎の中へ走り出して行った。
(力になれなくてごめんなさい……! 信じて待ってるから!)
*
数分後。じんざはちゃんと戻ってきた。背中に、御代を乗せて。
あの火煙がひどい中、人間の匂いを嗅ぎ取ることができたのか。陽は脱帽する。
じんざから、御代をぐいぐい押し付けられた。
「小生たちの逃げ場なんて、どこにもないじゃないですか。どうせこのまま丸焦げになって終わるんだ……」
「下に、遊覧船があります! 大丈夫。三人一緒なら怖いものなしですよ!」
御代は足を負傷しているみたいだったけれど、命に別状はなさそうで良かった。陽はほっとして、胸を撫で下ろす。
「すごい! ほんとにすごいよじんざ! ありがっーー」
じんざのたてがみを撫でようとしたとき、陽はぐらりと足場を失った。
最後に、世界一賢くて優しい獅子の眼を見た。
ばん、と、花火のような音が鳴り響く。陽たちは爆風に、吹き飛ばされた。
真っ逆さまに、落ちてゆく。
わけもわからないまま。コンクリートのように硬い海にぶつかったかと思うと、みるみる、体は沈んでいった。
「あ、もがっ」
空に手を伸ばすと、多量の水が容赦なく口の中に入ってくる。それは、陽を掴んで離さない。
深海に、呼ばれている気がした。
__________________________________________
「え。え…………?」
聖田は、陽が燃える城へ飛び込んだあたりからずっと、上の空だ。もう何度も、壊れた機械のようにひたすら同じ母音を繰り返している。
シャツを脱ぎ捨て、影助は舌打ちをした。もはや使いものにならない聖田を置いて、海に飛び込む。
背後から影助を呼び止める声が聞こえてくるが、決して振り返りはしなかった。
普段は履かないような重たいズボンが、邪魔で邪魔で仕方ない。水泳は得意なのに、体は鉛のようで、思うように前に進まない。
だけど。ここで終わってたまるかと、影助は頬を叩き、自分を奮い立たせた。
おろおろしながら水に浮かぶ御代が目につく。
「す、すいません……どんどん沈んでいっ」
「どけ! オイ、しっかりしろ! 陽ッ!」
城壁に近づく。ぐったりした陽を水から引きずり出して、腹部を思い切り、圧迫する。体はすでに、死人のように冷たかった。
(死ぬな、死ぬな死ぬな死ぬな……!)
亡母の顔が浮かぶ。影助はもどかしさに歯を食いしばった。
「オレを置いて先に逝くな!」
ポンプのような感触。一瞬、はっきりとした手応えがあった。
「ごぼ、かはっ」
息を吹き返した陽の顔は、生理的な汗と涙でぐちゃぐちゃだった。
*
「陽、その……さっきは悪かった。」
影助は、陽の首もとに目を映す。止血こそしているが、おそらく肩の傷は一生モノだろう。これではきっと、よっぽどの物好きでもないかぎり、まともな男のところへなんて嫁げない。
他でもない、影助がーー陽の"女の幸せ"を奪ってしまったのだった。
悪かった、どころでは決して済まされない。
顔を伏せたとき、陽は咳き込みながら、たしかに"謝らないで"と言った。
「だって私こそ、また、なんにもできなかったっっ……!」
影助は、目を瞬かせる。
「ううっ……ごめん、ごめんなさい。じんざ……!」
こういうとき、なんて返すのが正解なのかは分からないが、真っ直ぐ、陽と向き合う。
「もういい、もういいから気にすんじゃねェ。全部、オレが責任とってやる。もちろん……陽、お前のことも。」
自分さえ強ければ別に、陽がどれだけポンコツだろうと構わない。
陽の瞳は、動揺したようにぶわりと潤む。影助はそれを鼻で笑ってやると、魂を吹き込むようにきつく、頭ごと陽を抱きしめた。
潮と血が複雑に混じり合った香りの中には、ほのかにだが、甘さがあった。