66.正攻法なんてクソくらえ
メスは、陽を通り抜けていった。
革靴の音が聞こえてくる。うごめく影の正体は……
「ーー僕、ダーツは得意なんです」
動揺する陽をよそに、聖田は若狭を投げてよこした。思わず息を呑む。瀕死、みたいだった。片腕が、不自然な方向に曲がってしまっている。
「貴様。これがどういう意味を持つか、分かった上でやっているんだろうな」
陶器を思わせる頬に滴る血を、エリベルトはぺろりと舐める。聖田がそれに、にこりと返す。陽は身震いした。口角は上がっているはずなのに、どちらの目の奥も、全くと言っていいほど笑っていない。
「すまねえ、待たせちまったな。ふたりとも怪我は、って……こりゃあひどい」
恵業は心配そうな顔をして、陽たちの近くに腰をかがめた。
「わ、私は大丈夫です。それよりも、影助さんが」
「なに、漢にとっちゃこんなの、傷のうちにも入らねえよ」
恵業から、まっさらなハンカチを受け取った。どうやら、止血するのにこれを使ってもいい、ということらしい。陽は少し遠慮しつつも、言われた通り肩へ強めにハンカチを押し当てる。
「そら影助、休憩はおしまいだ。陽の前でみっともないだろ。さっさとしっかりしないか」
何度呼んでも影助の脳は覚醒しないので、とうとう痺れを切らしたのか、恵業はきゅっと、影助の高い鼻をつまむ。
それは影助にとって、いい気付け薬になったみたいだった。影助は生き返ったように跳ね起きて、すぐさま、直立不動の姿勢になる。
「スイマセン。ボス……全部、オレが招いた結果です。アンダーボスとしてどんな罰でも受けます。つーか、受けさせてくれねェとオレの気が済まないので。この通りです」
影助が深々と頭を下げたのを、恵業は特段気にも留めない様子で、聖田たちのほうを指差して言った。
「いい心がけだが、まずはやっぱり、あいつらに勝たねえとな」
影助が、ぽかんとした表情を浮かべる。でもそれは、ほんの一瞬だけだった。
「ボスの命とあらば、お安い御用ですよ」
陽の持っていた銃が取り返される。唇の片端はすでに、吊られていた。
*
エリベルトが、銃を片手に若狭を冷たく見下ろす。
「よくもこんな醜態を晒せたものだ、ワカサ。何か言い残すことは」
最期に特別聞いてやろう、とエリベルトは魔性の笑みを浮かべている。
「も、申し訳ッッ……そうだ、こ、これ、付け爪についた日楽 陽の皮膚細胞なんです。俺なら、まだまだあなたのお役に立てるはずだ。それで、また捜査に協力していただいて……」
突如、自分の名前が出てきたことに陽はハッとなる。
必死に、記憶を辿っていく。
そういえばひとつだけ、思い当たる節があった。陽は背中を触る。あの夜、マスカレードの夜。ヴェネチアンマスクのせいで顔までは分からなかったけれど、パーティー会場でドレスのファスナーが開いてしまったのは。
(まさか、若狭さんが……?)
やがて、大きなため息の音が耳に入ってくる。
「すいませんすいませんすいません! ど、どど、どうか命だけはぁ!」
「お前にはつくづく失望したよ、ワカサ。これでは興醒めではないか。他人から勧められたメインディッシュほど、不味いものはない。」
陽はたしかに、唇の動きを読んだ。
ーーあとは、分かるな?
「陽さん、下がって」
次の瞬間。耳をつんざくような断末魔が鳴り響くと、若狭はその場にごろんと転がった。同心円上に、血溜まりは広がってゆく。それは、陽の足元にも及んだ。
聖田が、陽のふくらはぎまで飛散した肉片を無言で払い落とす。
それはまるで、熟れたザクロのようでーー
「わ、わっうわあああああああああああああああ!」
血が、ぬめぬめしてよく滑る。
数十秒も経とうとするとき、陽はようやく、何が起こったのか理解してしまった。
(人の命って、人の命って……こんなに)
あっけなく。簡単に、奪ってしまえるものなんだろうか。
もう幾度、疑問に思ったことだろう。陽には、床にへたり込むことくらいしかできなかった。
弾を補充し終えたばかりの影助が、悔しそうに顔を歪める。
「チクショウ! 先を越された!」
影助が八つ当たりのように発砲すると、朱華はそれをひらりとかわす。
率直な疑問なんやけど、と唇を尖らせながら。
「なあなあ影助クン。おはるちゃん、さっきからあんな感じなの、なんでなん? 悪い気はせえへんやろ、なんたって内定プリンセスや。俺がおはるちゃんやったら、もっと喜んでカポに媚売っとった思うねんけどなあ」
影助は、知るかボケ、と朱華の拳まとめて突き放した。影助の肘が、朱華の太腿に捩じ込まれている。
影助が太腿の上から朱華の顔面を狙撃しようとした途端、赤々とした警報音が、部屋中にこだました。
「なーに、アタシ抜きで楽しいことやってんのー?」