62.獅子奮迅、かくあれかし。
「……ダメになっちまってるな」
トランシーバーは、まるっきり使いものにならなかった。
アロマでも焚きしめているのか、さっきから、草を蒸らしたような匂いが鼻にまとわりついている。
傾斜のきつい道を、通勤中のサラリーマンのようにしゃっきり歩いていく。速度を上げるごとに、匂いはいっそう深くなっていった。
(月桂樹なんかとはまた違った……)
ああ、とようやく合点がいく。いやに懐かしいこの花の香りは、ラベンダーだ。
恵業はふと、昔、愛したひとのことを思い出した。一生かけて守り抜いていきたいと誓ったのは、後にも先にもそのひとだけだった。
誕生日にプレゼントしたラベンダーのコロンは、もうすでに、廃盤になってしまっただろうか。
恵業は、思い切り頬を叩いた。
ーー公私混同。
これ以上湿っぽくなってはいかん、と。
両頬は当たり前のようにしわだらけだった。
(自分だけ、年を食っちまったなあ)
ごめんなと、しみじみ思う。
どれだけ息を切らそうが、つらくなろうが、ラベンダーはひたすら、恵業の背中を優しく押してくれた。
*
まるで、そこいらに身も心も恍惚とさせるような旋律が流れているみたいだ。
恵業は、さらに高い至福の中を進んでいた。
(敵地にいながら、帰りたくねえなんて思っちまう……俺もそろそろ、耄碌したかな)
もう少しだけ、あと少しだけでいいから、忘れかけていたラベンダーの残り香を堪能していたかった。
がさがさと、遠くで音が鳴る。恵業は銃を携えながら、片目を見開く。
ぬらりと、いよいよ巨大な影が正体を現した。
一頭の獅子。口もとには、火のように燃えたつ笑みを浮かべていた。
恵業は前方を見据えたまま、静かに後退りする。やっぱり、この絵じたいが罠だったみたいだ。他の部屋ーー影助とセイコは大丈夫だっただろうか。
実力は折り紙つきの二人だが、いかんせんこのような状況だ。今は、どうにか乗り越えてくれと祈るほかない。
いったん、どこかバリケードになりそうなところへ身を潜めよう。さすがに、恵業とて獅子を相手にするのは初めてだ。
(急所……とりあえず、眉間に一発お見舞いしてえところだな)
「あーっ! 朧さん、あそこです! いたいた!」
「なっ……」
軽快なソプラノ。明るくてよく通る、聞き覚えのある声は、たちまち静寂を切り裂いた。
「な、なんで陽がここにいる⁈ それに聖田、お前まで」
聖田がついていればひと安心だと思っていたのに。
「朧さん、ありがとうございました! 私もう歩けますよ!」
そうせがまれ、聖田はすまなそうに会釈すると、抱えていた陽を丁寧におろした。
白いバスローブに、ガラスの靴。走ってきたのだろうか、無造作な髪。
燕尾服の聖田と比べてみると、陽は本当にへんてこな格好をしていた。
いや、色々考えるのは後にしてしまおう。恵業は耳を澄ました。
案の定、陽の声は百獣の王を呼び覚ましてしまったようだった。
のっそのっそと、チャンピオンロードを歩くように獅子は近づいてくる。
当然ながら、ふたりはあっけに取られていた。
獅子が陽に向かって前足を並べる。瞬時に冷静な判断を下した聖田が両者の間に入るも、あろうことか、陽はそれを断った。
(なに考えてるんだ⁈)
恵業は獅子の眉間に狙いを定める。
陽の瞳は、ただならぬ赤みを帯びた光明のように輝いていた。
慄くどころか、やるぞやるぞと、ひとりごちしている。
「ばっちこおおおおぉぉいっ!」
止めようとして、一歩出遅れた。恵業は反射的に目を瞑る。
そのまま食われる、と思いきや。陽が獅子の腹の中に入るのではなく、なんと獅子が、陽の腕の中にすっぽりと入ってしまった。
全長6メートルもあろう大獅子を、陽はいとも簡単に抱きしめてみせたのだ。
果たして、小娘にこんな凄技ができてしまって良いのかーー恵業はもはや、深く考えるのはよそうと思う。
誰が驚くって、当の本人が一番驚いているし、はしゃいでいる。
「わ、わわ。ホントに成功しちゃった。ぶっつけ本番だったのに!」
聖田は、陽に外傷がないか入念に調べながら苦笑していた。
「全くもう。陽さんの破天荒ぶりときたら。僕、心臓が止まっちゃうかと思いましたよ……」
聖田はするりと獅子に視線を滑らせた。
「もしかしたら、陽さんのバスローブがブランケットがわりになって気持ち良いんじゃないでしょうか。無論、推測の域を超えませんがね」
言われてみれば、たしかに獅子の目の角は取れたようにも見える。その獅子、しまいには、飼い猫みたいにゴロゴロ喉を鳴らしていた。
「あはは! くすぐったいよぉ」
目も当てられないほど、二匹はじゃれ合い、転がり回っていた。言うなれば、恵業がその辺にしとけよと声をかける隙もないくらいに。
そうこうしているうちに、聖田は獅子の尾を踏まないよう注意しつつ、陽のバスローブがはだけたのを直しに赴いていた。甲斐甲斐しい、実に甲斐甲斐しいけれども。
(いくら陽に威厳がないからって、さすがにありゃどうなんだ……?)
逐一距離感がおかしいんだよなと思うのは、やはり恵業のジェネレーションギャップなのだろうか。
「おお。ご機嫌、いかがかな?」
人語を話す動物など、恵業の知る限り存在しない。全員で一斉に、後ろを振り返った。
「……待ちたまえ。困るよー、ツートンの君たち。よもや、主役より目立ってしまうとは」
ゆったりとした動作で外したヴェネチアンマスクを弄びながら、塩顔の男はそびえ立っていた。