61.いったれ牝狼
「おぉ〜い。恵ちゃあん、影ちゃあん」
ーー応答なし。
「なにこれ。全然声が響かないんだけど〜……」
セイコはしきりに二の腕をさする。影助を追うように煉獄篇の絵の中に身を投じてみたはいいものの、さっきから不気味な黒い霧がセイコの全身を撫でていた。
空気が重いし肌寒いしで、セイコは一刻も早くこの部屋を脱出したかった。
*
セイコは、平坦な道を歩き続ける。もうすでに何メートル歩いたかわからない。これでは、足が棒になってしまいそうだ。
(影ちゃんが先行っちゃうから、なんとなくのノリで着いて来たけど。)
本当に、こんなへんぴなところに銀髪ロングちゃんの手がかりは落ちているんだろうか。
たしかに連絡通路には持ってこいの場所だと思うが、パッと見た感じーー彼女からはあまり、賢さみたいなものは感じられなかった。そういえばどことなく、都会っぽい雰囲気もあったなあと思う。
なんにせよ、もしもセイコが彼女のボスなら、多分重要ポストにはつかせないだろう。初対面の時点でそれほどに、不安定で見え透いたような移ろいやすさを受け取ってしまったのだから。例えるならあれだ、ゼラチンペーパーに近いかもしれない。
そんなふうに考えごとをしながら歩いていると、ゴンと硬い壁にぶつかってしまった。
(痛っ。もお! なんなの? ここまできて行き止まり?)
セイコが顔を上げようとしたとき、どういうわけか、その壁はぬるりと動いた。途端、セイコは目を見開く。
「……っとと。やっほー、おセイちゃん」
まるで酒盛りした次の日みたいなハスキーボイス。ロングヘアは、銀色だった。
*
銀髪ロングが、ゆっくりと頭から剥がされていくのを、セイコはただ呆然と見守ることしかできなかった。そいつはにんまりと笑って、女装の出来栄えを自画自賛している。
「ああ、言うとらんかったっけ? 実は俺、こう見えてものまね得意なんよ。身をやつすはお手のもの……ってな」
言いながら、銀髪ロングちゃんーー否、朱華は少女のような声、しゃがれた老人のような声、二十代くらいの男性の声、と自由自在に声を操ってゆく。セイコは、舌打ちしてしまいそうになるのを必死に笑顔で隠した。
盲点だった。自分で自分が、情けない。
「おおい。おセイちゃん? ハッ……もしかしてこの絶世の美男、朱華さんのこと思い出せん言うんやないよな?」
ろくに喋ったこともない男から、ほんま勘弁して、とせがまれる。
「ほら。やっぱおセイちゃんみたいな別嬪さんとは、できるだけお近づきになりたいやん?」
セイコはくすりと笑ってみせた。
「……え〜。おだてたってダメだよ。アタシには心に決めた人がいるんだもん」
こういうとき、なんと言うべきだったか。セイコはふと、朱華のマーメイドドレスを見やった。ああ、そうだ。
「お手をどうぞ? お姫さま。アタシがホントの口説き方ってものを教えてあげる♡」
不意打ちは大得意だ。後ろ手に忍ばせていた懐剣を、朱華にまっすぐ振りかざす。
「ぬぉっ⁈ あっぶなあ!」
セイコの一撃をかわした朱華はその場で、綺麗なバク転を決めた。
意外と瞬発力あるんだ、とセイコは覚えずため息をこぼした。
腹立たしくも、朱華は無傷だった。
「殺意むんむん、さすがやな! ところでぇおセイちゃんの好きな人って誰?」
朱華はからかうように尋ねると、カルマファミリーの男子メンツを声に出して指折り数えていった。
イラっとする。どうして、そのラインナップの中に恵業が含まれていないんだろう。セイコはいますぐ、その旨を朱華に問い詰めたい思いでいた。
「んー、少なくともタレ目ではないかな」
「なっはは、瞬殺されてもうた。さびしなあ」
「……じゃあアタシからも質問ね。ザンザーラの目的は何?」
一拍遅れた。セイコは虚空を切り裂く。
「おセイちゃんのいけずぅ。あきまへん、企業秘密なんやから」
何度か、揉み合う。セイコはボレロを脱ぐと、とっさに髪を掴んだ。
セイコと朱華の視線がバチリと絡み合ったその瞬間。懐剣はついに、朱華の鎖骨を仕留めていた。どうやら意表をつけたようだ。朱華は、低く唸る。
「はは……俺いま、丸腰なんやけど……どうにか見逃してくれへん?」
上目遣いの朱華を、セイコは華麗にスルーすることに決めた。
「あー、どうりでね。本気出されてないなって思ったら、なあんか無性に悔しくなってきちゃってさ」
(このタチじゃん?)
セイコは淡々と、歯あ食いしばりなさいと告げる。ダイイングメッセージなんて、絶対預かってやらない。
そして懐剣が喉笛に突き刺さるコンマ一秒の隙。朱華は突如、遠くに向かって、なにやら合図をし始めた。犬笛を吹いている。
それにあっけに取られたセイコが懐剣を落とすと、朱華はむくりと起き上がった。
朱華の視線の先にいるのは。セイコはゆっくり、後ろを振り返る。
ーー日本狼、最後の一匹。
朱華は、セイコを押しのけていった狼を愛おしそうに撫で回していた。
「こいつ、俺にだけよう懐いとるんや……さあ行けお雪!」
セイコに指がさされると、狼は目を爛々と輝かせた。
「びっくりした。アタシを騙すなんてやるじゃん」
「喜んでくれたみたいでよかったわ。ま、騙されるほうも騙されるほうってことや」
朱華は目を伏せたまま、舌を出してそう呟く。
ーーざり、ざり
にじり寄る狼に、セイコは心を落ち着かせた。
ひとまず、パーティー会場に置いてあったウイスキーボンボンの包みをそっと開く。陽があまりに目を輝かせていたのを見て、非常食用にと、ちょっとくすねてきたやつだ。
「……グルぁ!!」
さて、吉と出るか凶と出るか。飛びかかられたのをすんでのところでかわし、ウイスキーボンボンの匂いを狼に嗅がせてやる。とにかく、鼻腔を攻める。攻めて、攻めて、攻めまくる。
すると威勢だけの狼はその場に、きゅうと倒れた。
目を丸くする。おもしろいほど、あっけない。
セイコほど歳を重ねると、もはや狼が飛び出してきたくらいなんかでいちいち驚いたりはしないのだ。ちゅっと、酩酊状態の狼に投げキッスする。御神酒作戦、なんちゃって。
「詰めが甘いよ。やっぱり、奇襲には奇襲を仕掛けないとさ」