56.晴れの海の二重奏
ちょっとすみませんと声をかけると、その四人組は一斉に陽の方を振り返った。
片手には、大好きなトランペット。
「今から演奏を始めるので、その、ぜひ……っ! 聴いていかれませんか!」
陽は、足がくっつきそうなくらいに礼をした。しばらく、その場の空気が停滞する。
そうして、物言いたげな視線がこちらに向けられたかと思うと、すぐに四人は輪になって屈んでしまった。どうやら陽から背を向け、こそこそばなしを始めているみたいだった。
ーー演るって、まさかあの生娘が⁈ ……かぁ〜っ! そんなけったいな
ーー所詮はアマの演奏やん。あれやろ? どうせ、ガキんちょのお遊戯会みたいなもんやって。
ーーうちらはプロの演奏バックに踊りたかっただけやのにな
ーーすっかり騙されてしもたわ! あこぎやあこぎっ!
ぼったくり、とほうぼうより指を差されるが、なぜだろう、意外にも悲しい悔しいといったマイナスの感情たちは、お腹の底から這い上がってこようとはしなかった。陽はいまや、どんな罵詈雑言を浴びせられても、びくりともしない体になってしまったみたいだった。もしかしたらこれもひとえに、影助の指導(?)のおかげということなのだろうか。
(だって影助さんから、いーっと睨まれた時の方が絶対、ダメージ100倍なんだもんーー!)
鋭い眼光は、いつまで経っても陽の頭から離れない。
「おぉ、あんた、えらい恐い顔してはるなあ……ま、そこまでする気概は褒めたってもええな。よっしゃ、俺もいっちょ賭けたる。ほなぁお手並み拝見といこか」
四人組のひとりが、どかりとカウチに腰掛けた。その様子に、陽はちょっとだけぽかんとする。さっきまで帰ろうとしていたのが、嘘みたいだ。
「うふふ。陽さんは多才ですね。まさか、ついに君守さんまでをも容易く憑依できるようになってしまったとは」
え、と頬を揉んでみる。……なるほど、たしかに。一度意識してしまったら、陽の表情筋はいつもよりも硬いような気がしてならなかった。
「ッお待ちください、そこの方! 一体何をされるおつもりでっ⁈」
聖田は造作もない様子で、壇上からするりとマイクを奪い去る。
「さあさあ皆様! ご覧あれ。
何を隠そうこのお方が、現世に生ける天使さまにございます、ああ。ここにいらっしゃる皆様は実に運が良い。今までの善い行いの積み重ねが、彼女と皆様とを巡り合わせたのですから。
おやおや……博識なはずの皆様は、あの天下のトランペッター・日楽 陽をご存知ない?」
一息でそんなふうに紹介されてしまって、陽の顔はやかんのように熱くなった。誇張しすぎだと、思うんだけれど。ついでにみんなからの視線も熱い。
一所懸命に頬を冷やす陽をさらに持ち上げるように、聖田はなにやら、ジェスチャーを使って合図をしていた。
(なになに……僕がカウントを、取ります。から、おすきなタイミングで。どうぞ?)
おまけに聖田は、が・ん・ば・れと可愛いガッツポーズまで作ってくれた。
陽は意を決してチューニングを始め、回れ右をしてみた。きらびやかだけど無人の演奏ステージが、なんとなく虚しい。たぶん事前に輸送されてきたのだろう、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ハープ、ティンパニーー彼らは、主人が迎えに来るのをめそめそしながら待っているのだ。あの子たち、ちょっと遅いわねなんておしゃべりでもして。
いよいよ陽まで、悲しくなってきてしまった。かわいそうな彼らになんとかしてあげられないものかと、思考にふけってみる。
けれども陽は、今まで弦楽器や打楽器を経験したことなんて、限りなくゼロに等しかった……惜しいこと、この上ない。
(なにかいいアイデアは……)
ふと、立て掛けられていた一台の楽器に、陽は釘付けになる。
ーー陽さんほどの熱量はないですが、ヴァイオリンを少々
ああそうだ、ヴァイオリンといえば! ガラスの靴は、自然とヴァイオリンへ吸い込まれていった。
陽はマイクを戻そうとする聖田の手に、待ったをかけた。
「やっぱりーー私、朧さんと演りたいです。」
きっと、こんな機会またとない。聖田と演奏できるせっかくのチャンスなのに、陽はそれをみすみす逃したりなんかしたくはなかった。
びっくり仰天!とまではいかないかもしれないけれど、聖田はたしかに一瞬、唇から驚きの色を滲み出していた。
「のわっ! すみません……! いきなり演奏しろと言われても、難しいですよね」
ダメでもともとだと諦めかけていたその時。思い掛けず聖田はすんなりと、あっさりヴァイオリンを受け取ってしまった。
「しょうがないなあ。陽さんは強引なんだから。
おっと、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。なんせ僕……一度弾いた曲は、全て暗譜していますから」
(に、人間業じゃないっ!)
呆気に取られつつも、とりあえず何が演奏できそうか曲の打ち合わせをしていたら、さっきの四人組から"はよ準備してや"と急かされた。
*
思えば、責任は重大だった。
陽動作戦だけではなく、陽は聖田の気持ちをも背負っているのだ。
こうなったら、期待以上のものを届けなくては。
なんとなく、肩が凝っているような気がしてきた。陽は後ろに肩をぐるぐる回してみた。やっぱりちょっとだけ緊張して、弓の確認をする聖田をじーっと見つめる。目が合うと、聖田は静謐な笑みを湛えていた。動けないでいると、胸に手を置いてみて、という仕草が向けられる。
「陽さん、深呼吸」
陽は胸に、手を当てた。
一瞬の静寂に、全身を委ねた。一曲目は、ベニスの謝肉祭。
聖田のヴァイオリンを聴くのは、初めてだ。こんなに上手い人がいるのかと思うくらい、素晴らしい音だった。一台とは思えないほど厚みがあって、それはとても深い。血管の浮いた腕だけで、喜怒哀楽全てが表現できてしまいそうだった。
それから、聖田は陽のトランペットを引き立てるようにして、統制の取れた、綺麗な旋律を奏でてくれる。
そう、この先には、鬼のような連譜が待っている。
あの頃泣きながら練習して得た、超絶技巧。陽は何も言わないかわりに、タンギングで物申す。私、実はけっこうすごいんだよ、それくらい頑張ったんだよ、と。
ミスは一度もしなかった。隣に聖田がいる相乗効果からなのか、今夜は不思議と、かなり調子が良かった。
曲は、ゆったりと『金と銀』に繋がる。
メロディラインどうしだけれど、決して喧嘩なんてせず、それどころかふたつの音色は、優しく混じり合って溶け出してゆく。
舞踏場の内ではひたすらに、情熱が回っていた。
三曲目は、『春の声』。
手を取り合うようにしてやさしい調べを奏で始める。
陽は待ってましたと手を叩かんばかりに明るくトランペットを響かせた。
隅っこで、何度も恥ずかしそうにしながらタイミングを見失っていたカップル。その人たちが、ついにたどたどしくもステップを踏み始めた。
これは陽の"好き"が、少しでも伝わったということだろうか。
メリーゴーラウンドのようにくるくる回っている組もあれば、プロのダンサー顔負けのターンを決める組もある。
はじめは固かった男女の表情も、少しずつ柔らかくなってく。
一瞬疲れてくずおれてしまった女性に、男性は優しく手を差し伸べている。ああ、今とんでもなくロマンチックなシーンを目の当たりにしている気がする。
陽は聖田と目配せしあった。
人が"生きている"場に立ち会えたことを、今はただ光栄に思う。
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「陽さん。唇、だいぶ疲れているんじゃありませんか」
おそらく張り切りすぎたのだろう。長いタンギングのせいか、桃色の薄い皮は少し捲れてしまっていた。
「いえいえ。まだ、いけます!」
「……たまには格好付けさせてください。男の子ですから」
それでも申し訳なさそうにフィンガーフックへ指をかけようとする陽を、聖田は片手で制す。
「ふふっ。無理しないでーーここから先は、僕の独壇場です」
リップクリームを差し出すと、陽の頬は紅葉を散らしたように真っ赤に染まってしまった。
聖田はヴァイオリンを肩に乗せて、まっすぐ瞳を据える。
四曲目は、『死の舞踏』だ。
艶やかに、スラーをつけてゆく。
これまでのものとは全く異なる曲調に、社交デビューしたばかりの男女は若干戸惑っているようだった。
全部を切り裂くようなスタッカート。少々アレンジを加えてみる。
そうそう、その顔。あえての不協和音に、観客たちは度肝を抜かれて、いっそ骸骨のように踊り狂ってくれはしないだろうか。
聖田は微笑みながら、激しく弓を返す。
素人らしきペアは周りの目を気にしつつも、やがてくるくると回りはじめた。骨どうしがかちゃかちゃと擦れ合っているみたいで、それはなかなかに愉快な光景だった。
アーチ窓から覗く蒼い月までもが一緒になって、皆を甘美な死へと誘っているようだった。
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ラストを飾るのは、『仮面舞踏会』より、ワルツ。
たくさんのあたたかい拍手に、陽たちは包まれる。
聖田が気を遣ってくれたおかげで、陽は最後までトランペットの音を掠らせることなく演奏を終えることができたのだった。
「お疲れ様です! 演奏に付き合っていただいて、本当にありがとうございました。ブランクがあっただなんて、嘘みたい。朧さんのヴァイオリンは世界一ですね!」
「いえいえ、買い被りすぎですよ。それを言うなら陽さんの方こそ、プロ顔負けの腕前だったじゃないですか。でも、喜んでいただけたようで何よりです。ヴァイオリニスト冥利に尽きるといったところでしょうか」
後ろを見れば、さっきの演奏で音楽に興味を持った観客たちが、ハープやティンパニに触れていた。
陽は聖田に、軽やかに手を引かれる。それでは、とゆっくり口が開く。
「「一曲、踊っていただけませんか」」
聖田と、誰かの声が重なる。
「ーーああ、僕たちは演奏専門なので、そういうのは受け付けていないんですよ。引き続き、ダンスをお楽しみください」
陽は、瞬時に聖田の背中に隠された。ついさっき、踊ろうって誘ってくれたばかりだったのに。
「ふうん。でも、小生は知ってるんですよ? たとえばあなたは、ヒマワリ楽器店勤務の日楽 陽さんだ」
菊花を模したような、ヴェネチアンマスク。こんな男性は、陽の知り合いにはいなかったと思うけれど。だけど、単に気づいていないだけだったとしたら申し訳ない。陽が静かに名前を尋ねた、その時。
「もったいぶらず、小生にも教えてください。元自警団のマフィア・カルマファミリーと、その全容について」