52.お好きなマスカレードをお選びください。
ヴェネチアンマスクひとつだけでも、簡単に顔の印象を変えることができてしまう。
「……ところでかぼちゃの馬車はどこだ?」
恵業は、そう言って茶化すように辺りを見回した。
「もう! 恵ちゃんってば。アタシまだおばあさんじゃないし! どっちかって言ったら眠れる森の美女でしょ」
セイコはぷりぷり怒りながら、足元のほうを指差す。
すっかり眠りこくってしまった受付係たちを前に、陽は曖昧に微笑むくらいしか道がなかった。
陽の肩がいつもより数センチほど落ちていたのを見かねてか、突然、セイコから頬をこねくり回された。驚いて顔を上げれば、気にしない気にしない!と形の良い唇が開閉しているのが目に入る。
「誰も正確な人数なんか数えやしないって。じゃなきゃマスカレードなんてやる必要ある?」
陽がそうなのかなあと思ったときにはもう、真っ赤な絨毯にガラスの靴が受け止められていた。
*
アルファベットのZみたいにジグザグした道を歩き続けていたら、いつの間にかーーわあっと、まばゆい光に全身が呑まれてしまう。
巨大なシャンデリアに、ダイヤでできた壁掛け時計。それから、壁一面を彩る厳かな絵画たち。
マスカレードの始まる時間までしばらく余裕があるというので、みんなで広い城の中を探索していたところ、意外にも多くの素敵な発見があった。
きらきらしていて綺麗なものが、陽は子どもの頃から大好きだった。
ドレスを着た手前はしたないとは分かっていても、陽は思い切りはしゃいでしまう。
ふと、モナリザと目が合った。危うくいい天気ですねと挨拶してしまいそうになるくらいに写実的だ。
「これだけの美術品……全部贋作じゃなさそうってのがまたすごいな」
恵業の言う通り、もしかしたら全て本国から取り寄せてきたものなのかもしれない。陽は今すぐ審美眼が欲しいと思った。
「ははん。そこまで気に入ったンなら、いくつか盗ってきます?」
あながち冗談でもない風に額縁を外そうとする影助を、恵業は片目でひと睨みしていた。
「影助、掟」
「お戯れですって」
ダ・ヴィンチやミケランジェロなど、名だたる芸術家が壁一面に連なる中、陽はある絵を前に足をとめた。それは一見なんの変哲もない絵のはずなのに、他のものと比べてどこか異質な輝きを放っている。
「これってーー」
「どうやら神曲のワンシーンのようですね」
手を伸ばしかけた途端、陽の背後から聖田がすっと顔を出した。
「やっぱり!」
ダンテ・アリギエーリ筆。昔学校でやった、イタリア文学の授業を思い出す。
そういえば、神曲を始めとして哲学チックな物語に惹かれてしまう時期が、陽にも訪れたことがあったのだった。あの現象は結局今でも謎のままだけれど。
手垢防止のためにコーティングされた絵の表面を、聖田は左から順になぞっていった。
「大勢の天使や使徒に囲われる、栄光の天の女王。ーーフレジェトンタに浮かぶ愚行者たちを監視する、三体のケンタウロス。ーーそしてラストは、異形の怪物に跨って巨人と接吻する売女。」
中でも、陽は地獄篇を表した絵画に釘付けになってしまった。それから十秒もしない間に、目眩を覚えた。
苦悶の表情を浮かべる罪人たちと、真っ赤に染まった血の川が、今の陽にはあまりにも痛々しい。
「しかし、これらの絵。なんだか奇妙な点があると思いませんか?」
気付けばセイコもじっくりと絵を眺めて、陽と一緒に考えてくれている様子だった。
「うーん……あっ。この怪物、キモすぎ」
「ああ、すみません。僕が言っているのは絵の内容などではなくーー」
セイコはぐうの音も出ないと口をへの字にしていたが、あまり間を置かずになるほどと手を打っていた。
「神曲は普通、地獄篇、煉獄篇、天国篇の三篇からなる叙事詩なのですが……こちらの絵画の場合、なぜか順番がぐちゃぐちゃになってしまっているんですよ。天国篇、地獄篇、煉獄篇といった具合に。」
ぼーっとしていたら、陽さんはどう思いますかと率直な意見を求められた。
陽は顎に手を添える。たしかに、奇妙と言われれば奇妙な話だった。特に『創世記』など他の連作ものは、きちんと順番通りに飾られていたのも相重なって。
「順番通りに進む物語を阻止しようとでも……して、いるんでしょうか?」
せっかく喉まで答えが出かかったのに、陽には上手く言語化することができなかった。
「ハッ。当てずっぽう言っちゃって。あんま知ったかぶンじゃねェぞ、陽ちゃーん?」
間髪入れない影助が、肩にのしかかってきた。陽はガラスの靴を不安定にさせまいと、全力で踏ん張る。影助の格好と行動は、とてつもなくアンバランスだった。
なんだか釈然としないので答えを教えてもらおうと思ったが、出題者からは、それが僕にも分からないんですよとだけ返された。
聖田はあくまで笑顔だった。
*
舞踏場は、すでに大勢の人で賑わっていた。ざっと見た感じ、男性四割、女性六割……女性のほうがちょっと多いかなという程度だった。
「今回のマスカレードね、なんと! 我らが若警視総監さまもお越しになっているそうよ」
「まあ! あの塩顔、たまらないわよね! 玉の輿狙っちゃおうかしら」
目の前を、抜け駆けなしよ、おほほほほーーと貴婦人たちが優雅に素通りしてゆく。
広い会場で迷子にならないよう注意していると、いきなりあたりが真っ暗になった。
(え、みーーみんなは⁈)
暗中模索。
陽は誰かの靴に足が引っかかってしまったのに気付いて、見えてもないのに、ごめんなさいと素早く頭を下げる。
「この場にいる全ての人に、初めましてを。」
どうやら、灯火が消されてしまったようだった。一筋の明かりは、壇上の人物だけをひっそりと照らしている。
「年齢、身分、名前……全てが秘密のマスカレード。いま、この瞬間! 皆さまは何者でもないのと同時に、何者でもあるのです!」
壇上の人物は、顔が露わになってしまわないよう、歯を片方だけに歪めている。
「それではただいまより、大明43年度……京都マスカレードを挙行いたします。
紳士淑女の皆さま! 若狭 縁由さまの警視総監就任を祝して、時間の許すかぎり、共に踊り明かそうではありませんか!」
無礼講だと叫ぶ男性らしき声は、やけにあっさりとしたものだった。開会宣言が終わったのと時を同じくして、シャンデリアがしゅばっとつき始めた。目が、ものすごくチカチカする。
沸き立つ観衆、ブラボーの歓声。
ヴェネチアンマスクを装着していても、隣にいる影助の目が曇っているのが分かる。
若狭 縁由?
そして、二晩のマスカレードは。
(ザンザーラファミリーが関係してるわけじゃ……ない?)
陽は真っ白なドレスの裾を、きゅっと掴んで離さなかった。