39.同級生
「ぐっぐ、ぐ……?」
凶器の銃剣が、ぽとりと落ちる。カヨは、糸の切れた操り人形みたいに、川へ崩れていった。
パチンコ片手に、向こうからゆったりした足取りで歩いてくる男が陽たちをせせら笑っている。ーー朱華だ。
「また会うたなぁ、おはるちゃん。ーーアレ? どしたん。そないに辛気臭いツラして」
こちらにひらひら手を振る朱華は、相変わらず得体の知れない笑みを湛えているだけだった。陽は体を動かそうにも、恐怖と混乱とで全身が震え上がってしまって、それはできそうにもなかった。その場にただ、茫然と立ちつくす。
ふと、朱華と目が合ってしまう。朱華は値踏みする様子で陽を上から下まで観察すると、あろうことか川に広がるカヨの血液を、指先ですくって舐め始めた。アイスを一口もらおうか、なんてすぐ隣で聞こえてくるような、本当に気安いノリだった。
「なっはは、まっず。こんなんのどこがええねんや」
あっけらかんとした朱華の顔を穴が開くくらいに見た陽は、アサリの貝殻に砂が入っていた時のことを思い出す。思うと同時に、う、と何かが込み上げてくる。必死で口もとを抑えた途端に、銀糸が垂れていった。唾液が落ちるだけで済んだのは、吐けるほどものを食べていなかったせいだろう。今陽の胸を蝕むのは、嗚咽、怒り、絶望……全部が混じり合ったようでいて、それでいて多分、どれとも似て非なるものなのだと悟った。
ためらいなく、陽は靴擦れしたパンプスを脱ぎ捨てた。カヨのもとに駆け寄ろうとしても、川の小石が邪魔で、なん度も足がもつれてしまう。
「は、るちゃ?」
「ッごめっ……! 待っててね。きっと、治してみせるから」
スーツを脱ぎ、中に着ていたシャツを、震える手で剥ぎ取る。なりふり構っていられなかった。
「おおっ、サービスショット! 眼福や〜」
朱華が歓声をあげているが、余裕さのかけらも失った陽の耳にはもう入らない。そればかりか、こんな時、側に医術の心得がある聖田がいてくれればと思った。
「かか、か……カヨね……」
「ひ、やっ、やだ……っ! どうしよぉ、ち、血が止まらないの」
陽は懸命にカヨの止血を試みるが、努力の甲斐虚しく、両手の隙間からは、どす黒い血が濁流のように溢れかえってくるばかりだ。
「あ、りがと……でも、も大丈夫」
「カヨちゃんっ……ダメ。それ以上喋ら、ないで。おねがいだから、今は」
刹那、今にも泣き出してしまいそうな、切ない笑みを向けられる。カヨの表情は、さながら大人の女性のようにも見えた。
「カヨね。ホン、トはっ、はるちゃん、と………………
同い年、なんだよ」
晴天の霹靂。頭に、ハンマーで殴られたような鈍い衝撃が走る。背格好から少女だと思い込んでいたカヨが、まさか、陽と同じ"23歳"だったと、いうのか?
「おない、どしーー⁇」
ーー……はるちゃんって、大きいよね。うらやましいなあ
あれも。
カヨの手を握る。頼りない、骨の浮き出た生白い手は、陽のものよりも一回りは小さかった。
ーー"妹"ができたみたいで嬉しいや
あれも。
いつかの言葉たちが、反芻する。
湿った空気が、陽の鼻腔を掠める。
山の天気は急変しやすい。ああ降るかもかと思ったときにはもう、さあっと雨水がまとわりついていた。
「あ、あ……ああ」
小雨は、一気に土砂降りになった。夕立が、陽の身体中を叩きつける。カヨを抱き上げれば、もうどちらが雨の温度か分からないほど、つめたくなっていた。
目の前の少女は、なぜ返事をしてくれないのだろうか。
そうだ。雨の音がとてもうるさいから、一時的に鼓動が聞こえにくくなっているだけなのかもしれない。どうしてそんな当たり前で、かんたんなことに今まで気がつけなかったのか。うん。そうだった、絶対にそうだ。
カヨのまぶたに、蝿が止まった。さっきからずっと、キャベツを煮込んでそのまま放置したような匂いがしていた。命が終わる瞬間が、音になって陽の耳元に囁きかけてくる。
うわああああああああああああ、あ、ああーー
ーー"妹"ができたみたいで嬉しいや
対等な関係だったはずなのに。友達だって、一回でもいいから言えば良かった。
遠くの空がぴかりと光る。間が空いて、やがて陽に追い打ちをかけるように雷鳴が轟いた。下唇を噛むと、鉄の味が、口いっぱいに広がる。
「みじめなものだな。だが安心するといい。お前はまだあのようにはならないのだから」
ばさり。
「ーー僕の陽さんに、なんてことしてくれるんです」
ばさり、ばさりと。ディアボロが、この地に降り立った合図がする。
すっかり腫れぼったくなってしまった瞼をこすると、
「陽さん。鳩、ありがとうございました。おかげさまで間に合いましたよ」
うなじに振り上げられた魔の手が、すんでのところで聖田によって受け止められていたのが見えた。