34.ドッペルゲンガー
熊だと思っていた影は、実際には人間だったわけで。陽は脱力にも似た安堵と同時に、得も言われぬ羞恥心で耳まで真っ赤になってしまった。
「わわわわ私ったら、なんたる無礼をーー!」
いくら勘違いしていたとはいえ、度が過ぎていたと思う。陽は全力で謝った。それこそ土下座しても足りないくらいだ。
「あーっ! 先生!」
背後から出てきたカヨに、陽は覚えずぎょっとする。
「え、え。先生って、もしかしなくてもカヨちゃんの⁈ ははあ、それは……重ねてお詫び申し上げますーっ!」
「先生、なんども来てるのに道にまよっちゃうの、おっかしいんだあ!」
もう少しで、おでこと膝がくっつきそうだった。
「ぷ、うははははっ! 気にせんーー気にしないでください」
眼鏡の男は、陽の珍妙な謝罪にいまだに息を切らしている。やがて、一度大きく咳払いをしかたと思うと、今度は改まった様子で陽に名前を尋ねてきた。
「へー、ほんじゃあおはるちゃんか。俺のことは、そうですねえーーフリオンとでもお呼びくださいな」
(ふりおんさん)
ジパング出身ではないのかもしれない。フリオンをよく見てみれば、地毛だろうかーー髪の色素が少し薄いことが分かった。
「それにしても、先生とこんなところでバッタリ会えるなんて。カヨちゃんはラッキーだね!」
「うん! カヨはねぇ先生に、いつもシドウしてもらってるんだよ」
「そっかあ! それなら私もさっき、カヨちゃんの音楽の先生になれてたかな?」
なんちゃって。陽とカヨは息ぴったりに、同時に笑い合った。
「はるちゃん、さっきはありがとね」
カヨがもじもじし出す。突然どうしたというのだろう。
「くまさん、追っ払おうとしてくれて……守ってくれてカヨ、うれしくなった」
予想外。なんだそんなことかと、陽は目を丸くする。
「いいえ〜! えへへ、勘違いしちゃったみたいだけどね。」
正直、まだ恥ずかしさは抜け切っていなかった。
にこにこ顔で、フリオンがこちらに近づいてくる。
「仲間外れは寂しいなあ、俺も混ぜてくれません?」
気付かないうちに、フリオンそっちのけで、二人だけで盛り上がってしまっていたようだ。陽はあちゃーと頭を掻く。カヨの方は、"先生"であるフリオンに慌てて駆け寄っていった。
「先生ごめんね! アレ? 先生、まえにあったときよりお目目がはれてるよお。ものもらい⁇」
たしかにフリオンは、陽から見てもタレ目だった。しかしそれは、ものもらいのように一時的なものと言うわけではなく、どちらかと言うと自然の産物というか、生まれつきのようなーー。フリオンが笑ってカヨの質問をかわしてしまったので、結局真相は分からずじまいだった。
「この辺りだと、やっぱり鳥居があるところが1番大きいんじゃないかなあ。ちょうど私も中が気になってましたし、ぜひ一緒に向かいましょう!」
行きの道ですっかり位置を覚えた陽が先導を申し出たとき、カヨにパシッと腕を掴まれる。
「……カヨ? どうした?」
「いや、な、なんでもありません! 先生がいいって言うなら……」
ーーカヨはそれに従います。
一瞬、ほんの一瞬だけ、二人を纏う空気が変わったのは気のせいだろうか。陽はカヨの手を握り返した。
「あれぇおはるちゃん、そんなとこで"ちょこちょこばって"どうされました?」
「えと、ちょこちょこばって?」
(もしかして、うずくまってって意味なのかな)
パンプスをさすると、まだ微かに痛みが残っていた。陽は、先ほど全速力で山道を滑り降りた時に、枝で擦りむいた跡を確認していたところだった。
なんというか、フリオンと出会った瞬間から彼が話すごと、全体的に音の上がり目が一拍遅れているような気がしてくる。地方出身の、無理して相手に言葉を合わせている、あの感じ。陽にはとても他人事とは思えなかった。
そんなやりとりを交わしているうちに、もとから生白かったカヨの顔が、みるみる青ざめていった。
「うそ。なんであなたが……? そんな、そんなはずは、失敗……⁇」
カヨは必死に、ぶつぶつと何かを口走っていた。陽の全身に、なんとも形容しがたい悪寒が走る。
「ちょっとカヨちゃん、大丈夫?」
酸欠の可能性も考えられるので、陽はとりあえず、落ち着いて深呼吸をするようカヨに教えた。
なんとか、パニック状態からは解放されたようだ。陽はほっと胸を撫で下ろす。
(先生を差し置いてまで、出過ぎた真似しちゃったかな?)
しかし目の前で苦しんでいるカヨを放っておくことなど、陽にはどうしても出来ない。フリオンは何も言わなかった。
*
山境の長い鳥居を抜けると集会所であった。
「お座敷かじの……?」
陽は聞きなれない言葉の組み合わせに、首を傾げた。
集会所入り口の看板には、
"三連戦、五連戦、七連戦の中からお好きなコースをお選びいただけます"
と書かれている。
陽は今までカジノに行ったことがなかったので、無論ルールまでは知らないけれど、なんだか七五三みたいで微笑ましく思えてきた。
余韻に浸る間もなく、早く行きましょーかと、陽たちはフリオンに急かされてしまった。
玄関までは普通の古民家といった風だったが、すでに陽の気分はラスベガス。
(カジノ! 初めて入ったけど、借金返済のいいお小遣い稼ぎになるかも。よし、がんばろ!)
奮闘する陽の隣で、カヨが心配そうにしている。心なしか、目もキョロキョロとしていて落ち着きがなかった。そりゃあそうである。未成年なんだし、下手したらカジノという単語自体、カヨくらいの年齢の子が知らなくてもなんらおかしくはなかった。
「はるちゃんよく聞いて。三連戦なら勝たせてあげやすい、だからはやーー」
「まーた二人だけで内緒話かいな。なあ、お兄さんも混ぜたってや」
一瞬誰だか気付かなかった。まるで影のように、陽とカヨの間へフリオンが割り込んできていた。肩をがっちり抱かれている。先ほどとはあまりにも雰囲気が違い過ぎている。それに、この訛りはーー。
しばらく茫然としていると、口をはくはくさせながらカヨが陽に何かを訴えかけてきた。
陽も、おそるおそるカヨが凝視する方に目をやる。
陽は思わず、目の前の景色を疑った。
「ふ、フリオンさんが二人⁈」
こちらのフリオンと、あちらのフリオン。どこからどう見ても同一人物である。それかこの期に及んで、ドッペルゲンガーにでも遭遇してしまったというのだろうか。
"ものもらい?"
カヨの言葉を思い出す。
「まさか! 一つだけ違うとしたら……タレ目⁈」
こちらのフリオンは、あちらのフリオンを見て苦虫を噛み潰したような表情になった。
「ん? げえ。作戦とちゃうやん。コイツ、いっつもタイミング悪いねん」
同意を得るようにして指を差されても、何が何だか良くわからない。
「はあ……ついにバレてもうたか。ほんならま、しゃあないねんなあ」
そう言うとフリオンは気怠そうに、カツラと眼鏡を外した。フリオン、いやーーこれまでフリオンだった誰かが、癖のついた髪をかき上げる。
「俺は朱華 帷いいます。以後よろしゅう」
額に二本指を立てて挨拶をする朱華は、それはそれはキザな雰囲気を醸し出していた。