18.蝶々夫人こと笑い上戸の美女
一思いに、バーの扉に右手をかける。
(……ちょっと、緊張するけど!)
陽は落ち着いて息を吸うよう意識した。
戦地(になる予定)の路地裏と比べ、今から行く場所が安全なのはたしかである。
が、一人きりが怖くないとは陽には言い切れなかった。
そんな陽を見兼ねてか、恵業は出発前に、セイコがいかに信頼に足る人物なのかを教えてくれた。
ーーセイコの強さは折り紙つきだ。それにな、アイツはマフィアとしても大ベテランなんだよ。
意外なことに、影助よりもセイコの方がマフィア歴が長いことが分かった。
その時の影助はというと、納得のいかない様子で唇を突き出していた。
(……文堂 セイコさん、か)
陽は電話越しでしかセイコを認識できていなかったが、しっとりとした彼女の声は耳に優しかったように思う。
(一体どんな人なんだろう)
カランカランと、涼しげなベルの音が鳴った。
色とりどりの酒瓶が並ぶ店内はオープン前のようで、お客さんらしき人はまだ誰も見当たらない。
ふと奥を見やると、カウンターからひょっこりと女性が顔を覗かせる。目元は弧を描いたようににこやかだった。
「やっほー陽ちゃん。ボスたちから話は聞いてたと思うけど、アタシが文堂 セイコです。よろしくね! ……スゴイねー、"大型新人"なんでしょ?」
セイコは、挨拶しながら腰まで伸びた栗色の巻き髪を弄ぶ。彼女の強烈な輝きを放つアメジストの瞳は深く、それでいてどこかーー哀しげだった。
陽はセイコのあまりの麗しさに、思わず息を呑んでしまう。
「はっ、はうわあぁー! 素敵だ……!」
姿勢が良く、スラっと伸びた足はモデル並み。
やはり陽も芸術を愛する者の一人。目の前の美しいものに対して正直な反応を示さずにはいられなかった。
「ほらほら、楽器ケースなんかに隠れてないでさ」
ーー陽ちゃんの可愛いお顔、お姉さんにも見ーせーて♡
陽は悲鳴をあげそうになるのをぐっと堪える。
『マフィアとしても大ベテランなんだよ』
恵業の言葉が反芻する。
(本当に、この人が……?)
「は、はぃ……私、フルネームは日楽 陽って言います。こちらこそ、よろしくお願いします!」
「んふふ、見惚れちゃったかな?」
セイコは眉を八の字にして髪をかき上げた。
「はいっ! とっても! 一曲プレゼントしたいなあ、なんてぇ……」
陽は指をモジモジさせながら答える。
(顔がすごく熱い! これ、他の店員さんに見られてたらちょっとーーいやかなり恥ずかしいかも!)
TPOに配慮しなきゃ!と陽は激しく思った。
「「ところで、他の人はーー」」
二人同時に。あ、と声が漏れる。
「ハッピーアイスクリーム!」
セイコはワハハと笑いながら陽にビシッと指差す。
「イェーイやりぃ! アタシの勝ちね! 陽ちゃんあれ……もしかして分かんない?」
セイコはガッツポーズを決めるも、残念ながら陽には一連の行動の意図が伝わっていなかった。
「そんなにきょとんとしちゃって! ジェネレーションギャップってやつ⁈ ウケるぅー!」
拍子抜けの陽。
「ヒィヒィ、はあーっ。……ああごめんごめん。他の人たちはねーー」
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元々いた店員たちは、客のプライベートに首を突っ込むのをタブーとしていたようだ。
しかし客から情報が引き出せないのであればせっかく潜入していても意味がない。だからこそ、彼らにはフェードアウトしてもらったというわけだ。
(女の勘……舐めんじゃねーよ)
セイコからしたら、計画が滞るのが一番のストレスだった。恵業が何を言おうと任務の邪魔になるならば、たとえ人畜無害なヤツでも容赦はしない。
自分が死ぬまで着いていくと決めた男ーー恵業 笛吉郎の従順な僕でありたいと、心から願っていた。
だというのに。
(ホントにこの弱っちそーなコだけで大丈夫なのかな。)
陽を見つめる。ヘラヘラ笑う彼女はどう考えても"人畜無害"側だ。
(ねえ……ボス、貴方は一体、この子に何を期待してるの?)
「てゆーか今、信濃たちも大変だったのね。」
ーーまあ、聞き込み調査みたいなもんだし、別にそこまで人手はいらなかったけれど。
唇の端が歪んでいないかいちいち確認してしまう。とりあえず現時点で影助はシメると決めた。
「一緒にがんばろーね、陽ちゃん。」
(甘ちゃんには生きていけない世界だってこと、アタシが教えてあげるよ)