1.運命
「よし、これでばっちりかな?」
陽は姿見の前で、にこーっと笑顔になってみる。アイボリーのスーツに、お気に入りの髪留め。
(この格好、就活以来だなあ)
ついに半人前の自分にも、仕事らしい仕事がやってきたのだという実感が湧いてくる。
今日は、大事な出張プレゼンの日。
実をいうと陽はわくわくしすぎて、前日の夜はよく眠れなかった。小学校の遠足が思い出されるほどだ。
「いってきまーす!」
陽は一人暮らしだが、空っぽの空間……いや、日頃お世話になっている家に、元気よく挨拶をする。
うららかな春の風が、陽をくすぐる。
こんな素敵な日は、石畳の上で虹色のスキップを奏でてみたい。
いつもの街路樹。いつもの電車。3両目に乗って、同じポジションに行くまでが、陽の毎朝のルーティーンだ。
109とデザインされた時計塔をほうっと眺めていたら、しだいにずびずびと鼻水をすするような音が聞こえてきた。ふと優先席を見やると、そこには鼻を真っ赤にしたおばあさんが座っていた。ブルーの瞳からは、今にも雨が降り出しそうだ。
陽は慌てて、持っていたポケットティッシュを彼女に差し出す。
「花粉症ですか? おつらいですね」
陽が優しく声をかけると、おばあさんはなぜだか目を丸くした。陽からぎこちなくティッシュを受け取ると、チーンと豪快に鼻をかむ。
イタリアなまりを混じえながら、おばあさんはひとつ微笑んで、このようなニュアンスのことを言った。
「"お嬢さん、ありがとうね。若いのに優しいねえ"」
今度は陽が目を丸くする番だった。自分は別に、意識して"人助け"をしたわけではないのに。
でも陽は嬉しくて、たまらずにへへと笑う。
「困ったら助け合うのが人間ですよう。」
……今の、不自然だったかな。ただでさえ、今日はいつもよりテンションが高いのだ。気を引き締めなければ。
「"面白いのかしらね、アレ"」
おばあさんが怪訝そうな顔をして、前の座席を指差す。若者がたくさん座っているが、彼らは皆、雑誌やら新聞やらを手にしている。
あんなに顔を近づけて、近視にならないか、ちょっと心配だ。
中には面白いものもありますよ、と陽はつとめて当たり障りのない回答をする。
「"あら、私、もうそろそろみたいだわ。それじゃあね、優しいお嬢さん"」
ーーおばあさんは次の駅で降りて行ってしまった。何度もありがとうを言いながら。
陽はまた、じーっと車内を見わたす。
音楽を聴く人。ガムを3個くらい口に詰め込んでいる人。トランシーバーで電話をする人。
本当に、色々な人がいる。
(あ。あの人、今日もお葬式にいくのかなあ。大変だなあ)
いつも同じ時間に、同じ車両で会う人。
彼は毎日、ぴしっとした喪服を着ている。
サラサラのミディアムヘアを七三分けにしていて、目元のなきぼくろが上品な彼。
陽は心の中で、ひそかに彼のことをレオさまと呼んでいた。なぜなら、いでたちがさながら、若かりし頃のレ●ナルドディカプリオを彷彿とさせたから。
思わず見惚れていたようで、レオさま(仮)と視線が絡み合う。
彼は陽を見てニコリと会釈する。
陽は楽器ケースを抱え、勢いよく頭を下げた。
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ーーいつも電車で会うあの人は、今日は違う駅で降りるらしい。
(彼女は、僕とは"違うベクトル"で善良だ)
ここ最近、男は彼女の一挙手一投足をくまなく眺めていた。
(毎日毎日、進んで人助けをするのに、あんなにも打算のない人間は初めて見た)
今朝だって、花粉症のひどそうなイタリア人の老婆を助けていた。
困っている人には、手を差し伸べるのが当然だとでもいうように。
そんな彼女と、初めて目があった。
喪服の男は、少し不思議に思った。
なんだか今日の彼女は、特別張り切っていた様子だったけれど。
ーーひょっとして、大事な出張でも控えていたのだろうか。研ぎ澄まされた観察眼を頼りに、男はそんな仮説を立ててみる。
(ちょっと気になりますね)
男はためらいなく歩き出す。
閉まりそうなドアを片手で押さえて、男は彼女と同じ駅で降りた。