10.keep out!
(んん、んんん……そろそろ、おきなきゃ)
ーー金曜日。
低気圧のせいだろうか。今朝はなんだか、ひどい頭痛がずっと続いているような気がしていた。
(こんな日は、『だいくま』でも見て癒されよう)
陽は眠い目をこすりながら、ゆっくりとチャンネルを回す。
しかし、テレビの画面は黒いままだ。
(あれ? もしかして今日、ホラー回?)
陽は、訝しげに画面を見つめる。
ーー途端、可愛かったはずの『だいくま』の顔が、血まみれの男の顔に変貌する。
「うっわぎゃあああああああああああ⁈」
陽はがばっと飛び起きた。
年代物の家具が、必要最低限に並べられた部屋。かなり殺風景だ。
(ここ、どこ……?)
見慣れたアパートーーではない。
知らないベッドで目覚めたことに、陽は絶望した。
天井のシミが、だんだん人の顔のように見えてきてしまって、たまらなくなる。
陽は気分を切り替えたくて、口でもゆすぎに行こうかと考えた。
部屋を出ようとすると、1枚のメモがひらひらと降ってきた。どうやら、枕元に置いてあったメモが落ちてきたらしい。
「ふむ、なになに……『オッドーネファミリーのアジトにカチコミに行ってくる。
※今日からここがお前の部屋、粗相のないように』?」
メモの主は急いでいたのか、最後の方は走り書きになっていた。
内容から察するに、カルマファミリーはまた誰かと争いをするようだ。陽は辛い現実に目を伏せる。
*
陽は今、丸火通商株式会社の裏に建つ、社員住宅にいる。
洗面所に向かうついでに、陽は誰もいない宿舎を見て回ることにした。宿舎、というよりかは、絵本で見るようなお屋敷に近いみたいだけれど。
(ラウンジ。大きな白い階段。きらめくシャンデリア。それから、温泉……温泉⁈)
ーーやっぱり宿舎かもしれない。
手入れも隅々まで良く行き届いているようで、陽は感心してしまった。
だいぶ歩いたところで、陽はかすかに違和感を覚える。
(なんか、物足りない。……あー!)
「トランペット!」
……しまった、と思う。
そういえば、物流倉庫からの記憶がまるでない。
(どうやって帰ってきたのかさえ分からない。多分気を失って、それからは)
あの部屋には絶対になかったはずだ。だとしたら、考えられることはただ一つ。
(大事なトランペットなのに、倉庫に忘れてきちゃったんだ! 私のアホーー!)
陽は急いで宿舎の出口を目指すが、警備をしていた構成員3人組にそれを阻止されてしまった。
(! この人たちはたしか、昨日のデパートにもいた人たちだ)
「お、おはようございます。お仕事お疲れ様です。……あのう、突然で申し訳ないんですけど、外出許可みたいなのっていただけたりはーー」
陽、鬼のような形相で凄まれる。
(ですよねー!)
「しゅっ、すみません! 私のトランペット、デパートの倉庫に忘れてきてしまったみたいで! それで、今すぐにでも取りに行きたかったんです」
陽は事情を説明すると、深い深いお辞儀をした。
「ーートランペット。ああ、もしかしてあれのことなんじゃねえか? 石狩よぉ」
石狩、と呼ばれたサングラスの男は、小走りでどこかに行ってしまった。
「ほらよ信濃、これのことだろ? アンダーボスに渡せって言われてた、」
石狩は、息を切らしながら帰ってきた。
「ああ……! っ、ありがとうございます! 本当に、無事でよかったあ」
陽はほっとしたのと嬉しいのとで、石狩に抱き着かんばかりの勢いでお礼を言った。
「良かったなあ、陽ちゃん。俺まで泣けてきちゃうぜーーでもそれ、中に何が入ってんだ? もしかして、金とか?」
陽は目に涙をためながら、違いますよ、と笑う。
「バカだなあ利根は。さっきトランペットって言ったばっかりだろうが」
利根は2人に小突かれる。
「私ちょっと、トランペット吹きに行ってきますね!」
陽は楽器ケースを大事そうに抱えて走った。
「いや陽ちゃん! じっとしてろってボスたちがーー!」
残念ながらもう陽の耳には、信濃の声は入らない。
「きちんとミュートはしますからーー!」
代わりに陽は、うるさくならないよう、音量を小さくすると約束する。
「いい、いい。止めてやるな、信濃。あれが陽ちゃんの本能ってやつなんだろ」
利根が達観した口ぶりでそう言う。
「そうだぞお、信濃。ずっとここにいても息が詰まっちまうだろうよ」
「石狩まで……! あーもう分かったよ! 遅くなりすぎないようにしろよお!」
陽は元気に頭を下げた。
*
トランペットの音がかする。また、かする。
好きなだけトランペットを吹かせてもらえるなら。あなたたちに、カルマファミリーに、協力するってーー
トランペットが見つかったのはいいものの、陽は自分で自分が嫌になってくる。
何が「好きなだけトランペットを吹かせてもらえるなら」だ。
勢いでついあんなことを宣言してしまったけれどーーいや、良くない。普通にアウトだろう、それは。
そう思うと、曲にデクレッシェンドがかかっていってしまった。
陽は顔を覆い、屋上のフェンスにずるずるとへたり込む。
(自分の欲を満たしたいからって、暴力団組織に関わるなんて。)
(やっぱり逃げよう。辞めますって、ちゃんと言いにいこう)
それに、今警察に自首すれば、最短2年ほどで出所できるはずだ。
踵を返したその時ーー。
非常に見覚えのある顔が、陽の前に飛び込んできた。
喪服で、サラサラのミディアムヘアを七三分けにしていて、目元のなきぼくろが上品なーー
「レオさま⁈」
「アンジェラ!」
聞き馴染みのない言葉に、陽は困惑してしまう。
「見事な演奏でした。まるで天使のトランペットのようですね」
「え⁈ は、はあ」
「申し遅れました、僕は聖田 朧といいます」
聖田の緑がかった黒髪が、風になびく。
「先ほどの……『聖者の行進』ですよね?」
「あ、は、はい! でも、本当はもっと、賑やかで楽しげな曲なんですよ」
「元々は、アフリカ系アメリカ人の葬儀の際に演奏された曲ですからね。間違ってはいないんじゃないでしょうか」
ーー驚いた。
ドーミッファッソ ドーミッファッソ ドーミファソ ミ ドーミーレ
陽の周りで『聖者の行進』は、曲こそ有名だけれど、実際に聴いてみないと分からない、という人がほとんどだったからだ。
まさか、こんなところまできて音楽の話ができる人と出会えるとは。
しかも相手はあのレオさまだ。
聖田はずっと変わらず、優しい笑みを讃えている。
(だけど、どうして……ここにいるんだろう)
「ーーそんな貴女に、ぴったりなお花があるんです」
「その名も、"エンジェルストランペット"。見てみたくありませんか?」
「見たい!」
陽は慌てて口をつぐむ。
「見て、みたいです」
「では、少しじっとしていてくださいね」
聖田は人差し指を口もとに寄せる。
陽の首筋に添えられたのはーー注射器。
陽は声を出したくても出せなかった。
だんだん、意識が朦朧としてくる。
「日楽 陽さん。ーー貴女は僕の計画に必要なんです」
聖田は不敵に笑い、手中に堕ちた陽の髪を撫でた。