8.初仕事・陽動のヨウ②
ーーひとまず、お守り代わりのトランペットを、邪魔にならないであろう足もとに置いた。
汗のにじむ手で、例の折り畳みホワイトボードを開いていく。
……ひととおりの準備はできた。
陽はゆっくりと深呼吸する。
「ご、ご来店中のみなさま! よってらっしゃい、みてらっしゃい!」
陽に向けられる、奇異の眼差し。
なんだなんだと寄ってくる人。
素知らぬ顔をして素通りしていく人。
(うぐぐ……! 頑張れ私!)
陽は自らにエールを送った。
「新製品をご紹介するため、カル……丸火通商株式会社からやってまいりました。
よ……コホン、広報担当の、日楽 陽と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
陽のプレゼンを聴きにきてくれたお客さんたちが、
ーーマルカ通商って知ってる?
ーー知らなあい。そんな会社、聞いたこともないわ。
と、こそこそ話し合っているのが聞こえてくる。
陽の唇から徐々に水分が失われていくのが、嫌でも感じられる。
「……っ、弊社の新製品というのが、こちらの、本国製のナイフになります」
もちろん実物なんて用意していないので、陽はホワイトボードの"片面"に、マーカーでイラストを描くことにした。
ーー海を越え遠路はるばるやってきた、美しい銀の調理器具を思い浮かべて。
(ここまでは、直前にボスたちと打ち合わせをした通りだ)
「なんとこのナイフ、切れ味もすごいんです! お肉にお魚。ケーキまで、なんでもすぱすぱーっと、ストレスなく切れてしまいます!」
TVショッピングのように、陽はちょっと大げさに、お客さんたちの前で手刀を切ってみせた。
周囲が、ざわざわとし始める。
どうやら、順調に人が集まってきているようだ。
そんな中。
背筋をぴしりと伸ばし、前の方で陽のプレゼンを聴いていた主婦の一人が、はい、と手を挙げた。
「あの、色々とすごいのは分かったのだけれど。肝心のナイフが見当たらないみたいね」
その主婦は、ふんっと鼻息を鳴らして一気にまくしたてた。
彼女の発言を皮切りに、陽のもとへ一斉に主婦が押しかけてくる。
ーーねえねえお姉さん、一体どんなナイフなの?
ーー何の材質でできてるの?
ーー実演販売して切れ味見せてよー
陽は主婦たちに問い詰められ、律儀にも一人ひとりに返答する。
ふいに、足もとに置いたトランペットを見やる。
「きらきらのナイフです」
「真鍮で、できておりますっ!」
「きっと良い音が出るでしょう」
陽は非常に分かりやすく、しどろもどろになっていた。
(聖徳太子ってすごい……!)
今さらながらそう思う。
(それにしても、みんな遅いなあ。もうそろそろ来てもいい頃だと思うんだけど)
場はすでに、暖かすぎるくらいに暖まっていた。
空気を読まず、陽の"らくらく薄型トランシーバー"が振動する。
差出人は、影助だった。
『おい陽、作戦の進捗状況はどうなってるーーなんかそっちからギャーギャー聞こえんだけど。
まあいいワ、密売人っぽいヤツ見つけたし、今からオレらァ物流倉庫で殺り合うから、一般人どもテキトーに捌けさせとけよ、じゃーー』
「影助さん、ちょっと待っ……!」
ブツン、ツーツー。
と、虚しくも通信は切れてしまった。
(物流倉庫って、外、だよね。一階の……)
ハッとなる。
陽たちが今いるのは、ちょうど一階だ。
抗争なら、ほぼ100パーセントの確率で、銃などの飛び道具が使われるのだろう。
万が一、ということもある。もしも銃弾が、この中にいる誰かに被弾したらーー
陽はそう想像しただけでもぞっとした。
(とにかくみんなを守らなきゃ。プレゼンはもうみんな聴いていないし、どうすればーー)
陽は考えて考えて、考える。
その時だった。
「ちょっと、みんなどいたどいた。店長さん、連れてきたわよ」
先ほど手を挙げた主婦が、デパートのオーナーを呼び出してきたようだった。
「ほら店長さん、あの人ですぅ」
すみません、失礼ですがーーと陽はその男性に声をかけられる。
「身分証などお持ちでしょうか。加えて、他企業の移動販売の方は入館許可証も必要になりますので……」
今の陽を表すなら、まさしく背水の陣。
ーー私は何も聞かされていなかったんです。
違う。
ーー今から外で、マフィアの抗争が始まるんです。
これも違う。
堂々巡りをしていた途端、陽は気付く。
(私、嘘を吐きたくないんだ)
さっきのプレゼンのときも、そうだった。普段の陽ならもう少し、はきはきスムーズに発表を進められていたはずだ。
それができなかったということは。
(私は多分、上手に誤魔化したり、嘘を吐いたりすることができない)
だが、気付いたからと言って、無力の陽に何ができるというのだろうか。
みんなに、にじりにじりと詰め寄られ、陽のかかとはがつん、と楽器ケースに当たる。
もしかしてこのコならーーと陽は一瞬思う。
だって音楽は、嘘を吐かない。それに、みんなを避難させられるかもしれない。
ぶるぶると、ただの幻想にすぎない結末を打ち消すように首を振る。
(それに、長年のブランクもあるし)
けれど今、人の命に関わるこの状況で、そんなことを気にする余裕など、あるのだろうか。
陽は数秒、自分の気持ちと闘う。
(いや。そんなこと、気にしてられるか!)
陽は決心して、楽器ケースを開け、トランペットにマウスピースをはめ込む。
楽器店でメンテナンスはしていたので、オイルはちゃんと注してある。
乾いた唇を、ぺろりとなめた。
周りは当然のように、ぽかんとしている。
ーーチャンス。
(チューニングすら、してないけど)
陽はまず、ドレミファソラシドを上から下、下から上へと繰り返す。
high.♭Bまでいって、かすかに音が掠ってしまった。でも。
(思ったよりは吹けるものなんだなあ)
現役時代の思いが、逡巡してくる。
陽はエスカレーターを目指して走る。
「今からマーチングパレードをやります! 聴きたい方は私に着いてきてください!」
「! ちょっと君! 待ちなさい‼︎」
背後から聞こえる、オーナーの声。
みんなが陽に続き、エスカレーターめがけて駆け出す。調理器具コーナー以外のお客さんたちも、私も俺もと着いてくる。
ーーあー! はいはい! サッカーの。
ーーW杯のイタリア代表も、ちょーイケてたわよねぇ
(良かった。みんななんだかんだ言って、ちゃんと着いてきてるみたい)
高らかで優雅な、トランペットの音色。
お送りしますは、歌劇「アイーダ」より、凱旋行進曲。