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4. 冬の雷

 秋になり、世継ぎの王女との婚儀を終えたハインリヒは王宮へ居を移した。


 まだ十四歳の王女の結婚が急がれた理由は、二年前の都を襲った大火にあった。

 その大火では平民だけでなく、社交の季節を迎えて都入りしていた貴族の子弟も多くが巻き添えになっていた。


 元から少なかった適齢期の高位貴族の男子がさらに数を減らしたことで危機を感じた王家は、ただちに国中の貴族に婚姻を禁じて王女の伴侶選びを急いだ。

 そしてその結果、王女と年齢が釣り合う中で最高位のグルーベンハーゲン侯爵家からハインリヒが選ばれたのだった。


 けれど婚儀を終えて王宮に居を移しても、ハインリヒは以前とさほど変わらずに過ごしていた。

 王女の父である現国王は三十代とまだ若く、有能な腹心を多く抱えて精力的に政務をこなしており、そこにハインリヒの出る幕は無かった。

 次期王配としてハインリヒに求められているのは王家の血を残すことだけだったが、その唯一の役目も事情により今は先延ばしになっていた。



 そんなある日。

 いつものように自室でハインリヒが長椅子に座って紅茶を飲んでいると、女官長が新参の女官を連れて来た。


「殿下。新しくお仕えする女官を連れて参りました」

「うむ」


 何気なく顔を上げたハインリヒが、新参の女官の顔を見た瞬間に、顎が外れそうなほどあんぐりと口を開けた。


「レダと申します」


 女官長の後ろで女官姿のレダがにっこりと微笑んでいた。


「なっ……、熱っ!」


 驚いた拍子に傾いたカップから零れた紅茶が脚にかかり、ハインリヒが顔を歪めた。


「まあっ、大変! すぐに氷と着替えをお持ちして!」


 周囲の女官たちが慌てふためく中で、ひとりレダが素早くハインリヒの元に駆け寄った。うろたえるハインリヒの傍らに膝をついて、手にしたハンカチで服を拭っている。

 声にならない声を発しながらそれを見ていたハインリヒは、しばらくして我に返ると、周囲の視線を窺いながらレダの耳元で囁いた。


「今夜十二時に、ここで」


 ぴくりとレダが反応して、顔を上げた。

 素知らぬ顔で立ち上がったハインリヒは、着替えを準備した女官長のもとへゆっくりと歩いて行った。




 そしてその日の夜、時計の針が十二時を指す頃。

 ハインリヒの部屋のドアが開き、誰かがそこからそっと体を中へ滑り込ませた。


 ベッドに寝そべっていたハインリヒがそれに気づいてちらりと視線をやると、ドアの前にはレダが立っていた。

 むくりと体を起こしたハインリヒが、ベッドから降りてレダに近づく。


「私を追ってここまで来たのか」


 顔を覗き込まれたレダが、恥ずかしそうにこくりと頷いた。


「お前はまだ私のことを忘れられないのか」

 

 呆れたように溜息を吐きながら、ハインリヒがレダの体を抱き寄せる。


「幸せになれと言ったはずだ」

「ハインリヒ様のお側にいたいのです。ハインリヒ様の腕の中がわたしの幸せなのです」


 レダは、ハインリヒの胸に頬をすり寄せていた。ハインリヒは無言でレダの体を抱え上げると、ベッドへ向かって歩き出した。そしてレダをベッドに降ろしたハインリヒは、その隣に横たわると、潤むレダの瞳を見つめた。


「憐れな」


 レダはハインリヒの首に腕を絡ませ、引き寄せた唇に自分の唇を重ねた。


「いいえ、幸せです」


 



 そんな日がしばらく続いたある夜。

 いつものように部屋に忍んできたレダに、ハインリヒから耳を疑うような言葉がかけられた。


「……え、……最後?」

「そうだ。王女との初夜が明日に決まった」


 王女の伴侶を確保するために急いで婚儀が行われたものの、娘の体を案じた王妃の命令で初夜は先延ばしになっていた。

 けれど婚儀から数ヶ月経ち、そろそろどうかと促す声に王妃が押し切られたのだった。


「まさか王女を抱いた後にお前を抱くわけにもいくまい」


 青ざめるレダに、ハインリヒが表情を変えずに言葉を続ける。


「それで、どうする? このまま自分の部屋に戻るか、それともここで最後の夜を私とともに過ごすか。決めるのはレダ、お前だ」


 顔を強張らせたままレダが瞳を揺らし、その大きな目から涙が溢れ出した。

 両手を体の前でぎゅっと握りしめ、唇を噛みながらハインリヒを見つめている。


「……今宵が最後なら、どうかハインリヒ様のお側に。……お側にいさせてください」

「お前ならそう言うだろうと思った。おいで」


 ハインリヒが伸ばした手を、レダがすがるように取った。


「ハインリヒ様。ハインリヒ様」

「レダ、これが最後だ。存分に可愛がってやる」


 泣きじゃくり胸にすがるレダをハインリヒが抱え上げた。





 夜半から降り出した雨が、いつしか窓を激しく叩いていた。

 雷光が時折カーテンの隙間から入り込んで、薄暗い部屋の中を明るく照らしている。


 ぱちりと目を開けたレダがゆっくりと体を起こし、隣で寝息を立てているハインリヒを見た。

 ハインリヒが起きる気配が無いことを確認したレダは、ベッドから降りるとナイトテーブルの一番上の引き出しを開けて、そこからナイフを取り出した。

 ハインリヒが使うのを何度か見ていたので、そこにあることは知っていた。


 ナイフを手にしたレダが、ハインリヒが眠っているベッドへ戻る。

 深い眠りについているらしく、ハインリヒはその見事な金髪にレダが触れても、その頬に口づけても、ぴくりとも動かない。

 ハインリヒはレダに対して一片の警戒心も持っていなかった。


 するりとシーツの中へ体を潜り込ませたレダが、眠るハインリヒのそれにそっと手を添えて、根元に鋭い刃先を当てた。

 暗闇の中、雷光を浴びたレダが微笑む。


「誰にも渡さない。あなたはわたしだけのもの」


 



 深夜の王宮に、闇を切り裂くようなハインリヒの断末魔の叫びが響き渡った。


 その声を聞きつけた衛兵達が急いでハインリヒの部屋へ駆けつけ、そこで目にしたのは、真っ赤に染まったベッドの上でのたうち回るハインリヒと、その傍らで血の滴るそれを手にしているレダの姿だった。


「ひいっ……!」


 頬を血に染めながら微笑むレダは、背筋が凍るほど美しかった。

 恐怖に固まり動けずにいる衛兵達の後ろに、悲痛な叫び声を聞きつけた者たちが次々に集まってきた。やがて出来た人垣の中には、慌てて身なりを整えて駆けつけた女官長の姿もあった。

 けれど、その場に着いて小さな悲鳴を上げた後は、誰もがまるで魂を抜かれたようにそこから動けなかった。


「どうした? 何事だ?」


 様子を見にやった者が誰も戻って来ないことを不審に思った国王夫妻が、業を煮やし自ら部屋に来て、人垣を通って中へ入った。


「うっ……!」


 狼狽しながらも事態を察した国王が、すぐに箝口令を敷いて人払いを命じ、そして直ちに宮廷医が呼ばれた。


 

 ハインリヒは奇跡的に命を取り留めたものの、もはや子を為すことは出来なかった。

 この国では王族の離婚は認められておらず、世継ぎの王女の夫が子を為せない体では王家の存亡に関わる。そのためハインリヒは表向きは病死扱いとなり、密かに王宮の端にある塔に生涯幽閉されることが決まった。


 そして王女の再婚相手選びが急遽始まり、念入りに身辺調査が行われた結果、八歳のリューネブルク侯爵家の次男に決まった。


 国王夫妻のハインリヒに対する怒りは凄まじく、その矛先は実家であるグルーベンハーゲン侯爵家にも向けられた。

 ハインリヒ自身は病死扱いになっていたが、暗に不祥事の責任を問われたグルーベンハーゲン侯爵家は伯爵位に降爵となった。


 一方レダは、「不実な男から身を挺して王女を守った」という王妃の言葉でお咎めなしとなり、そのまま密かに王宮から解放され、そして養家であるイェッテンバッハ伯爵家には王家から褒賞が与えられた。


 箝口令が敷かれていたにも関わらず、あまりにも衝撃的な事件はどこからか漏れて、一気に国中に広まった。

 レダは事件の内容だけでなく、その美貌もあいまって「情の深い女」と評判になり、彼女のもとには国中の男達から縁談が殺到した。

 しかし、レダはそのすべての申し出を断り、ひとり静かに暮らすことを望み、そしてそれを許された。




 レダが都からひっそりと姿を消し、やがて時が流れた。

 国中を騒がせた大醜聞が少しずつ人々の記憶から薄れかけてきた頃、恥辱の念に堪えかねたハインリヒが、幽閉中の塔で自ら命を絶った。


 その噂が風に乗り、都から遠く離れた山間の小さな村まで伝わった翌朝のこと。


 まだ冷たい空気が辺りを包み、朝焼けが空一面を赤く染める中。

 村のはずれの小さな家で、ひとりの若い女が息絶えていた。

 その胸には深々とナイフが突き立てられ、その体は都の方角に向かって倒れていた。


 幸せそうに、微笑みながら。




「愛しいハインリヒ様。

 お慕いするのはあなただけ。

 どこまでもついて行きます。

 いつまでも、どこまでも。この世の果てまで――――」

 



 完

 

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