3. 春の酔い
粉雪がひらひらと舞い始めた頃、ノイラート男爵が静かに世を去った。
どうにか葬儀を終えて参列者を見送った後、レダはひとり残った教会で途方に暮れていた。
やっと貴族の作法を身につけただけの自分に、はたしてこれから貴族の家の家政などできるのか。
今更ながら知った貴族の家を継ぐということの重み。その重圧に押しつぶされそうになるのをレダが必死に耐えていると、背後からコツコツという靴音が聞こえてきた。
葬儀の参列者はすべて帰って、もう誰も残っていないはず。
そんな無人の礼拝堂に響く靴音を不思議に思いながら振り返ると、見知らぬ中年男性が立っていた。
「お前がレダか?」
知らない人物の口からが自分の名前が出たことに戸惑いながら、レダはこくりと頷いた。
「私はイェッテンバッハ伯爵、亡くなったノイラート男爵の甥だ」
「……伯爵、様?」
「以前から叔父上にお前のことを頼まれていて、これからどうしたものかと様子を見に来たのだが……なるほど、これは確かに危うい」
イェッテンバッハ伯爵と名乗ったその男性は、レダの前に腰を屈めて、その顔を覗き込んだ。
「これほどの美貌を独り身のまま放っておいては、きっと禍の種になる。それに、養女になったばかりのお前に男爵家の管理は難しかろう。レダ、我が家に来なさい。叔父上に代わって私がお前の面倒をみよう」
「……わたくしが、……イェッテンバッハ伯爵家に?」
「そうだ。叔父上の願い通り、私がお前とノイラート男爵家を守ってやろう」
レダは突然の話に戸惑いながらも、差し出された救いの手を取った。
しばらくしてレダはイェッテンバッハ伯爵家に移った。
イェッテンバッハ伯爵家は名門で知られていて、都の中心部にある広大な屋敷は、目が眩むほどの贅を凝らした調度品の数々で飾られ、そこでは数えきれないほど大勢の使用人が働いていた。
レダは、質素だったノイラート男爵家とのあまりの違いにたじろぎながら、心のどこかでハインリヒの言った「家格の違い」を感じていた。
養父だったノイラート男爵は先々代イェッテンバッハ伯爵の次男で、若い頃に功を挙げたことで男爵位を授かり、ノイラートを名乗っていたのだとイェッテンバッハ伯爵がレダに話して聞かせた。
「叔父上は昔から、いずれは爵位を返上するつもりで跡継ぎは必要ないと言っていたのだが、お前に出会って気が変わったらしい」
「お養父様がそんなことを?」
「一人で健気に生きるお前に心を打たれたのだそうだ。自分が幸せにしてやりたいと話していた」
自分の名前を呼びながら髪を撫でる養父の姿が瞼に浮かんで、レダの目尻に涙が滲む。
「最近では、財産を狙って違法なやり方で女性相続人に近づく輩の話も耳にする。叔父上は、お前の身を案じて私を頼ってこられたのだ。私にも娘がいるから、叔父上の心配はよく分かる」
そう言ってレダを見たイェッテンバッハ伯爵は、潤んだ瞳で自分を見つめるレダの儚げな美しさに思わず息をのんだ。そしてすぐに顔を逸らし、何かを振り払うように首を振った。
「……信頼できる男をお前の伴侶に選んで、ノイラート家を継がせて欲しいというのが叔父上の願いだった。私がそれを叶えよう。それまでお前は私の妻から家政を学びなさい」
イェッテンバッハ伯爵家には五歳になる一人娘がいて、お互いに一人っ子だったレダと義妹はあっというまに仲良くなり、ふたりの笑い声は毎日のように庭に響くようになった。
イェッテンバッハ伯爵は、屋敷の二階の窓際に妻と並んで立ちながら、微笑ましげにそれを眺めていた。
「叔父上が平民を養女にしたと聞いた時は驚いたが、こうしてともに過ごしてみるとその気持ちも分かる気がする。レダは良い娘だ」
「妙に人の心を捕らえるというか、とても不思議な魅力を持った子ですね」
その言葉に頷きながら、イェッテンバッハ伯爵が顔を曇らせた。
「叔父上の願いだったレダの婿探しの件だが、困ったことに相手が見つからぬ。家産の少ないノイラート男爵家に、おのれの家名を捨ててまで婿に入ろうという貴族がいないのだ」
「実利が得られないのであれば、たとえそれが男爵位同士であっても難しいでしょうね」
「うむ。……だが、これがイェッテンバッハ伯爵家であれば、話は違う。家格差で降嫁婚を成り立たせることも出来るし、もともと我が家と繋がりを求める貴族も多い」
暗意を察して自分を見る妻にイェッテンバッハ伯爵が小さく頷いた。
「レダにイェッテンバッハとノイラートの両方の名を名乗らせて婿を取れば、家名を残せて、いずれはその爵位をレダの子に継がせることも出来る。さらに婚家次第ではイェッテンバッハ家も利が得られる。――――私はレダを養女にしようと思う」
やがて季節が廻り、春が来た。
イェッテンバッハ家に養女として迎えられたレダは、養母から家政を学びながら、時間をみては年の離れた義妹の遊び相手になり、穏やかな時を過ごしていた。
そんなある日のこと。
レダは養母のイェッテンバッハ伯爵夫人に誘われて、貴族のお茶会に参加することになった。
「昔からお付き合いのある方でね、バラが咲き始めるこの季節にはいつもお茶会に誘っていただいているの」
そう言ってイェッテンバッハ伯爵夫人はレダを連れて馬車に乗り込んだ。
しばらく馬車を走らせて着いたのは、天にも届きそうなほど高くそびえる門の前だった。
華やかな装飾で飾られた門の向こうには、歴史を感じさせる堂々とした建物が見え、そこはかなり高位の貴族の屋敷と思われた。
御者が門番と声を交わして、重たい門が音を立てて開かれた。そこを乗車したままくぐり抜け、手入れの行き届いた見事な庭園の中を通り、やがて馬車は屋敷の正面玄関の前で停まった。
レダとイェッテンバッハ伯爵夫人が、そこで待っていた執事に案内されて中庭にある東屋に行くと、つるバラに囲まれた東屋には、すでに数人の貴族女性が来ていた。
執事からふたりの到着を告げられた女主人が、微笑みながら歩み寄ってくる。
「ようこそいらっしゃいました」
「お招きいただき、ありがとう存じます。グルーベンハーゲン侯爵夫人」
「そちらが、お噂のレダ嬢ですの?」
イェッテンバッハ伯爵夫人に促されたレダが、一歩前に出てグルーベンハーゲン侯爵夫人に挨拶をする。
「……お初に、お目にかかります。グルーベンハーゲン侯爵夫人。……レダと申します」
おずおずと顔をあげたレダに、グルーベンハーゲン侯爵夫人が人の好さそうな笑みを浮かべながら話しかける。
「噂以上の美しさですこと。満開のバラも、あなたの前では恥じ入ってしまいそうね」
「……そんな、とんでもないことでございます」
グルーベンハーゲン侯爵夫人の紹介で顔合わせを済ませると、皆がそれぞれの席に着いてお茶会が始まった。
そうしてバラの香りに包まれながら他愛ない話に花を咲かせていると、向こうから一人の若い男が東屋に向かって歩いてきた。
「母上、ただいま戻りました」
「あら、お帰りなさい、ハインリヒ」
「こちらでお友達とお茶会と聞いて、ご挨拶に参りました。……」
領地から戻ったハインリヒが、母であるグルーベンハーゲン侯爵夫人と言葉を交わしながら何気なく顔をあげて、ぽかんと口を開けた。
母と気心の知れた夫人達のお茶会と聞いていたが、その中に見知った顔が、――――レダがいる。
何故ここにレダがいるのか理解が追いつかないハインリヒは、大きく口を開けたまま、レダに目が釘付けになっていた。
「……」
「……ああ、こちらはイェッテンバッハ伯爵家の養女となったレダ嬢よ。お綺麗な方でしょう? ……あらまあ、この子ったら子供みたいに口を開けて」
いつもは冷静な息子の滅多に見せない様子に、グルーベンハーゲン侯爵夫人が面白そうに目を細めた。
「お初にお目にかかります、ハインリヒ様。レダと申します」
レダの挨拶を受けて我に返ったハインリヒは、コホンッと気まずそうに咳ばらいをして、生温い目で見守っている母に向き直った。
「……母上。レダ嬢に庭を案内してさしあげたいのですが、宜しいですか?」
その言葉に、グルーベンハーゲン侯爵夫人とイェッテンバッハ伯爵夫人が、思わず顔を見合わせて、それからくすくすと笑いだした。そしてイェッテンバッハ伯爵夫人が目配せをしたのを見て、グルーベンハーゲン侯爵夫人が返事を待つハインリヒに許可を出した。
「そうね、若い人同士の方が話が弾むかもしれないわね。どうぞ。行ってらっしゃいな」
「ありがとうございます」
養母とグルーベンハーゲン侯爵夫人に促されたレダが席を離れて、少し前で待っているハインリヒのもとへしずしずと歩いて行く。
胸の高鳴りを誰にも気づかれないよう抑えながら、勝手に走り出してしまいそうになる足元をこらえながら。
花が咲く頃にはいつもお茶会を開いているというだけあって、グルーベンハーゲン侯爵家のバラ園は見事だった。
迷路状になった通路はバラのアーチで囲まれていて、香りに包まれながら散策できるようになっている。そしてそこには今、一重に八重、ピンクや赤や黄といった鮮やかな多様なバラが咲き乱れて、甘い香りを漂わせていた。
しばらく無言のままレダの前を歩いていたハインリヒが、東屋から離れた誰の目も届かない所まで来ると、堪りかねたように吹き出した。お腹を抱えて笑いながらレダを見ている。
「男爵家の養女になったかと思えば、今度は伯爵家の養女とは! レダ、お前はよほど強運の星の下に生まれてきたのだな」
「からかわないでください、ハインリヒ様」
「からかってなどいない。……きっと、お前の魅力に抗える者などいない」
そう言いながらハインリヒはレダを見つめていた。
満開のバラを背にして春の陽射しを浴びるレダは眩しいほどに美しく、ハインリヒの目には母の自慢のバラもただの引き立て役にしか見えなかった。
ふわりと吹いた風にバラの花びらが舞い上がり、眩暈がするような濃厚な香りが二人を包みこんだ。
漂う甘い香りにまるで酔わされたようにハインリヒとレダは、互いの手を伸ばして抱き合い、そして唇を重ねた。
濃密なバラの香りに包まれて、ハインリヒがレダの髪に口づけを落としていた。
レダは熱で潤んだ瞳でハインリヒを見上げている。
「ハインリヒ様。今度こそ、わたしをハインリヒ様のお嫁さんにしていただけますよね?」
「……お前はまだそんなことを考えているのか」
レダの髪に触れていたハインリヒの指が止まり、そして大きく見開いていた目をやがて静かに伏せた。
「……そうだな、お前がもし生まれながらの伯爵令嬢だったなら、私はお前を娶っていただろう。だが、もう遅い」
未練を払いのけるように腕に抱いていたレダを降ろすと、ハインリヒはゆっくり立ち上がった。
そして不思議そうに目を瞬かせて自分を見上げているレダの視線を避けて、遠い向こうの空を眺めた。
「――――私は王女の夫となることが決まった。この秋には婚儀を挙げる」
「ハインリヒ様!?」
「レダ、お前ほど愛情深く、真心を私に捧げてくれた女はいない。けれど、もう終わりだ」
「……また、……わたしを捨てるのですか? ……こんなにもハインリヒ様をお慕いしているのに、……それでも?」
大きく見開かれたレダの瞳からぽろりと涙が零れ落ちる。
冷たくそれを見下ろしたハインリヒの口から非情な言葉が漏れた。
「初めからお前とは身分が違うと告げていたはずだ」
ハインリヒの無情な言葉に、レダは唇を噛んだ。
何も言葉を返せずに無言のまま見つめ続けているレダの頬に、ハインリヒが腰を屈めて口づけた。
「いい加減に私のことは忘れて幸せにおなり。さようなら、レダ」
いきなり吹きつけた強い風が、地面に落ちていたバラの花びらを巻き上げた。
まるで花吹雪のような光景の中を、レダに背を向けたハインリヒが歩き出す。
花びらが舞い踊る中、バラのアーチの隙間から入る陽射しを受けたハインリヒの金色の髪が、きらきらと眩しく輝いている。
見覚えのある何度も繰り返したその光景に、レダの目から涙が溢れた。
どんなに待っても、ハインリヒが決して振り返らないことは知っていた。
宙を舞っていたバラの花びらはやがて地に落ち、ハインリヒの背中が遠くに小さく見える。
それでもレダは、ひとり立っていた。