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2. 秋のためらい

 季節が移り、すっかり褐色に染まった森の中を冷たい風が音を立てて吹き抜けている。


 あの日去り際にハインリヒが残した言葉は、今も棘のようにレダの心に刺さったままだった。


『お前が貴族だったなら』


 亡くなった両親はふたりとも平民だったし、どうしようも無いことだと頭では分かっていても、それでもふとした時に湧いてくる思い。

 ――――もしも自分が貴族だったら。


 どんなに望んでも手に入れられない。身分は変えられない。諦めなくてはいけない。分かっているのに、何度消し去っても絶えず湧いてくる未練が、いつまでもレダを悩ませていた。




 大火に焼き尽くされた町は、少しずつ再生が始まっていた。

 山積みになっていた瓦礫は撤去され、新しい建物が次々に建てられていった。

 教会に保護されていた親を亡くした子供達も、レダ以外は皆、新たな親元に引き取られていった。

 

 救済所としての役割を終えた教会は、そのうちに訪れる者もいなくなった。そして、養子縁組の話をすべて断って教会に残ったレダは、そこで掃除や洗濯などの雑用をしながら静かに暮らしていた。

 


 ある日、いつものようにレダが礼拝堂の掃除をしていると、杖を手にしたひとりの老人が入り口に姿を現し、静寂を裂くカツンッという杖の音に驚いて、レダが振り返った。


「おじいさま」


 杖で体を支えながら立っている老人の姿を目にしたレダが、ふわっと顔をほころばせた。

 老人の名前はノイラート。少し前に礼拝堂前の階段で転んで起き上がれずにいたのをレダが助け、それ以来ふたりは親しく声を交わすようになっていた。


 レダはノイラートの体を支えている両腕が震えているのを見て、急いでそばに駆け寄ってその体を支えた。


「おじいさま。呼んで下されば、わたしがお迎えに参りましたのに」

「いいんだよ、レダ。お前の仕事の邪魔をしたくないからね」


 近くにあった椅子にノイラートを座らせると、レダはその傍らにしゃがみこんだ。教会を訪れる度に面白い話を聞かせてくれるノイラートが今日はどんなお話をしてくれるのかと、目を輝かせながら待っている。

 ノイラートはそんなレダを愛おしそうに見つめ、皺だらけの手でレダの長い髪を撫でた。


「可愛いレダ。今日はお前に大事な話があるのだよ」

「何でしょう、おじいさま」

「わしの養女にならないか?」


 突然の話にレダがきょとんとしてノイラートを見た。


「わしはお前が本当の娘のように思えて、可愛くてならない。この手で幸せにしてやりたいと思っている。これまでは天涯孤独のまま朽ち果てるつもりでいたが、気が変わった。――――レダ、わしのすべてをお前に譲りたい」


 ノイラートの真剣な眼差しに、何と答えたら良いものか分からずにレダは困惑した目で見返した。

 そんなレダの手をノイラートが皺だらけの自分の手で包む。


「お前に、我がノイラート男爵家を継いで欲しい」


 息を呑んだレダの脳裏にハインリヒの言葉がよぎる。


『お前が貴族だったなら』


 ――――レダの瞳の奥に小さな光が宿った。





 レダが教会を出て、ノイラート男爵家の養女となって半年が過ぎた。


 郊外にあるこじんまりとしたノイラート男爵家の屋敷には、養父となったノイラート男爵と執事と数人の使用人だけが住んでいた。


 使用人達がレダを元平民と知りながらも主と認めて温かく受け入れてくれたことで、貴族の養女となることに身構えていたレダも、ノイラート家にすんなりと馴染むことが出来た。

 

 やがてノイラート男爵は、レダのために屋敷に家庭教師を招いた。これから必要になる貴族としての作法を学ばせるためで、慣れないことに戸惑いながらもレダは懸命に学んだ。


 そのうちに家庭教師のお墨付きが出て、レダは男爵令嬢として人前に出ることを許された。それをうけてノイラート男爵がレダの最初の社交の場として選んだのは、慈善バザーだった。


 貴族女性の間では最近、それぞれが持ち寄った手芸品をバザーで売り、その収益金と寄付をもとにして救貧院に食事を届ける活動が流行っていた。

 ノイラート男爵は、そこでレダと貴族女性達との顔を繋ごうと考えたのだった。




 数日後に広場で行われた慈善バザーには、大勢の貴族の夫人たちが参加していた。

 間隔を開けて円形状に並べられたテーブルの上には、それぞれが持ち寄った手芸品やお菓子が置かれていて、楽し気に呼び込みをする姿やおしゃべりに花を咲かせる姿が見える。


 想像以上の賑わいぶりに、レダを連れてそこを訪れたノイラート男爵は、馬車を降りるなり目を丸くした。


「お養父様? どうかなさいました?」

「……いや、大丈夫。さあ、行こうか」


 ノイラート男爵がレダに体を支えられながら歩いていると、近くにいた貴族女性が驚いたような声で話しかけてきた。


「まあっ、ノイラート卿ではございませんこと?」

「おお、これはコベル子爵夫人」

「お懐かしゅうございます。お変わりなくお過ごしでいらっしゃいました?」

「それが、このたび養女を迎えましてね。皆様に是非とも娘を紹介したくて、今日は老骨に鞭打って来ましたよ」


 そう言って笑いながらノイラート男爵は、後ろに控えていたレダの背中を押した。


「娘のレダです。わしの代わりに、これから親しく付き合ってやって頂きたい」

「お初にお目にかかります。レダと申します」

「……まあ、なんてお綺麗な方でしょう」


 ノイラート男爵とコベル子爵夫人のやりとりに気づいた周りの貴族女性達が、後ろに控えているレダの美しさに目を留めて、まるで吸い寄せられるように集まって来た。


 思いがけずに輪の中心になったノイラート男爵は、コベル子爵夫人からすすめられた椅子に座ると、周囲からねだられるままにレダを養女にしたいきさつを語り出した。自慢の養女のことを誰かに話したくて堪らなかったノイラート男爵の口は、いつもよりだいぶ滑らかになっている。


「レダが倒れている私を助け起こしてくれた時には、天からお迎えが来たのかと驚いて腰が抜けましたよ」

「これほど美しい方ですもの。そのお気持ち、分かるような気がいたしますわ」

「毎朝レダに起こされるたびに、今日こそお迎えが来たかと魂が抜けそうになりましてね」

「まあ、それは大変」


 目尻を下げながら語り続けるノイラート男爵の横で、当のレダはまるで美しい彫刻のように固まっていた。瞬きもせずにその目は遠くの一点を見つめている。


 感嘆の声をあげながら自分を囲んでいる貴婦人達の向こう。円形状に並んだテーブルの横でお菓子を売る貴婦人達のさらにその向こうに、驚愕の表情で自分を見ている若い男がいた。


 忘れられるはずがない。あの風になびく見事な金色の髪。

 それは、母であるグルーベンハーゲン侯爵夫人が主催した慈善バザーに気まぐれに顔を出したハインリヒだった。


 向こうで言葉を失くしているハインリヒに、先に我に返ったレダが微笑みを投げる。そして目をハインリヒに残したまま、傍らで貴婦人達と楽しそうに話をしている養父に尋ねた。


「……お養父様、……少しの間だけ、一人で見て回っても宜しいでしょうか?」


 かすかに上ずっているレダの声に気づかずに、ノイラート男爵は上機嫌で返した。


「ああ、構わんよ。行っておいで」


 ノイラート男爵の承諾を得るなり、レダはひらりと身を翻した。


 いつのまにか打ち出した胸の早鐘はどんどん激しくなって、もう抑えられなくなっている。やっと会えた喜びに頬が勝手に緩み、足は知らずに駆けだしていた。


「ハインリヒ様」


 自分のもとへ向かって来るレダに気づいたハインリヒが、慌てて周囲を見回して、身を隠すようにするりと建物の裏に入っていった。レダは予想外のその反応に驚きながら、見失わないように足を速めた。

 けれど、まるでレダから逃げるようにハインリヒは早足で歩いていて、なかなかふたりの距離は縮まらない。


「待って、待って、ハインリヒ様」


 やがて周りに誰もいないことを確認したハインリヒが、ようやく足を止めて後ろを振り返った。後を追って来たレダは、ずっと小走りだったせいで顔が紅潮し、息が上がっている。


 肩で息をしながら、レダは困惑していた。

 あんなにも会いたかったハインリヒが、どうして自分から逃げるのか分からない。

 しばらく会わない間に心変わりしてしまったのかと、もう自分に対する気持ちを完全に失くしてしまったのかと、一気に不安が押し寄せてくる。


 無言で立つハインリヒは、最後に会った時とは様子が違っていた。

 以前よりさらに背が伸びて、逞しくなった。

 かすかに残っていた少年らしさが消えて、大人の男になっていた。

 これほど素敵になっていては他に誰か心に決めた人がいても仕方ないのかもしれないと、レダが急に弱気になっていると、黙ってレダを見ていたハインリヒが眩しそうに目を細めた。


「……美しくなったな、レダ。見違えるようだ」


 その瞬間に、自分を抑えきれなくなったレダがハインリヒの首に抱きついた。


「ハインリヒ様!」


 夢中でしがみつくレダに応えるように、ハインリヒが腕に力をこめてレダの体を抱きしめた。

 そしてレダの頭頂の髪に口づけを落としたハインリヒが、レダの細い顎を指でつまんで自分の方へ向かせると、その唇を自分の唇で塞いだ。 





 建物の向こう側の賑わいが、遠くに聞こえる。

 静寂の中で風にそよぐ葉擦れの音を聞きながら、ハインリヒはレダの体を抱き寄せていた。

 

 腕の中で幸せそうに微笑んでいるレダの髪に口づけを落とすと、レダがはにかみながら顔をあげた。

 その唇に自らの唇を重ねたハインリヒが、ふと思い出したように口を開いた。


「レダ、どうしてお前がここにいるんだ?」

「ハインリヒ様、わたし貴族になりました」

「……どういうことだ?」


 首を傾げるハインリヒに、レダが弾む声で続けた。


「ノイラート男爵様がわたしを養女にしてくださったんです」

「養女? ノイラート男爵の?」

「ええ。これでわたし、ハインリヒ様のお嫁さんになれますよね?」


 無邪気に自分の胸にすり寄るレダにしばらく唖然としていたハインリヒは、やがてゆっくりと体を起こした。ひとりで身繕いを始めたハインリヒをレダが不思議そうに見上げる。


「ハインリヒ様?」


 戸惑うレダをちらりと見たハインリヒが、静かに口を開いた。


「残念だがレダ、お前とは一緒にはなれない」

「でも、ハインリヒ様はわたしが貴族だったらって……。わたしが貴族なら、ハインリヒ様のお嫁さんになれるのでしょう?」

「同じ貴族であっても、我がグルーベンハーゲン侯爵家とお前のノイラート男爵家では家格が違う」

「……家格?」

「そうだ。お前がせめて伯爵令嬢にでもならなければ、私とは身分が釣り合わない」


 レダの顔から色が消えた。

 ハインリヒがそんなレダの頬に口づけ、そして励ますように微笑んだ。


「嘆くことは無い。男爵家といえども滅多にない幸運だ。私でなくとも、お前ならいくらでも婿のなり手はいるだろう。さようなら、レダ。良い相手に出会えるよう祈っているよ」


 そう言って立ち上がると、ハインリヒは皆のいる慈善バザーの場へとひとりで戻って行った。



 思いもしなかった結末に、残されたレダは呆然としていた。

 貴族になればハインリヒの側にいられると信じていた。だからこそノイラート家の養女になり、貴族の作法も必死に学んだ。ただハインリヒへの想いだけでここまで来た。


 耳元で何度も自分の名前を呼ぶハインリヒの優しい声が、今も耳の奥に残っている。

 それなのに、あの甘い眼差しも優しい囁きもすべてが夢で、まるで自分など最初から存在しなかったかのように、ハインリヒはまっすぐに前を見て、どんなに待っていも決して振り返らない。


 遠くに霞むハインリヒの後姿を眺めながら、ぐらりとレダの体が崩れ落ち、その目から涙が零れた。

 


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