1. 夏の終わり
「なんて強情な娘だ、レダ」
町外れにある古い教会の横手で、一人の少女が数人の男達に囲まれていた。
少女の名前はレダ。
腰まである長い白金色の髪に淡い紫の瞳で、一目見た瞬間に誰もが心を奪われてしまうほど美しい顔立ちをしている。
強面の用心棒と痩せぎすの使用人がふたりがかりでレダに脅しをかけるのを後ろからニヤニヤと眺めているのは、好色で知られる商人のアルトマイヤー。でっぷりと突き出た腹は、今にもボタンが弾け飛びそうだ。
「身寄りの無いお前を引き取って面倒をみてやると旦那様がおっしゃっているんだ。さっさとお受けしろ!」
「まあ待て。可愛いレダが怯えているじゃないか」
レダの反応の乏しさに使用人が苛立ちをつのらせて、声が段々と荒くなってきた。それを後ろからなだめたアルトマイヤーが、震えるレダににこやかに話しかけた。
「なあレダ、お前だって、いつまでもこんな貧しい暮らしをするつもりはないだろう? 素直に私の言うことを聞くなら、どんな贅沢でもさせてやるぞ。さあ、いい子だから私と一緒においで」
横から圧をかけてくる用心棒に怯えながら、レダが小さな声で答えた。
「……お断りします。わたし、ここを離れたくないんです」
「優しくしてやれば調子に乗りおって! おい、力づくでも連れて行くぞ!」
アルトマイヤーが態度を豹変させたのを受けて、用心棒がレダの小さな体を肩に抱え上げた。太い腕で体を掴まれたレダは、用心棒の肩の上で手足をばたつかせて必死に抵抗している。
「嫌! 降ろして!」
「うるさい! いつまでも私に逆らうお前が悪い! ……うわっ!」
アルトマイヤーの巨体が突然、前につんのめって倒れた。そしてそのまま前日の雨でぬかるんでいる地面をするり気持ちよく滑っていく。アルトマイヤーの高そうな上着の背中には、くっきりと蹴られた靴跡が残っている。
両手を広げて滑る体をどうにか止めたアルトマイヤーが、泥まみれになった顔を怒りにぶるぶると震わせながら叫んだ。
「誰だっ!? この私にこんな真似をして無事に済むと思っているのか!?」
「ひえっ、旦那様っ!」
使用人が血相を変えてアルトマイヤーのもとに駆け寄り、その体を支え起こした。
怒りに震えるアルトマイヤーの視線の先には、すらりと背の高い若い男が立っていて、見事な金髪を風になびかせながら、蔑むような目でアルトマイヤーを見下ろしている。
「……こんの若造が! 私を誰だと思っている!? 私はな、……」
鼻息を荒くしながら名乗ろうとするアルトマイヤーを、使用人が慌てて後ろから抱きついて止めた。
「だ、旦那様! おやめ下さい! このお方は、グルーベンハーゲン侯爵家のハインリヒ様です!」
「何!? あの筆頭侯爵家の!?」
みるみる青ざめたアルトマイヤーの顔から、じわりと脂汗が吹き出してくる。無言で睨みつけるハインリヒの前で、アルトマイヤーは視線を泳がせながら言葉を探していた。
「あ、う、これはハインリヒ様。ご、ご挨拶が遅れました。わたくしはアルトマイヤーと申しまして、その……」
「お前の挨拶などいらん。さっさとレダを降ろせ」
「は、はいっ、すぐにっ。そこのお前、早くレダさんを降ろして差し上げろっ」
レダを肩に担いでいた用心棒は、アルトマイヤーの変わり様に戸惑いながら言われるままにレダを降ろした。
解放されたレダが小走りでハインリヒのもとへ行くと、待っていたハインリヒが腕を広げてレダを包み込み、そして氷のような目でアルトマイヤーを睨みつけた。
「二度とレダの前に現れるな。消えろ」
震えあがったアルトマイヤーは、用心棒に抱えられて逃げるように去って行った。それを忌々しそうに見ていたハインリヒは、アルトマイヤーの姿が見えなくなると、腕の中にいるレダの顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、レダ? 怖かっただろう?」
「平気です」
ゆっくりと顔をあげて微笑むレダに、呆れたハインリヒが溜息を吐いた。
「あの男はお前を無理やり連れ去って、妾にしようとしていたんだぞ。分かっているのか? どうしてそんな風に呑気に笑っていられるんだ?」
「だって、きっとハインリヒ様が助けに来てくださるでしょう?」
レダの言葉にハインリヒがふっと目を細めた。
澄んだ瞳で見上げるレダとハインリヒの視線が、いつしか甘さを帯びて絡まっていく。抱き合ったまま、少しずつふたりの顔が近づいていき、やがて唇が重なった。
都に大火が起きたのは一ヶ月程前のことだった。
深夜にどこからか起こった火が、乾いた風に煽られて町中を焼き尽くした。
焼け出されて親を亡くした子供達は、町外れにある教会に集められ、しばらくそこで保護されることになった。そして、以前から慈善事業に熱心だったグルーベンハーゲン侯爵夫人が先頭に立ち、子供達の世話に当たっていた。
そのうちに保護されていた子供達は、グルーベンハーゲン侯爵夫人の働きかけもあり、ひとりふたりと新たな親元を見つけて教会を去って行った。
保護されていたうちのひとりのレダには、その美貌のために養子縁組を望む声が殺到していた。けれど、その中に彼女を引き取って金持ち相手に高く売りつけようとする輩が見つかり、事態を重く見た教会がレダの養子縁組に慎重になった。
そこへ現れたのがハインリヒだった。
母であるグルーベンハーゲン侯爵夫人の手伝いで教会を訪れたハインリヒは、レダの美しさに一目で心を奪われ、そしてレダもハインリヒの優しさに惹かれて、ふたりはあっという間に恋に落ちた。
そして、その恋のためにレダは、すべての養子縁組の話を断わり、教会に残ることを決めた。
そんなある日。
レダとハインリヒのふたりは、教会の裏手にある森を歩いていた。
青々と覆い茂った木の葉の隙間から陽の光が漏れ入っている。
そこにはふたりの他は誰もおらず、かすかに背後に聞こえていた声も、やがて遠ざかり聞こえなくなった。
聞こえているのは、上空を飛ぶ鳥の澄んだ鳴き声とわずかな葉擦れの音だけ。
手を繋ぎながら会話をかわしていたふたりは、いつしか無言になっていた。
足を止めて向かい合ったレダとハインリヒは、やがてどちらからともなく抱き合って唇を重ねた。
「……レダ」
瞳を揺らしながらハインリヒを見上げたレダが、こくりと頷いた。
それを見たハインリヒが、レダのドレスの胸元に手をかける。
頬を赤く染めながらレダは、黙ってハインリヒの指先を見つめていた。
それからふたりは、時々森を訪れるようになった。
そこは、レダとハインリヒが誰にも邪魔されずに過ごせる特別な場所だった。
その日もハインリヒはいつものようにレダの髪を整えていた。
レダの柔らかな髪に手櫛を通しながら、手に持った毛束に口づけを落としたハインリヒが、静かに口を開いた。
「レダ、私は明日、領地へ戻ることになった」
横たわりながらぼんやりとハインリヒを見上げていたレダが、ゆっくりと体を起こして、甘えるようにハインリヒの首に腕を絡ませた。
「一緒に行きます。わたしをハインリヒ様のお嫁さんにしてください」
レダの言葉に、ハインリヒが息をのんで固まった。顔を強張らせ、目を見開いたままレダに視線を落としている。
レダはそんなハインリヒの変化に気づかずに無邪気に甘えている。
やがてハインリヒは、自分の首に抱きついているレダの腕をそっと掴んで離し、諭すようにレダの淡い紫の瞳を覗き込んだ。
「可愛いレダ。お前は何も知らないのだね。平民のお前と私とでは身分が違う。結婚など許されない」
想像もしなかった言葉に声を失くしたレダが、戸惑いに瞳を揺らしながらハインリヒを見上げた。
「お前のことは神父様によく頼んでおく。今後のことは何も心配しなくていい」
「……ま、待って、待ってハインリヒ様。どうして? ……わたしが平民だからダメなのですか? ……それなら、もし、……もしわたしが貴族なら、ハインリヒ様のお嫁さんにしてもらえたのですか?」
突然切り出された別れに、レダは混乱していた。
愛し合っていると思っていた。愛されていると。
それなのに、平民だからと、身分が違うからと、そんな理由で置いていかれようとしている。
納得できないレダがハインリヒの上着を掴みながら問いかけると、ハインリヒはそれにどこか遠い目をしながら答えた。
「……そうだな、お前が貴族だったら。……あるいは」
言い終えたハインリヒがレダに視線を落とすと、そこには涙をいっぱいに溜めた、すがるような瞳があった。
ハインリヒはそこから目を逸らし、自分にしがみついているレダの腕を無慈悲に引きはがした。
「ハインリヒ様!」
引きはがされた勢いでレダの体が地面に崩れ落ち、涙をいっぱいに溜めていた目からはとうとう涙が溢れた。
ハインリヒはゆっくりと立ち上がると、服についた汚れを手で払い落とした。そして倒れているレダを助け起こすこともなく、そのまま背を向けて歩き出した。
「さようなら、レダ」
向こうへ歩いて行くハインリヒの金色の髪が、夏の日差しを受けてきらきらと輝いている。
レダは光を浴びて眩しく輝くハインリヒの髪が好きだった。
愛おし気に自分を見つめ、優しく愛を囁くハインリヒが好きだった。
一方的に別れを告げられて、ひどい仕打ちを受けても、それでもその姿を見れば勝手に胸が騒ぐ。
次から次に溢れてくる涙がレダの視界を霞ませ、ハインリヒの後ろ姿が見えなくなっていく。
レダはそこから動けなかった。
ハインリヒが振り返るような気がした。ここへ戻ってくるような気がした。
レダは、そんなかすかな望みにすがりながら待っていた。
けれど、ハインリヒは二度と振り返らなかった。
「……わたしが、……貴族だったら。貴族だったら」