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「悪いけど、簡単には死なせてあげないわ」

白い文字でRICOと書かれた黒のギターケースを括りつけたカートを引きずり、白水法子しらみずのりこは、駅へ向かう夜の街を一人で歩いている。

音無夕太郎おとなしゆうたろうさん、残念だけどあなたを簡単には死なせてあげないわ、これから先もずっと生き続けるのよ」

誰にも聞かれない小さな声で、彼女は言葉を口にした。


1時間ほど前、ラブホテルの大きなベッドの端に座った音無夕太郎は、立ったままの白水法子の右手を握り、自分の言葉に酔うかのように言った。

「この世とお別れする前に、君を抱きたいよ」

ゲス野郎…、腹の内でそう吐き捨てながら、彼女は右手に絡みつく彼の手をゆっくりとほどき、彼の正面に立って、両手を彼の両肩にかけ、サイドの髪の毛で顔が半分隠れるように首を前に傾け、口元に笑みを浮かべ穏やかに言葉を返した。「ねえ、そういうの、やめましょう、私にそんな気はないわ、だからあなたを気持ちよくさせてあげられない、がっかりさせるだけよ、私たち、穏やかにこの世からいなくなりましょうよ」

白水法子は、音無夕太郎の不倫相手だったユキの、ブラウスの上からでもはっきりとわかる女らしい胸の曲線を思い出した。あんな体の女を抱いてきた男に私ごときでは役不足だわ、彼女はまるで他人事のようにそんなことを考えた。

赤いカプセルと一緒に彼に口移しで飲ませた睡眠薬の威力は強烈だった。10分もしないうちに、音無夕太郎はいびきをかいて眠ってしまった。彼女はトイレに籠り、人差し指と中指を喉に突っ込んでゲーと三回嘔吐をした。両目から涙があふれた。トイレから出るとアメニティのゴムで髪の毛を後ろに結わき、丁寧に顔を洗った。さっぱりして、やり遂げた感があった。


睡眠薬はKが用意してくれた。「K」というのがのシンプルなイニシャルなのかコードネームなのか、彼女は知らないが、知る必要がないことは理解している。

Kの簡単な説明によれば、今回の依頼者は、音無夕太郎に助けられた女性の姉だという。彼に助けられた妹は、その後姿を消し、未だに消息不明らしい。依頼者の想像では、妹はなにかの犯罪に関わり知るべきではないことを知ってしまった。すべてを清算するための、覚悟のうえでの自殺のつもりだった。なのに、彼に助けられてしまい、妹は毎日頑なに何も語らないまま怯えながら暮らした。そしてある日失踪した。姉は妹が東京湾の底に沈んでいると思っている。妹が必死で考えた幕引きを、音無夕太郎が台無しにした。依頼者は、おそらくこの世にいない妹の霊を慰めることもできない。依頼者は10年も苦しんでいる。してはいけないことをした音無夕太郎を絶対に許さない。この先何十年も続く苦しみを、音無夕太郎とその家族に与えることを望んだ。


今回の仕事の成功は、ユキという不倫相手の存在に負う部分が大きい。ユキには浪費癖があり、リボ払いの残高や消費者金融の借り入れを合計すると、200万円近くの借金があった。

3か月ほど前に、白水法子はユキの前に現れ、音無夕太郎との密会現場の写真を突き付けて言った。

「このままだと、音無さんの奥さんに訴えられて慰謝料を請求されるわ」

「え!」ユキは顔面蒼白になった。

「助かる方法が一つあるわ、あなたが先に彼を訴えて慰謝料を請求するの、それをしなければあなたは破滅よ」

ユキはいとも簡単に白水法子の用意した計画に乗っかった。妊娠したというのは嘘だ。医師の診断書は白水法子が用意する。インパクトが大きいのは会社でリストカットをすること。「何度もしたことあるでしょう?」白水法子は、ユキの手首の傷跡を見逃さなかった。

「あなたが会社を辞めないと言い張れば、音無さんが辞めざるをえなくなるわ、そうすれば彼にはまとまった退職金が入る、あなたの慰謝料の原資になるわ、彼が辞めた後であなたも辞めればいい、今の会社で働き続けられるほどメンタルは強くないでしょう? どうせ彼の奥さんに訴えられてあなたは辞めざるを得なくなるわ、だったらあなたの年収の二年分くらいの慰謝料をもらって、ゆっくり次の仕事を探せばいいじゃない」

ユキは覚悟を決めるしかなく、覚悟を決めた彼女は強かった。


音無夕太郎は今頃ラブホテルのベッドの上で熟睡している。

「楽に死ねる薬よ」と言って、睡眠薬と一緒に口移しで飲ませた薬は、脳を委縮させ急激な記憶障害を発生させる薬。明日目覚めた時には、今日の記憶のほとんどは消えているだろう。私のことも忘れてしまう。何日か経てば、自分の記憶力が恐ろしく低下していることに気がつくだろう。そして、これから先どうやって生きていけばよいのか恐怖に襲われる。その頃には自殺という概念が頭から消えている。彼は二度と自殺を思いつくことはない。苦しみながら生き続けるしかない。


駅に着いた白水法子は、新宿に向かう電車に乗った。ドアのすぐ脇にカートを置き、ドアに寄りかかるように立って、車窓から夜の街の明かりを眺めた。川に差し掛かり鉄橋を超えると、外が暗くなり窓には明るい社内の光景が反射する。塾帰りなのか、制服姿の女子高生が直ぐ隣で立っているのが見えた。白水法子は、何も考えずに、ただ白い制服を眺めていた。

新宿駅に着くと、南口を出て、バスタへ向かった。これから高速バスに乗ってある地方都市を目指す。お金を節約したいわけではない。一人で眠るのが恐くて、今すぐに移動したかった。一仕事終えた後は必ず向かう土地。彼女をこの仕事に引き入れた、高校時代の担任が育った街。その土地にあるお寺の墓地で彼は眠っている。夜通しバスに揺られれば、早朝には目的地に到着だ。

バスタに着き、乗車券を買った、

まだ動き出す前のバスの座席に座り、目を軽く閉じただけで、あの時の先生のものすごく気持ち悪くて、なんとも情けない表情を条件反射のように思い出してしまう。耳障りのいい言葉を並べ、味方のふりをしてくる大人は世の中にたくさんいるのだろう。そんな人たちの言葉を真に受けることは、これから先ずっとないだろう。先生は私の前で恥をかいてくれた。他の誰にも見せたことのない恥ずかしい姿を晒してくれた。だから私は先生の言葉を信じたし、今でも信じている。Kの正体はまったくわからないが、先生が「Kは信頼できる」と言ってくれた、それだけで十分だ。先生の言葉通りKは同性愛者で、指一本触れられたことはない。


白水法子は両親を知らない。親に捨てられた彼女は都内の施設から学校へ通った。中学を卒業すると都立高校に進学し、高校二年の時、浅瀬洋一あさせよういちという40手前の化学の教師が担任になった。二学期に入り、将来の進路に関する個人面談が行われた。彼女は「大学には行きたいけれど、奨学金という借金を負わなければいけないと思うと、憂鬱な気持ちになる」と打ち明けた。そんな彼女に対し、浅瀬は「どれだけ非現実的でもいいから、夢みたいなのはないか?」と訊いた。彼女は冗談のつもりで「せっかくこんな境遇に育ったのだから、スパイとか殺し屋とか、家族がいない方がいい仕事に就けたら楽しいかも」と口を滑らせてしまった。その言葉を聞いた浅瀬の表情が変わった。

「白水、君が本気でそう思うなら、僕は君の力になれる、一度真剣に考えてくれないか? もし、一人で結論が出せなくて誰かに相談したいと思うなら、この話は冗談として終わりにしよう、一生の問題だ、時間をかけていいから考えてくれ、もし覚悟を決めることができたらそう言ってくれ、僕からは催促はしない」

担任のその反応は、彼女にとってあまりにも衝撃的で、何週間も一人で抱えていることはできなかった。

一週間後、彼女は「覚悟を決めた」と伝えた。

浅瀬洋一は彼女に指示を出した。次の土曜日に自宅に来てほしい。一時間の枠を指定し、鍵を開けておくので、人通りの少ないタイミングを見計らって勝手にドアを開けて部屋に入ってほしい。指紋を残してほしくないので、手袋をはめて来てほしい。もし当日トラブルがあっても決して連絡はしないように。指定した時間帯に来れなくなったら、縁がなかったとあきらめてほしい。

彼女は指示に従った。

指定された時間にアパートのドアを黙って開けて中に入ると、浅瀬洋一は学校でもめったに着ることのないスーツを着て、ネクタイを締めて待っていた。

「白水、来てくれてありがとう、いまから君の覚悟を試すテストを行う。その試験に合格すれば、君は殺人者として生きていける。殺人というのは需要があるんだ、依頼者がいて、その依頼者の期待に応えることで君は報酬を得られる、それが君の仕事になる。君は一人じゃない、君をサポートしてくれるネットワークがあり僕も属している。君の覚悟を試すからには、僕自身も覚悟をする必要がある、おたがい一世一代の覚悟を試す場が今というわけさ。ここに二種類の薬がある」そう言うと浅瀬洋一は、名刺サイズの透明なビニールのケースを二つ取り出した。一方には赤いカプセル、もう一方には青いカプセルの薬らしきものが、それぞれ二錠ずつ入っている。「この赤いカプセルは安楽死をさせる薬だ。君が依頼を受けて人を殺めるときの道具になる。もう一つの青いカプセルは人を殺さない。その代わりに脳を急激に委縮させて、記憶障害をもたらす。いろいろなことを忘れてしまう。本人は記憶を失うことへの恐怖につきまとわれ、実際に記憶力が低下するから周囲を頼らなければ生活がままならなくなる。つまり、この薬を飲まされた人間も、その家族もずっと苦しみながら生きていくことになる、殺すよりも、こちらを望む依頼者もいる。ただ、生き続ければ新薬が開発されて治療が可能になるかもしれない。赤いカプセルなら死んでおしまい、青いカプセルなら苦しみは続くが希望がないこともない。わかるか?」

いつもとは全く違う、異様にも感じられるほどの浅瀬洋一の饒舌さに圧倒され、白水法子は頷くしかなかった。

「この薬のどちらかを僕らに飲ませる、それがテストだ。どちらでもいい、飲ませてくれたら合格、もちろん僕は抵抗などしない、君が口に入れてくれる薬を素直に飲むよ。でももしどちらも飲ませることができなければ、君に人殺しは無理だ、この話はここで終り。赤いカプセルを選べば僕は死ぬ、でも心配はいらない、僕が自殺するだけ、君が僕を殺すわけじゃない。僕の死と君の存在がつながらないよう準備はしてある。その手袋だけじゃない、…ちょっとこっちへ来てくれないか?」

浅瀬は法子に向かって手招きをすると、ベッドへ向かって歩き出した。

「わかるか?」彼は白いシーツを指さした。長さの異なる髪の毛が不自然なほど散在していた。「集めておいた生徒たちの髪の毛を部屋中に撒いてある。この部屋に入ったのは君だけだが、ここに来たことのないたくさんの生徒の髪の毛がここにはある。君の髪の毛だけがこの部屋から見つかるということはない」

気持ち悪い…、白水法子は心の中で呟いたが、そんな言葉では言い尽くせない異様なことが目の前で展開している。そして自分はそこに片足どころかすでに両足を突っ込んでしまい、すべてを受け入れようとしている、そのことをはっきりと意識し始めていた。

「赤いカプセルを飲めば僕は死ぬ、青いカプセルを飲めば僕は君のことを忘れてしまう、…最後に僕の願いを叶えてくれないか?」

「何ですか?」

「少しの間、僕と添い寝をしてくれないか? その間にどちらかを選ぶか君も考えたらいい」

「わかりました」そう言うと、彼女は覚悟を決めたようにそそくさとベッドの上に身を投げ出した。

「ありがとう」浅瀬は枕元に薬を置くと、体を丸めて彼女の左側で横になった。白水法子は黙ったまま天井を見上げた。

「制服の上から胸を触ってもいい?」浅瀬は先ほどよりもだいぶ低い声でぼそっと訊いた。

「どうぞ」法子は答えた。

浅瀬は左手で法子の右の胸に触れた。そして顔を彼女の右の胸にゆっくりと押し当てた。法子は何も言わず抗わず、体を少し左に向けると「最後だと言うならもっと胸の大きな子の方がよかったでしょう」とよけいなことを考えていた。

胸の上で浅瀬の息がハーハーと荒くなった。繊維の隙間から熱い息が伝わってくる。法子は右手で浅瀬の髪の毛にそっと触れた。それが合図だったかのように浅瀬の息はさらに荒くなり、法子の腿に横から自分の下半身を密着させた。硬くなっているのがわかった。法子は浅瀬の髪の毛を上から下に静かに撫でた。浅瀬はそのままの態勢で腰を振り始めた。ハーハーという荒い息は声に変わり、腰の動きも激しくなる。法子はどうすることもできずそのままでいた。突然、浅瀬は法子から体を離した。仰向けになって、ア~というすすり泣きのような声を上げてひとり果てた。法子は浅瀬のイク瞬間の顔を見てしまった。恐ろしく気持ち悪くて、なんとも言いがたい情けない顔をしていた。今は目を閉じてハーハーと呼吸をしている。スーツの股間のあたりが精子でベッチョリと濡れていた。

「ありがとう、白水」浅瀬の声は震えていた。目は閉じられたまま。よく見ると涙が浮かんでいる。「夢が叶った」

法子はどう反応してよいのかわからず、黙っていた。

「決まったか?」浅瀬は訊いた。

「え?」

「青か赤、どっちだ?」

浅瀬は相変わらず目を閉じていたが、彼の恍惚の表情が法子の目には焼き付いていた。彼女は体を起こして、枕元に投げ出してあった、青いカプセルの入った小さなケースを手に取って言った。「こっちにします」

浅瀬は目を開けた。「オレは白水のことを忘れてしまうのか…、じゃあ口移しで飲ませてくれ、カプセルだから大丈夫だ、口に含んだくらいでは危険はない」

もはやこの程度の願いは、全然大したことには思えなかった。彼女は青いカプセルを上下の歯の間に挟むと、浅瀬と唇を合わせて、彼の口の中にカプセルを落とした。飲み込む音がはっきりと聞こえた。

浅瀬は突然体を起こすと、ベッドのマットの間から封筒を取り出し、残った1錠の青いカプセルはそのままにして、2錠の赤いカプセルが入ったケースを封筒に入れると、法子に差し出し、そして言った。

「君は優しい、僕の思った通りだ、もう何も思い残すことはない、薬の説明は逆だったんだよ、僕が飲んだのは安楽死の薬だ、君が僕を殺すわけじゃない、これは僕が望んだこと、君がこちらの薬を僕に飲ませるよう仕向けた、自殺なんだ」

彼女は何も言い返せない。驚きたくて驚こうとしても驚けなかった。

「ここに手紙と二種類の薬が入っている」彼は言葉を継いだ。「玄関までは送る。すぐに立ち去れ。早く立ち去らないと僕の死体を見ることになるぞ。そうなったらすべてが台無しだ。一人になれる場所でこの手紙を読でくれ。これから先君がどう行動するべきか、なぜ僕がこんなことをしたのか、全部書いてある。白水、君と会えて本当によかった、どうもありとう、君が君の人生を歩くことを願っているよ。さあ、行け、もう何も言うな、立ち去るんだ」

浅瀬は部屋の中を駆け出した。玄関に着くとドアを少し開けて隙間から外を覗いた。誰もいないことを確認すると、法子に向かって声を出さず口の形だけで「早く」と伝えた。法子は靴を履いて外に出た。浅瀬は下駄箱の上に置いてあった雑巾で玄関の床を拭き、法子の靴跡を消し去った。


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