歌を歌う女
♪ドゥッドゥドゥッドゥドゥッドゥッドゥルー、ドゥッドゥドゥッドゥドゥッドゥッドゥルー~
「この日付はオレには関係ないな」今朝食べたヨーグルトのパッケージに書かれた賞味期限を見て、言葉が漏れた。
10年ほど前に、自殺しようと川に飛び込んだ女性を助けて、警察から表彰されたことがある。そんな音無夕太郎という男が、今は死ぬことを考えている。
あの時助けた女性は二十代だった。どんな事情があったにせよ、二十代で死ぬことはない。まだいくらでもやり直せるし、なろうと思えば何にでもなれる。自殺を試みることによって。それまでの彼女が抱えていた問題をすべて清算し、未遂に終わったことで新しい人生を歩ける。でも40を超えた自分はそうではない、彼はそう確信している。自殺が未遂に終わっても今の状況は何も変わらない。何からも逃れることはできない。最高の選択肢は死んでしまうことだ。間違って自分を助ける人間が現れないよう、死ぬ場所だけは絶対に選ばなければいけない。
不倫をする男なんて珍しくもない。彼の周囲にも当たり前のようにいた。でも、不倫相手を妊娠させて、しかも相手が中絶に応じないケースはかなり稀だ。確率はどれくらいなのだろう? 1パーセントもないんじゃないか? 彼が知っている限りそんな人間はいない。自分は運が悪かったのだろうか。よりによってそんな女とつきあってしまったということか。
彼の不倫相手はちょうど一回り下の社内の女性だった。名前はユキ。40を過ぎて二十代の若い女と付き合っていたことは、彼のプライドを大きく満足させた。その女を連れて、妻とは決して行かないような値段の張るレストランで月に二度ほど食事をした。その時の彼女は心から喜んでいるように見えた。食事の後のホテルのベッドの中で何度も彼女が口にした「したいことをしてあげる」という言葉がそれを裏付けていた。彼女は喜んで体を差し出している。しかも永遠に一緒にいる必要もない、いつかは終わる関係。終わりがあるからこそ彼女が愛おしかった。
ある日のデートの別れ際、ユキは突然「私、妊娠してる」と切り出した。
「オレの子供?」音無夕太郎は無防備に訊いた。
「他の人とはしてないわ」
「そっか…」
「していてほしかった?」
「そんなことはないよ」
「喜んでくれないのね?」
「それは…、だって…」
「どんな顔するのか知りたかった、…すごく情けない顔してるわ、こっちが惨めになる」
「…堕ろしてくれるよね?」
「こうして話すことだってすごい決断だったの、今ここでわかったとは言えないわ」
「ごめん…」
「何を謝ってるの? もしかして、奥さんに対して?」
「まさか」
その夜はそのまま別れた。
翌日の社内が忙しく回っている10時半過ぎに、音無夕太郎はユキからパントリーに呼び出された。
「私、絶対に堕ろさないから」
「ちょっと落ち着いてくれよ」
「落ち着いてるわよ、ねえ、奥さんと別れてよ」
「無理なこと言うなよ、あとで話し合おう」
「無理なこと? その気がないだけじゃない? 奥さんだって別れてくれるわよ、こうすればね」
彼女はパンツのポケットからカッターを取り出すと同時に、自分の左手首を切って座り込んだ。彼は驚いて声を出すことさえできなかったが、たまたま通りかかった女性が鮮血を見て、「キャー」と声をあげた。彼があたふたしている間に、その女性は一瞬にして我を取り戻し、「救急車呼びます」と電話をかけた。音無夕太郎は自分が何をしたらいいのか、これからどうなるのか、頭の中はほぼ真っ白だった。唯一頭に浮かんだことは、このショックで彼女のお腹の中の子供が流れるかもしれないという期待だけだった。
事態は音無夕太郎にとって、最悪な方向に進んだ。
ユキは十代の頃、リストカットの常習者だった。彼女の手首に傷跡らしきものがいくつかあるのは気がついていたが、リストカットとは無縁の日々を過ごしてきた彼は、その傷跡の意味を理解していなかった。彼女は決して大事には至らないリストカットの方法を心得ていた。お腹の中の子供には影響はなく、すでに妊娠4か月を過ぎ、堕ろしてもらえるよう説得できる残り時間は1か月を切っていた。二人が事件を起こしたちょうどその時、大口の取引先の担当者が来社して会議が行われていた。そこに救急隊員が来たことで風評被害につながる怖れがあり、社内で大問題となってしまった。覚悟を決めて妻に打ち明けたが、専業主婦だった妻は長年連れ添った夫の味方になろうという気持ちのかけらも見せず、「裏切り者」という捨て台詞を残して、小学生になったばかりの息子を連れて実家へ戻ると離婚の交渉を弁護士に一任した。一週間ほど休んだのち仕事に復帰したユキは、「この子を育てるために私は絶対に辞めない」と言い張り、こちらも弁護士を立てて彼に慰謝料を請求した。規模の大きな会社であれば、どちらかをあるいは両方を転勤させるという解決策もあるが、二人の勤務先は東京にしかオフィスがない。彼は仕事を辞めるしかなかった。退職金はそれなりに入るが、妻と不倫相手にすべて持っていかれる。住んでいるマンションを売却してもなんとかローンを全額完済できる程度で、住む家を失うだけで手元に何も残らない。それでも、ボーナス月の支払いや固定資産税を考えると、一人で住み続けるコストも大きすぎる。音無夕太郎が不倫相手にお金を遣えたのは、暗号資産投資の成功が大きく貢献していた。彼は自分のお金の他に一千万近くを借りて暗号資産に投資をしていたが、De-Fiという利回りを稼ぐ方法で、借金の金利分は十分にまかなえた。しかも、相場の上昇とともに資産価値は上がる。つまり、借金をして暗号資産を買っても、暗号資産の利回り収入で借金の利子は払え、暗号資産の価値は上がり続ける。まさにお金を借りれば借りるほど儲かる、これに気がつかない人間はバカだくらいの感覚でいた。ところが、この暗号資産相場が暴落し、De-Fiも上手く行かなくなってしまった。利益を確定して借金を返済するチャンスはいくらでもあったのに、「まだ上がる」と欲を欠いたばかりに、損失と借金だけが残ってしまった。
音無夕太郎は四十代にして仕事も財産も家族もすべて失っただけではなく、借金と今後20年に及ぶ子供の養育費の負担だけが残った。バランスシートのアセットサイドがすべて消えたのに、ライアビリティだけが大きく残り、バランスシートがバランスしなくなってしまった。
会社を辞めてから1か月が過ぎたが、いまだに職探しをする気にならない。仕事を見つけなければと思うことはあっても、すぐに別の考えが頭をよぎる。自分は人生に失敗した。これから20年、その失敗を償って生きていくより、この人生は終わらせた方がいいのではないか? いや、終わらせるべきじゃないか? 自分にとってはそれが一番幸せなはず。
今から4か月後に誕生する不倫相手との子供は、望まれるどころか不幸な十字架を背負って生まれてくる。少なくとも自分は望んでいないし、ユキも意地を張り通した結果、堕ろせる頃を過ぎてしまったのではないか? 彼女だって本当は望んでいないのではないか? もしかしたら自分だけじゃなく、彼女も、これから先何度も何度も、生まれてくる子供がどこかの時点で死んでくれることを願うのではないか?
どう考えても自分は生きるべきではないと思う。自分は何を葛藤しているのだろう? 悩んでいる間に都合よくこの世からいなくなれるなんてことは、まずない。死にたい人間ほど体は頑丈なのかもしれない。
死んでもいいと思うほど美味しいものを食べたら、本気で死ぬ気になるかもしれない。アルコールが入って気が大きくなった方が大胆になれるだろう。音無夕太郎は考えた。
ついこの間まで7時でもまだ明るかったのに、いまはもう6時半でも薄暗い。気温は高くても、真夏の暑さの勢いはもうない。音無夕太郎は晩夏の繁華街へひとり繰り出した。最後の晩餐のつもりで。
駅を西口から東口に抜け、二階の広場に出た。ショッピングモールの入ったいくつかのビルの2階の入り口につながる、人の行き交うタイル張りのスペース。階段を降りた1階にはタクシーとバスのロータリー。ビルの間を抜ければ飲食店の並ぶアーケードへと続く。
♪ドゥッドゥドゥッドゥドゥッドゥッドゥルー、ドゥッドゥドゥッドゥドゥッドゥッドゥルー~
音無夕太郎の耳に女の歌声が聞こえてきた。広場の左手の通路の前で、赤いリッケンバッカーで弾き語りをしている女がいる。二十代だろう。ヒッピーのような極彩色のバケットハットを被り、肩にかかる髪の毛は金色に染められていた。色鮮やかなのはギターと首から上だけで、服は真っ白のワンピース、足元は黒のソックスと白い厚底のスニーカー。ちょうど真ん中が開くように、左右に4人ずつの男の人だかりができていた。音無夕太郎は吸い寄せられるように彼女に近づいた。足元に置かれたフェンダーのロゴの入った黒い小さなアンプからギターの音が響いていた。その横には側面に白い文字で「RICO」と書かれた、蓋の開いたギターの黒いハードケースが置かれ、中には千円札が1枚と数枚の五百円と百円の硬貨が入っている。音無夕太郎は人だかりの真ん中に足を踏み入れてみたが、周りは自分より若い男ばかり。居心地の悪さを感じて、一番奥の端に移動した。彼女は笑顔を浮かべ、彼女を見つめる男たちと一人ずつゆっくりと目を合わせながら歌っている。少し舌っ足らずな歌声と、決して目を背けず笑顔を絶やさない表情の組み合わせは音無夕太郎の心を捉えた。彼女は四小節、時間にしておよそ15秒、一人の男の顔をまっすぐ見つめて歌う。次の四小節は少し体の向きを変え、彼女から見て右隣の男を正面から見つめて歌った。もうすぐ自分の番が回ってくる、そう考えただけで、音無夕太郎は年甲斐もなくドキドキした。
♪ドゥッドゥドゥッドゥドゥッドゥッドゥルー、ドゥッドゥドゥッドゥドゥッドゥッドゥルー~
彼女は音無夕太郎の瞳の中を覗き込むようにこのフレーズを歌った。その声、表情、たたずまい、彼女に見つめられた15秒間、音無夕太郎は痺れて動けなかった。生きるとか死ぬとか、そんなことがどうでもよくなった。
夢のような時間はすぐに終わる。
彼女の視線と体の向きはひとつ前の男に戻った。今度は一人ずつ左隣へと視線を動かしていくのだろう。彼女の視線はどんどん遠くなる、彼女から見て一番右端に立っている彼のところに戻ってくるまでは時間がかかる。
一曲歌い終えた彼女は、「ありがとう、リコです」と短いあいさつをすると、曲の紹介もないまま、次の曲を歌い始めた。
もし彼がYouTubeで彼女の動画を見つけていたら、きっと釘付けになってループ再生をしていただろう。でも、目の前の彼女は現実だ。いつかは演奏をやめてしまう。その姿を見たくない、その前に立ち去りたい、そんな思いにかられた音無夕太郎は、彼女のギターのハードケースに千円札を一枚入れて、彼女の顔を見ずにその場を離れた。
彼女の歌声はまだ聞こえる。最後の晩餐の気分はどこかに吹き飛んでいた。頭の中が彼女で満たされ、死にたいという思いの居場所がなくなってしまった。とにかく死ぬのはいったん延期、ぜいたくな食事も今夜はやめた。アーケードをずっと歩いていた音無夕太郎は中華料理屋を見つけると、チャーハンと餃子のセットを注文し、冷たいビールを飲んだ。
食事を済ませて店を出てはじめて、かなりの距離を歩いたことに気がついた。それでも来た道をそのまま戻りたくはない。アーケードを一本外れて、車道沿いに出た。店の列と車の列の遥か先には駅の建物が光っている。少し風が出て気持ちがよかった。音無夕太郎は駅を目指して、うつむき加減で歩き出した。
雑踏の音の中に、カートが地面と擦れるようなゴロゴロという音が混じっている。彼は顔を上げた。十メートルほど先を白い服を着た女が大きな黒い箱のようなものを括りつけたカートを引きずってこちらに歩いて来る。彼は足を止めてその女を見た。黒い箱はギターのハードケース、白い服を着ているのは広場で歌っていたリコという女。極彩色の帽子はもう被っていなかい。代わりに白いバッグをお腹の前で斜めにかけていた。
視線を合わさずに歩いてきた彼女は、彼の前で立ち止まると、「先ほどはありがとうございました」と軽く頭を下げた。
音無夕太郎はドキッとして 言葉を返せなかった。
「リコです」女は察するように言った。
「ああ、わかります、…すごくいい歌でした、…本当に驚きました」
「気に入ってもらえてよかった」
「またぜひ聴かせてください」
「心にもないことを口にするのはよくないわ、だって死ぬつもりなんでしょう?」
彼はまたドキッとして言葉を返せない。
「顔に書いてあるわ、死にたければ一緒に死んであげてもいいわ、でも、そんなに私の歌を気に入ってくれたのなら、その前に一杯ご馳走していただけませんか?」
「もちろん」
「ビール飲めればどこでもいいです」
「じゃあ、ここは?」彼は言った。二人が立っていた場所はクラフトビールの店の前だった。
「まあ、素敵」彼女は歌っていた時と同じ表情で微笑んだ。
注文をしてからビールが運ばれてくるまでの間、音無夕太郎は何度か彼女の顔を見つめたが、そのたびに彼女ははぐらかすように視線をそらせた。店の中はちょうどいい具合にガヤガヤしている。ここならセンシティブな会話をしても、周囲から聞き耳を立てられることはなさそうだ。ビールが来て、ジョッキを合わせて、意を決したように彼は訊いた。
「顔に書いてあるってどういうこと?」
「私、こう見えてもいろいろと経験してるんです、だからわかるんです、何があったか話してもらえませんか? 何を聞いても私は驚きませんから」
このリコという女はオレに生きろと言うためにここにいるのだろうか? 彼女と出会ったことは運命なのだろうか? 音無夕太郎の頭の中で、そんな考えが生まれつつあった。彼は包み隠すことなく起きたことを話した。話しているうちに、自分の恥をすべて晒してしまえるのは、女の気を引くために自分を大きく見せるのと似たような下心のなせる業のようにも感じていた。リコは適度な相槌を入れながら、彼の目をじっと見て話を聞いていた。
一通りの身の上話を終えると、彼は言った。「話はこんなところだよ」
「お名前伺ってもいいですか?」リコは訊いた。
「音無です。音無夕太郎」
「夕太郎さん、生きていれば楽しい時間はありますよね? 今みたいに?」
「そうだね」
「夕太郎さんと私は一緒です、生きていることは結論を先延ばしにしているだけ、何の解決にもなりません、死んでしまうのが一番いい、でもね…」
「うん…」
「それがわかっていても、人は簡単には死ねないんです、私が歌う時に聴いている人の顔をじっと見ている理由分かりますか?」
「いや、わからない」
「一緒に死んでくれる人を探してたんです」彼女はまた例の微笑を浮かべゆっくりと立ち上がった。「場所を変えませんか? ここはご馳走になっていいですか?」
「ああ、もちろん…」
「ご馳走様でした」
リコはカートを引きずって先に歩き始めた。気がついた店員が「ありがとうございました」と声をかける。彼は彼女の後に続いた。
「行きたい場所ある?」会計をすませ店の外に出て、音無夕太郎は訊いた。
「ラブホテルに行きましょう」リコは答えた。