師弟
校長室の沈黙が痛いくらいだった。
目の前に座る校長は、青い目を大きく見開いて、私を見つけている。何か驚いている表情だったけど、凍りついたようにピクリとも動かない。
偽物だと何か皮肉めいた台詞がすぐに返ってくると思っていたから、こんな反応は予想外だ。
もしかして、やっと彼に師匠だと分かってもらえたんだろうか。
期待に胸が膨らんだ。
「はっ」
突然、校長から笑いが漏れた。目を細めて肩を震わせている。口元に手を当てていた。
「いやいや、偽物二十四人もくれば、だいたいパターンは似通ってくるんですが、この謝罪パターンは初めてでしたね。なかなか真に迫った演技でしたが、結局本の内容に忠実なだけでしたね」
な、なんですってー!? あれでまだ通じないの?
しかも、パンツのことまで本に書いていたの!?
「残念ながら、師匠の辞書には謝るという文字はありません。基本的に他人に興味がない人でしたから。なにしろ出会った頃なんて、風呂上りに屋敷内を裸でうろつき、私が年頃近くになっても下着姿同然だったので注意したら私を痴漢呼ばわりして性転換の魔導を開発して女にするぞって脅すような人ですから。それでも、側にいる限りは私を見捨てなかったですし、魔導に関しては他人の良い点も素直に認める人だったんですよ。世界の厄災を倒して大勢の人の命を救っても全然鼻にかけないような魔導にしか興味がない人でしたけど、一緒に研究するのは楽しかったですし、私にとってはかけがえのない大事な人だったんです」
校長はそう言いながら、遠い記憶に思いを巡らせているようだった。
「本当にあんな人には、二度と会えない。そんな当たり前なことに私は彼女を失ってからでしか気づけませんでした」
呟いた声はとても切なげだった。
一瞬見せた顔つきは、とても泣きそうなものだったけど、すぐに顔つきは元の非情なものに戻ってしまった。
「君は言いましたよね。師匠のフリをするのはこれで最後だと。約束は守ってもらいますよ。さあ今度こそ正直に前世のことを話しなさい」
そう言って校長は冷たい氷のような目を私に向ける。
それを見て、私は絶望に染まっていった。
校長は、本当に私のことを信じてくれないんだ。
大事な師匠だと言ってくれた前世の私と、今の私は全然別人だと、そう彼は言う。
自分を分かってもらえない。切ない悲しみが私を苦しめるけど、校長は全然悪くない。
うっかり死んだ私が全部悪いんだから。
じゃあ、仕方がないよね。
とりあえず謝罪できたし、弟子は立派な校長になって困ってなさそうだし、私は自分の今の人生を守るために行動させてもらうわ。
そう決意した瞬間、私は素早く魔導を操り、校長が張っていた周囲の結界を完璧に上書きした。
これで校長はここから勝手に逃げられない。大きな物音や悲鳴だって外には全く聞こえない。
「君、何をしたんですか!?」
校長が慌ててソファから立ち上がり、私から後ずさった。
彼はすぐに気づいたようだ。この場の支配下が私に置き換わったことに。
「何って、結界を張っただけよ」
これから校長先生を口止めする必要があるから。それは言わずにおいた。
敵意を微塵も感じさせない笑顔を校長に向ける。命まで取るつもりはなかったからだ。
でも、校長は明らかに狼狽えて顔色を悪くした。
「——何をするつもりなんですか?」
私は微笑みながら、魔導で捕縛用の紐を練りだし、校長の身をしっかりと捕えた。彼をソファに無理やり倒し、彼の身動きを完全に封じる。
綺麗な彼の顔が明らかに焦っていた。自由になる顔と目だけが落ち着かない様子で動いている。
「前世の記憶持ちって周囲にバレたら面倒なの」
だから、彼が口外しないように呪いを施すつもりだ。
現世では私と彼は赤の他人だから、私にはお構いなしに彼は誰かに情報を伝えてしまうかもしれない。
それを私は避けたかった。
だって、彼は言っていた。国としては野放しにできないと。また絶対服従の誓約をさせられて命令に逆らえなくなるのは避けたかった。
二度と魂を売る真似はしたくない。
監視のない下級魔導士くらいの資格を得られれば私は十分だった。
下級の仕事は、通信の係員や建築工事の作業員とか、城を一瞬で作れる私にとっては地道に釘を一本ずつ打つような雑用みたいな仕事ばかりだけど、私生活までは干渉されない。それがどれだけ大事なことか、前世で嫌というほど理解している。
私は自分の手のひらの上に魔導で術式を展開して、彼を呪うための準備をする。
何をされるのか分かったのだろう。校長の顔色が一気に青ざめた。
ごめんね。だって、私の話を全然信じてくれない彼を説得できるとは思えなかったんだもの。
そのときだ。
緊急を知らせる半鐘が聞こえてきた。激しい連打は、火災を意味している。
けたたましい音が緊急な状況を知らせていた。
「非常事態ですから私を解放してください! 後であなたの話を聞きますから!」
「私も火事は心配だから一時中断するけど、私のことは内緒にしてね!」
「分かりました」
すぐに彼を自由にすると、私たちは最速で校長室を出て、揃って火災現場に向かう。
途中、校長は他の先生に通信の魔導を使って的確に指示を出していた。
学校は初等部から高等部まであるので、何棟も敷地内にある。校長室がある事務棟から離れた場所にある高等部で火事は起きていた。
現場近くの建物の側では、学校に残っていた生徒が野次馬で集まっていた。他の先生たちもいる。不快な燃焼の臭いが辺りに漂っている。
「建物内には生徒は残っていませんか!?」
「います! 先生助けて! 火が回って逃げられなかった人がいるんです!」
校長の問いに生徒が泣きそうな顔で叫んできた。
見上げる現場はひどい有様だ。建物は四階建てだが、その三階部分で火が物凄い勢いで広まっている。何か誤って火がついたというレベルではなかった。
集まった先生たちが外から水の魔導を使って必死に消火に当たっているが、焼け石に水といった感じだ。
「くそっ、火の勢いが酷すぎる! これじゃあ、助けにも行けない!」
「一体、何が起きたんだ!?」
他の先生たちが困惑気味に叫んでいる。
「では、私が中に助けに行きます」
校長が迷いなく決断して動き出したので、私はびっくりして彼の腕を掴んで制止した。
「火の回りが速すぎるわ。暴れ火龍系の魔導をうっかり使ってしまった生徒でもいたんじゃない? それなら普通の消火では対応できないわよ」
マナを自動的に消費して火炎が動き続ける厄介な攻撃系の魔導である。水をかけても無駄である。
校長は話を聞いて顔色を変えた。
「まさか、生徒がそんな高度な魔導を!?」
「素人ほど意外な魔導を展開してしまうことがあるでしょ。あなたも転移の魔導に失敗して壁に体がめり込んだことがあったじゃない」
私がそう言うと、彼は驚いたように目を見張ったが、反論はしてこなかった。
むしろ恥ずかしかったのか目を逸らして顔を赤らめていた。
「そのあなたの説が正しいなら、マナを除去した方が早いですね」
「そうよ。今の消火が効かないなら、結界で範囲を狭めて、マナを集めるの。火龍に使われる前に」
魔導はマナがなければ使えない。
「わかりました。では、先生方に手伝ってもらいましょう」
校長の指示により、水を使って消火していた先生たちは各々の魔力でマナを操って除去作業に取り掛かる。
すると、目に見えて火の勢いが減少した。
「建物内に残っている火は、普通に消火できるはずよ。校長先生、行きましょう」
私が校長についていこうとすると、「君は残っていなさい」と他の先生が制止してきた。
「いや、彼女はいいんだ。私についてきなさい」
校長が躊躇なく私の手をつかみ、ぐいぐいと力強く引率していく。
先生たちも焦げ臭い建物内に入り、生徒たちを探し始める。残った火を消しつつ、生徒を見つけ次第、選別を行い、治療の優先度を決めていく。この場にあるマナは限られている。だから、残念ながら使える量にも限界がある。
煙を吸って倒れた人がほとんどなので、有害な煙を吸って意識がない容体が重い生徒から順に魔導で新鮮な空気を体内に素早く送り込み、同時に毒を除去していく。先生たちも手分けして迅速に救助していくので、状況は次第に良くなって行く。
ところが血相を変えた先生の一人が駆け込んできた。
「来てください! 重傷者がいました!」
「行きますよ」
校長の掛け声と共に彼に手を握られる。強引に一緒に連れられて向かった先には体の大部分が焼けてしまった男子生徒がいた。顔すら判別がつかない。まだ辛うじて生きているが、すでに虫の息だ。
「これはひどい。早く治療しないと」
顔色を変えた先生たちが慌てて治療を開始するが、みんなの顔色が突然変わった。
「マナが足りない……!」
悔しげな声が響き渡った。
空間に占めるマナの量には限りがある。火炎系の魔導で消費し、さらに消火や救助でこの建物内で使いすぎていた。時間の経過と共にマナは回復するが、それまで生徒が保つとは思えなかった。
生徒を連れて移動しても、手遅れになる恐れがあった。
でも、私なら彼を助けられる。
私はマナ認知範囲が人よりも遥かに多いから、普通の人よりも多くのマナを扱える。それが大魔導士と立派な称号で呼ばれるようになった所以だ。
大魔導士だとばれるとか、そんなこと迷っている暇はなかった。
人の命がかかっているんだから。
私は慌ててマナを集めて、隣にいた校長にこっそり渡す。彼は一瞬だけ「え?」みたいな驚きの顔をしたけど、すぐに私の事情を察してくれたのか何食わぬ顔でマナを私から受け取ると、さっそく生徒の治療を開始してくれた。
「おお! さすが校長先生!」
校長がマナを集めて助けたと、周囲がうまく誤解してくれたようだ。
隠れて胸をなでおろす。咄嗟の苦し紛れの機転だったけど、校長も協力してくれたおかげで、なんとか私が目立たずに済んだわ。
重症だった生徒もかなり皮膚が治ってきている。良かった。無事に危機を脱したみたいだわ。
それから建物内の確認が全て終わり、生徒全員の救出と手当てが完了した。幸いなことに死亡者はいなかった。
救急隊が到着したあとは、負傷者を担架に乗せて運んでいく。何人かの先生が付き添いでついていく。
マナを散々扱って魔力も消費したのだろう。残った先生たちの疲労の色は濃かった。
「今日はご協力感謝いたします。ご両親も心配するでしょうし、あなたはもう帰りなさい」
校長も疲れた顔で私に帰宅を促してきた。
「えっ、でもまだ話は終わってないわよ」
彼の口止めがまだ途中だった。でも、校長はなぜか優しげに私に向かって微笑んだ。今までの冷たい態度が嘘のように。
もしかして救助を手伝ったから、彼の中で私の株が上がったのかしら。
「大丈夫です。あなたにとって悪いようにしませんから。また後日に会いましょう」
「そ、そう? それなら分かったわ。絶対に約束は守ってもらうわよ。よろしくね」
数日後、学校の掲示板で火災事故の報告書が貼られていた。どうやら私の推測どおり、生徒が間違って暴れ火龍の魔導を発動させてしまったようだ。生徒が同級生を驚かそうと小さい火種を虫のように発動させるつもりが、あんな大事故に繋がったらしい。学校内では先生の立ち会いがないと生徒は未習得の魔導の使用を禁じられている。
火災を起こした生徒は、二週間の停学処分を下されていた。
その張り紙があった当日に私はついに校長室に再び呼び出された。
部屋に入ると、校長はデスクで事務処理をしていた。私は勝手に応接セットのソファに座りこむ。結界も同時に作動して抜かりはなかった。
「すみません、話が遅くなって。火災の後処理に追われていて、落ち着いたのが昨日だったんです」
「まぁ、仕方がないわよね。校長先生お疲れ様」
校長は約束どおり私のことを黙っていてくれたようだ。だから、別に不満を抱いていなかった。
火災のあった高等部の校舎は元どおりの状態に戻ったらしい。陰で先生たちが必死に魔導を使って復旧に勤しんでいたようだ。忙しかった事情を私なりに察していた。
校長は作業の手を止めると、私をじっと見ていた。何か物言いたげな顔をして。
前回までは呼び出した彼から散々警戒されていたけど、今はその刺々しい雰囲気を彼から感じなかった。
彼は席を静かに立つと、私の方に真っ直ぐに近づいてきた。前回同様向かいのソファに座るかと思ったら、なんと私の目の前までやってきて、いきなり私の真前で跪いた。その見上げる彼の表情は、とても思い詰めた感じだった。なぜか泣きそうに顔を歪めている。
彼は膝の上にあった私の手を握り、意を決したように口を開く。
「……師匠」
「えっ!?」
全然信じてもらえなかった彼から「師匠」と急に呼ばれたことに驚いて、思わず彼を凝視する。
彼は潤んだ目で私を食い入るように見つめていた。
「申し訳ございません」
唐突に謝罪してきた彼は、少し気まずそうに目を伏せる。
「校長室でいきなり師匠に襲われて、そこでやっと本物の可能性に気づいたんです。火災現場でも、あなたが師匠と私しか知らない私の失敗話をされていたので、ますます信じざるをえませんでした」
あの壁に埋もれた過去話ね。どうやら自分の失敗話は本に書かなかったようね。
「それにマナが不足したあの状況でマナを集められたのは、師匠でなければできませんでした」
なるほど。あのときには私が師匠だと校長は分かっていたのね。だから、私の存在を隠してくれたんだ。
突然の彼の謝罪の意味をやっと理解できた。
「分かってくれればいいのよ」
そう答えると、彼は期待に満ちた眼差しを私に向ける。
「——どうか私の名前を呼んでください。かつての名で」
「マルク」
すぐに答えると、彼は嬉しそうに相好を崩した。その眩しい笑顔から彼の万感の思いを感じて、胸に迫るものがあった。
ようやく本当の意味で彼と再会できた気がした。
「師匠、本当に師匠なんですね。信じられない。本当に生まれ変わって私に会いに来てくれるなんて」
彼は言いながら涙を流していた。
「前にも言ったけど、あなたに謝りたかったのよ」
「ええ」
マルクはそう答えるや否や私の胸に飛び込むように抱きついてきた。私の体に彼が顔をうずめる状態となっている。
硬く引き締まった彼の体の感触がじかに伝わってくる。
彼とこんなに密着したことなんてあっただろうか。彼の意外な行動に驚いたけど、彼が肩を震わせて嗚咽していたので、申し訳なくなって彼にされるがままでいた。
「ごめんね」
私が幼いころ、今の両親にされたように彼の頭に手を添えて優しく撫でた。銀糸のような彼の髪は、サラサラで手触りがとても気持ち良かった。
何か香水のような良い匂いまで彼から漂ってくる。
しばらく抱き合っていたけど、やがて彼は気持ちが落ち着いたのか、ゆっくりと顔だけを私から離した。まっすぐに青い目を私に向ける。濡れた睫毛から雫が一つ落ちたとき、ひと際美しく輝いた気がした。
私はそれをとてもきれいだと思った。
「申し訳ありません。すぐに師匠だと信じられなくて。偽物が多かったため、どうしても疑い深くなってしまって」
「ううん、気にしないで。私こそごめん。無理やり口封じしようとして。でも、誓約は本当に嫌だったの」
あの存在を思い出すだけで、簡単に追いつめられるくらいに。
必死に言い訳を口にしたら、声が震えていた。
「ええ、そうですよね。お気持ちは分かります。……だから、私もあれから色々と考えたんです」
気遣うようだった彼の顔つきが、途中で変わって真剣なものになる。
「え、何を?」
「今日から師匠が私の弟子になればいいんです」
「え、弟子? どうして?」
思わず目を瞬いた。
「私の弟子になれば、あなたの後見人になれます。そうすれば、あなたを守ることができます。火災の時みたいにあなたが目立たないように手助けも可能でしょう」
マルクの気遣いに思わず胸を打たれた。でも、素直に受け入れられなかった。
「あなたの気持ちは嬉しいけど、マルクに迷惑ばかりかけることになるわ。それに、あなたの弟子になったら、かえって目立たない?」
彼は魔導学校の校長だもの。さぞかし優秀だと注目される恐れがあった。
「大丈夫です。私にも利点がありますから。私も弟子をとれって上から言われているんですよ。知らない相手よりあなたがいいです」
「そ、そう?」
「はい。それにドラゴンを一撃で倒して、入学試験であれだけの結果を出しておいて、まだ隠し通せると? 校長の私なら、あなたに協力できますし、フォローもできます。お互いによい話だと思うのですが」
「あう」
何も言い返せなかった。
「じゃあ、決まりですね。さっそく手続きをしましょう」
そう答える彼の表情がとても喜びに満ちていて、微笑む彼から色気が滲み出ている。しかも、いまだに彼の両腕が背中にまわっているので、彼の感触を否応なしに意識してしまう。
記憶では子どもだった彼が、今では立派な大人になっているのだから。
「そ、そういえば、マルクはいつまで私に抱き着いているの?」
抱き合ったまま会話を続けるのは、そろそろ心臓に悪くなっていた。
そわそわと落ち着かない。体温がぐっと上がった気がした。顔まで火照ってくる。
「どうしてだと思いますか?」
いたずらに目を輝かせるマルクの顔は、先ほどまで泣いていたとは思えないほど、楽しそうだった。私をまだ解放する気はないようだ。
「他の人に見られて誤解されたら大変よ」
すると鼻で笑われた。
「あなたの結界があるから見られないじゃないですか。でも、もしみんなに知られたら、責任をとりますから大丈夫ですよ。それよりも、私はあなたに先日の件で伝えたいことがあるんです」
「あう」
急に彼の声のトーンが低くなり、怒られる予感がして、反射的に黙らざるを得なかった。
それにしても誤解されたら辞めるつもりだとは。彼の教師としての高い矜持を感じた。
「私を拘束してあんな風に実力行使するのは、あなたらしくて私は好きですけど、他のやり方もあったと思いませんか? 私は質問をしていただけで、あなたを害する気配はまだなかった。実力はあなたの方が圧倒的に優位なんですから、もっと相手の意図や動きを確認してからでも遅くはなかったと思いますよ」
「そうですよね、ごめんなさい」
彼の説明はごもっともだ。素直に謝るしかない。現にあの後すぐに火災が起きて、彼は私が師匠だと気づいてくれたのだから。どうやら少し私は短慮だったようだ。
「前世の頃から言っていたんですけど、やっと聞く気になってくれて嬉しいです。前世の行いも反省されているみたいですし、これからは私があなたを指導します」
「は、はい。よろしくお願いします!」
弟子が立派な先生になっている。私の目に浮かぶ涙は、きっと感動のお涙よね。自分の情けなさを嘆く涙ではなく。
「なら結構です。それでですね、正式に弟子となったら、私の屋敷で暮らしましょう」
「え?」
私が戸惑いの声を上げると、マルクの目つきが鋭くなって私を見据えていた。
「まさか、私への謝罪は全て口先だけだったと?」
「いえいえ、滅相もない! 土下座を覚悟するほどの反省よ!」
「では、今日にでもあなたのご両親に挨拶しに行きましょう。あなたは目を離した隙に転倒して死んでしまう人ですから、しっかり見守らないと」
「あう」
かつて弟子だったマルクの言葉に何も言い返せない。ううう。
「いっそのこと、あなたを閉じ込めて監禁したいくらいなんですよ」
師匠になった彼がそう恨めしそうに呟きながら、私をさらにぎゅっと両腕で抱きしめるので、私に対する恨みの深淵を感じた気がした。
「私が師匠だと分からなかったとはいえ、あなたは私に口止めの呪いをかけたあと、私から距離を置くつもりだったのでは?」
彼は言いながら私の体を力いっぱい抱きしめてくる。ギリギリと締めあげるみたいに。
しかも、図星で怖い。たしかに彼の言うとおり、師匠だと分かってもらえないなら、口止めの呪いをしたあとは彼に関わるつもりはなかった。
彼の瞳はいつもは澄んだ海のように青いのに、今は昏く淀んだ色で私を見上げている。
このままではマズイ。身の危険を感じる。話題を変えなくては。
「そ、そういえば、マルクにはその、一途に思っている女性がいるんでしょ? 黒薔薇って呼んでいる彼女が」
そう話題を振った瞬間、彼の腕の力が明らかに緩んだ。しかも、彼の機嫌が少し直ったようだ。少し頬が赤くなった気がする。
「ええ、よくご存じですね。本を読んでないと言ってましたが、もしかして誰かにお聞きになりましたか?」
「うん、友だちが話していたの。どんな人なの? きっと素敵な人なんでしょうね」
彼はちょっとの間のあとに意味深な笑顔を浮かべる。
「……ええ、今度鏡を持ってきてご紹介いたします」
「ええ、楽しみにしているわ!」
私は精一杯満面の笑みを浮かべたつもりだけど、彼の反応は微妙だった。
いまいち嬉しくなかったみたい。何かまずい返答だったかしら?
全然心当たりがなくて首を傾げると、彼はやれやれと言わんばかりにため息をついた。それからやっと私から体を離してくれた。
よく分からないけど、彼女の話はやっぱり効果てきめんだったみたいね!
ところで好きな人を紹介するときに鏡が必要なのって、どうしてなのかしら?