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トラウマ

 校門まで走って逃げてきた。魔導を使って補助していないので、息が上がってしんどかった。立ち止まって呼吸を整える。


 あの場にいられなかった。制御できない恐怖心で体が支配されていた。こんな状況は初めてだ。いまだに身体が震えている。


 マルクが私の嫌がることをするはずないと思っているけど、あの男の息子らしき人を彼の立ち合いの元でわざわざ私に会わせた理由が分からなかった。


 ああ、でも彼もあの男の指示には逆らえなかったのかもしれない。

 かつて彼が子どものころ、無抵抗で王太子に殴られていた。私だって結局国には逆らえなかったのだから、彼だけを責められなかった。


 三十年間、マルクは何を想って過ごしてきたんだろうか。


 彼の今の生活は、魔導よりも役職に付随する対応ばかりだ。マルクと魔導を研究していた、あの輝かしい日々は、もう二度と戻らない。

 そう思うと、失ったものは命だけではなかったのかもしれない。


 あれほど好きだった魔導が、今は遠く感じる。


 私が私らしく生きることを願っていると言ってくれたから、彼なら完全に嫌なことから守ってくれると漠然と期待してしまっていた。彼だって苦しい立場なのに甘えすぎていた。


「ん?」


 今の自分の思考に引っ掛かりを覚えた。甘えていたという、その言葉に。


 無意識だった自分の行動を改めて認識して驚いた。気づいた途端、どんどん恥ずかしくなってきた。

 元とはいえ彼の師匠として七年も勤めたのに。


「あうぅ」


 思わず頭を抱えた。顔から湯気が出そうなくらい熱く、穴があったら入りたいくらいだった。

 当時百年近く生きてきて情けなかった。


 しかも、あの息子から逃げてしまったから、彼の顔に泥まで塗ってしまった。どの面下げてマルクに会えばいいのだろうか。


 なんとなく彼の家に帰りづらかった。


 今日は自分の実家に行こうかな。そう考えて、いつもとは逆の方向に足を向けたときだ。


「ミーナ!」


 マルクの声がした。振り向けば、彼が追いかけていた。しかも、その後ろにあの男の息子までついてきている。ゾッとした。


「来ないでよ!」


 やはり拒否反応が襲ってきて、怖くて仕方がなくなる。咄嗟に走って逃げた。

 必死だった。通りには人が大勢いたけど、なりふり構う余裕などなかった。後ろを振り向かず、ひたすらに走っていたら、急に体が見えない力で捕獲された。前に反動が来たと思ったら、今度は後ろにスライドするように引っ張られて、マルクの腕の中に飛び込むように体が収まっていた。


「いきなり大通りに飛び込んだら、ひかれますよ」


 指摘を受けて前を向けば、確かに私は通行の多い道にもかかわらず、左右を確認せずに突っ込もうとしていた。

 馬車だけではなく、魔導で動く公共の乗り物までも行き交っている。その脇を避けるように多くの通行人がいた。


 きょろきょろと周囲を見回して、あの男がいないことを確認してから、ホッと胸を撫で下ろした。


「彼はいないです。ついてこないように、言っておきましたから」

「そう」


 走っていたせいで、息が上がっていた。彼も同じように息遣いが荒かった。全身を動かして燃えるように体が熱い。彼から伝わる体温もかなり高いのに、私を抱きかかえたまま離さなかった。


「あの、ごめん」


 迷惑をかけたと感じていたので、謝罪を思わず口にしていた。


「……なぜ謝るのですか?」


 頭上から彼の声が降ってくる。こちらの様子を窺うような、慎重そうな声だった。怒っていないようで密かに安堵した。


「マルクに迷惑をかけたから。……今日来たの、あの男の息子でしょう?」


 思い出すだけでも気分が悪くなってくる。


「そうです。でも、なぜ分かったんですか?」

「そっくりだよ。嫌ってほど」


 マルクの息をのむ音が聞こえた。


「そうだったんですね。すみません。そこまで気が回りませんでした」

「ううん、私が悪いよ。本人じゃないのに似ているだけでダメだった。それにね、きっと近い将来、マルクの弟子なら、あの男とも会わなきゃいけないよね? でも、本当にごめん。私には無理なの。でも、マルクは弟子がそうだと困るよね」


 堰を切ったようにまくし立てたら、急に彼の手で口を塞がれた。


「失礼します。とりあえず、今はここで話すより、帰りましょう。あなたの実家ではなく、私の屋敷へ」


 ぎゅっと彼に手を握られる。来た道を戻るように歩き始めるので、大人しくついていった。


 歩いている最中、ずっと彼は無言だった。それが拒絶のように感じるけど、彼の手が私に触れているおかげで、かろうじて違うと分かる。


 屋敷に到着して中に入り、そのまま私の部屋に連れ込まれる。

 やっと手を離されるのかと思いきや、再び抱きしめられた。ギュッと力を込められる。息遣いが荒々しくて、彼の強い感情が伝わってきた気がした。やはり怒っているのだろうか。


「マルクごめんね」

「謝るのは私のほうです。無神経なことをして申し訳ございませんでした。現在あの男は年を取って中年男になっていたので、若い頃の顔なんて覚えてなかったんです。あなたに言われるまで、似ていることを失念していました」

「ううん、マルクは悪くないよ。ごめん、怖くて仕方がなかったの。それより、いきなりあの息子が現れたのはどうして?」

「私の弟子にただ単に興味があっただけだと思います。先触れなく来るとは思っていなかったので、突然会わせることになり、申し訳なかったです。でも、危険な人物だったら決して会わせはしませんでしたよ。あの男みたいに話が通じない方ではないので、ご安心ください」

「そっか」


 マルクに他意はなかったみたいで少し安堵した。


「ところでミーナ」


 急に彼の声色が変わった気がした。少し感情的に。しかも、私の背中に回していた腕の力がぐっと加わったせいで、彼から不穏な気配を感じた。


 彼を見上げると、彼の目から光りが消え、昏い深淵の穴を覗いているような色をしていた。


「まさかと思いますが、あの男に会うのが嫌だからと、私の弟子を辞めると言い出すつもりだったんでしょうか? だから実家に帰るつもりだったんですか?」

「ち、ちがうよ!」


 慌てて首を振る。


「前にマルクが言っていたでしょ、私は短慮だって。だから、マルクに相談してから判断しようと思っていたよ? それに家に帰ろうと思ったのは気まずかったから、顔を合わせづらかっただけだよ」

「それはよかったです。元々あの男に会わせるつもりもないですし、万が一遭遇しそうなら、きちんと予告します。愛妾にもさせないので安心してください」

「うん」


 説明しながら明らかに彼も安堵していた。よほど私に弟子を辞められるのを恐れているようだ。彼がそれほど弟子の件で困っていたとは知らなかった。


 それとも、前世で彼と喧嘩したとき、すぐに「弟子を辞めてもらってもいいんだよ」と脅していたせいだろうか。今思うと、あれは師匠の立場を利用した、酷く悪いやり方だった。あんな人を試すようなやり方じゃないと人を信用できないほど、私は心の弱い人間だった。


「私は弟子を辞めないよ。マルクこそ安心してね」

「——でも、私に対しても怒っていましたよね? なぜ息子がいたのかと」

「それは、うん、実はちょっとだけ。でも、マルクも国には逆らえないから仕方がないよね」


 諦めたようにつぶやくと、彼にぎゅっと思いっきり抱きしめられた。


「私は、絶対にあなたを裏切りません。それだけは約束します。信用できないなら、私に下僕の呪いをかけても構いません」

「わ、分かったから落ち着いて! ごめんね、ちょっとだけ疑って!」


 本当に?と尋ねるようにマルクが私の顔色を窺ってくる。その目は少し不安そうに揺れていた。まるで捨てられた子犬のような心細さまで感じる。そこまで彼を弱らせてしまい、とても申し訳なくなる。彼の両頬を手で包み込むように触れて、安心させるように微笑むと、彼も嬉しそうに笑顔を返してくれた。


「ところで、そろそろ離れてもいいかしら?」


 まだ彼に抱きしめられていた。逞しい体に包まれて、居心地はいいんだけど、緊張して落ち着かない。


「もしかして、ドキドキしてますか?」


 そう尋ねる彼の声が、明らかに楽しそうだった。


「う、うん」


 こちらは恥ずかしいのに、彼は余裕な態度だ。私と違って何も感じていないらしい。


「そういえば、前に誰にだってドキドキするって言ったけど、あれ違ったわね」

「どういうことですか?」

「さっきあの人に触られそうになったとき、すごく嫌だったの。だから、誰でもってわけではないのね」


 前世では抱きしめられた経験がなく、現世では抱っこして可愛がってくれたのは家族だけだから、新たな発見だった。つい前世のように研究の成果を分かち合う感じで彼に話していた。


「……それは私だけにドキドキするってことでしょうか?」

「うーん、どうだろう? 他の人で試したことはないけど」

「試さないでください絶対に」


 マルクは絶対にですよと念を押すように強く注意してくる。目が、目力がすごい。私がコクコクと必死にうなずいたら、やっと解放してくれた。


「はぁ、あと二年は長いですね」

「二年?」

「いえ、なんでもありません。ところで、ミーナは私の手記を読まれましたか?」

「……いいえ?」


 いきなりの脈絡のない質問に戸惑いながらも正直に答える。

 パンツが書かれていたのなら、他も色々と書かれているだろう。彼の恨み節つきで。自分の黒歴史をわざわざ見るつもりはなかった。


 すると、一拍の間を置いたあと、彼は困ったように微笑んだ。

 もしかして売上に貢献していなかったのは不義理だった?


「ごめん、お小遣いを貯めたら買うつもりだったの」


 彼はそれを聞いて吹き出していた。


「わざわざ買う必要はないです。本なら私の書斎にありますよ。あと、すみませんが、私はこれから学校に戻ります」

「うん。わざわざごめんね。追いかけさせちゃって」

「いえ、謝罪する必要はありません」


 そう言われたとき、前に指摘された点を思い出した。


「そっか。ありがとうマルク」

「はい」


 今度は嬉しそうに微笑むと、部屋から出ていった。

 先ほどまで不快だった気持ちがもう落ち着いている。彼とじっくりと話し合えて良かったと心から思った。


 着替えでもしようとクローゼットに気分良く向かう。


 でも、このときの私は、まさか自分がもうすぐ大魔導士として広く世の中に知られることになるなんて、思いもしなかった。



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